知識はあるのに決められない人、決められるのに動かない人。どちらも組織にいます。安岡正篤はこの差を「知識・見識・胆識」の三段階で説明しました。三識とは何か、それぞれをどう鍛えるか、そして人を見るときにどう使うかを、古典の言葉とあわせて見ていきます。
三識とは — 知識・見識・胆識
安岡正篤が示した三段階
三識(さんしき)とは、知識・見識・胆識の三つを指します。人物として大成するには、この三つを順に鍛えることが必要だ、というのが安岡正篤の考え方でした。
三つの関係は、山口勝朗『安岡正篤に学ぶ人間学』(致知出版社)に簡潔にまとめられています。
知識とは理解と記憶力の問題で、本を読んだり、お話を聞いたりすれば知ることのできる大脳皮質の作用によるものです。
知識は、その人の人格や体験あるいは直観を通じて見識となります。
見識は現実の複雑な事態に直面した場合、いかに判断するかという判断力の問題だと思います。
胆識は肝っ玉を伴った実践的判断力とでも言うべきものです。
困難な現実の事態にぶつかった場合、あらゆる抵抗を排除して、断乎として自分の所信を実践に移していく力が胆識ではないかと思います。
知識は覚えること。見識は判断できること。胆識は実行できること。この順で深くなります。
「識」とは心のこと
三つに共通する「識」の字は、心という意味合いを持ちます。だから、
- 知識……知の心
- 見識……見の心
- 胆識……胆の心
と読むこともできます。知識だけが情報で、見識と胆識が心の問題なのではありません。三つとも心の状態を指している、という捉え方です。
安岡正篤とは
昭和の時代、多くの政治家や財界人から「心の師」と仰がれた人物です。吉田茂から中曽根康弘まで、歴代総理の多くが師事しました。「平成」の元号の発案者とされることでも知られます。
その教えの中心にあったのは、東洋古典を人物の修養として読むという姿勢でした。三識も、知識論というより人物論として語られています。
知識とは
土台であって、邪魔ものではない
三つのうち、いちばん分かりやすいのが知識です。学校で習う学問的知識、職業上の実践的知識、教養や文化の知識——さまざまな種類があります。
「知識がいくらあっても実践には役立たない」「余計な知識は邪魔になる」と言われることがありますが、そんなことはありません。膨大な知識を蓄えているからこそ、その中から大切なことを見分けられる(見識)のであり、実行に必要な手順を把握したりリスクを避けたりできる(胆識)のです。
一流の棋士は、過去の膨大な数の盤面を知識として持っていると言われます。だからこそ実戦で、さまざまな打ち手をシミュレーションできる。知識は判断の材料であって、判断の代わりではない、というだけの話です。
何を学ぶか — 三つの領域
仕事をする人にとっての知識は、おおよそ次の三つに分けられます。
- 自己成長のための知識……人間力の高め方、時間の使い方、人間関係のとらえ方など
- 職業的な専門知識……技術者なら技術、法務なら法律、経理なら会計と税務、営業ならコミュニケーションやプレゼンテーション
- 教養としての知識……歴史や文化
幅広く、かつ深く学ぶこと。それが次の見識への道を開きます。
見識とは
判断の基準を持つということ
見識とは、自分の経験と培われた価値観によって、この場面ではこうする、という判断の基準を持っていることです。
「見」という字は「人」と「目」が重なった形で、目立つものが目に留まる、という意味を含むとされます。膨大な知識が蓄えられているなかで、その局面ごとにどこへ注目すべきか——その視点を持てることが見識だ、と解釈できるかもしれません。だから複雑な事態に直面しても判断ができます。
「本を務め、本を立てる」
安岡正篤は、知識と見識についてこう語っています。
(内憂外患)の時局になると単なる知識ではだめでありまして、すべてに見識というものが必要です。そして見識が出来ると自ら勇気が生じてまいります。しかし、その見識を養うには、われわれの生活、感情、情操、学問、思想、教養といったものを雑駁、煩瑣にわたらせないで、本を務め、本を立てることが大切であります。(「人物を修める」)
本を務めるとは、人間としての基本をしっかりさせることです。見識を養う道は、知識を足すことではなく、基本を立てることにある、と言っている。
では人間としての基本とは何か。安岡正篤の言う「徳性」——礼、敬、愛といった心のことだと考えてよいでしょう。正しい判断ができるようになるためには、徳性を磨いて見識を高める必要がある、ということになります。
もう一点、見逃せない一言があります。見識が出来ると自ら勇気が生じてくる。この一文が、次の胆識へつながる橋になっています。
見識を養うには
- 優れた師に就いて、局面ごとの判断を間近で学ぶ
- 歴史上の人物の伝記を読み、自分に置き換えて考える
- 日々の生活を自ら省み、価値観を明確にしていく
いずれも、情報を増やす方向ではなく、基準を固める方向の営みです。
胆識とは
知ることは難しくない、行うことが難しい
胆識とは、実際に物事を行うことです。胆力の伴った見識と言えます。
この段の難しさを、王陽明が弟子に語った一節が言い当てています。
或疑知行不合一,以「知之匪艱」二句為問。先生曰:「良知自知,原是容易的。只是不能致那良知,便是『知之匪艱,行之惟艱』。」
書き下し: 或るひと知行の合一せざるを疑い、「之を知るは艱きに匪ず」の二句を以て問と為す。先生曰く、「良知は自ら知る。原と是れ容易的なり。只だ是れ那の良知を致す能わざるは、便ち是れ『之を知るは艱きに匪ず、之を行うは惟れ艱し』なり」と。
知ることは難しくない。行うことこそ難しい。分かっているのに動けないという状態は、王陽明の時代からずっと人の課題でした。
知と行は、二つでありながら一つ
佐藤一斎は『言志四録』で、知と行の関係をこう書いています。
知は是れ行の主宰なり、乾道なり。行は是れ知の流行なり、坤道なり。合して以て体躯を成す。則ち知行は是れ二にして一、一にして二なり。
知は行を導くもの、行は知が流れ出たもの。両方が合わさって一つの体を成す。知識・見識・胆識も、順に別の能力が積み上がるのではなく、一つのものの深さの違いだと読むほうが、実感に近いはずです。
胆識を鍛えるのは、責任感
胆識には、実行に踏み切る勇気、困難にぶつかっても進み続けること、最後までやり切る粘りが含まれます。こうした力を育てるものは、何より責任感を伴った経験です。
経験だけでは、単に「仕事をこなした」で終わりかねません。責任が伴っていることが大切です。そして、どれだけ大きな責任感を持てるかが、その人の胆識の大きさを決めるのだと思います。社長であれば、自分の経営判断に社員全員の生活が懸かっている。責任感は自然と高まります。
部下に仕事を任せるときも同じです。その仕事の成否に、どれだけ多くの人が関わっているかを認識させられるかどうか。そこが胆識を育てられるかの分かれ目になります。
三識で、人の成長を見る
三識は、人を見るときの物差しとしても使えます。日々のやり取りだけで、かなりのことが分かります。
知識どまりの人
何かを聞けばすぐ答えが出てくる人は、知識があります。日々勉強し、本を読み、業界の情報にも詳しい。
ところが「では君はどうしたいんだ、どう考えているんだ」と聞いたときに、「それは自分には分かりません。こういう方法もあるし、こういう方法もあります」と返ってくる。ここで止まっていれば、知識はあるが、そこから大切なものを見分ける力がまだないということになります。
見識がある人
同じ問いに「この方法が良いと思います」と答えられる人は、自分の見識を持っています。仕事を任せるに値するかもしれません。
しかし、まだ判断はつきません。もう一段、胆識を見る必要があります。
胆識がある人
「その方法が良いのであれば、君がやってくれ」と伝えたとき、「いえ、私にはとてもできません」と返ってくるなら、見識はあるが胆識がない、ということになります。
「もちろん、私がやらせていただきます」と返ってくるなら、それは自分が実行することを前提にした見識であり、胆識を持っていると判断できます。
三識がそろっている人にはどんどん仕事を任せ、そこまで至っていない人には、足りない段を鍛えてもらう。育成の設計としては、それだけのことです。
自分に当てるときは
最後に、この物差しを人ではなく自分に当てる場合の一句を挙げておきます。佐藤一斎の言葉です。
聖賢を講説して之を躬にする能はず、之を口頭聖賢と謂ふ、吾れ之を聞いて一たび惕然たり。道学を論弁して之を体する能はず、之を紙上道学と謂ふ、吾れ之を聞いて再び惕然たり。
口先だけの聖賢、紙の上だけの道学。一斎はこの言葉を聞いて二度どきりとした、と書いています。三識を人を測る道具としてだけ使っていると、いつのまにか自分が知識どまりの側に立っている——そういうことが起こります。