「東洋哲学とは何か」と聞かれて、一言で答えるならこうなります。
インド・中国・日本を中心に、アジアで生まれて受け継がれてきた思想の総称。ブッダの仏教、孔子の儒家、老子と荘子の道家、韓非子の法家、孫子の兵家、そして日本の禅や神道、江戸の学問までを含みます。
ただ、この一言には落とし穴があります。「東洋哲学」という呼び名そのものが、そう古くないのです。孔子も老子も、自分が「東洋哲学」をやっているとは思っていませんでした。この言葉は明治の日本で、西洋の学問の枠組みを輸入したときに生まれています。
この記事では、まず言葉の出どころを確かめ、それから東洋哲学の全体を一枚の地図にします。地図の上には、師導が収める七十余りの原典から、それぞれの思想の中心にある一句を置いていきます。解説書の要約ではなく、本人の言葉で描く地図です。
一、「東洋哲学」は明治につくられた言葉
「哲学」という訳語の誕生
英語の philosophy を「哲学」と訳したのは、幕末に西洋へ留学した西周(にし あまね)です。その訳語が最初に活字になったのは、明治7年(1874)刊の『百一新論』とされています。
つまり、それ以前の日本に「哲学」という言葉はありません。儒学は「学問」「道学」、仏教は「仏法」、老荘は「老荘」と呼ばれていました。
「東洋哲学」という科目
その「哲学」を東西に分けたのが、東京大学です。明治15年(1882)前後の東京大学のカリキュラムでは、哲学が「東洋」と「西洋」に分けられ、東洋哲学の側で「東洋哲学史」が講じられました。担当したのは、のちに日本の哲学界の重鎮となる井上哲次郎で、中国哲学とインド哲学を柱に、孔子・孟子から始める方針だったと記録されています。
もう一人、井上円了は明治20年(1887)に私立の「哲学館」を開きました。これが明治39年(1906)に「東洋大学」と名を改めます。「東洋」と「哲学」が、学校の名前として並んだわけです。
「東洋に哲学はあるのか」という問い
言葉ができると、すぐに疑問も出ました。
西洋の側では、ヘーゲルが『哲学史講義』で孔子を取り上げ、その書物について「翻訳されなかったほうが、孔子の名声のためにはよかっただろう」という趣旨の辛辣な評を残しています。道徳の教えではあっても、思弁的な哲学ではない、という見方です。
日本の側でも、中江兆民が死の直前に書いた『一年有半』(1901)で、こう言い切りました。
「わが日本古より今に至るまで哲学なし。」
兆民は、本居宣長や平田篤胤は古い言葉を調べる考古家にすぎず、伊藤仁斎や荻生徂徠は経書の解釈者にすぎない、と続けます。仏僧には独創の人もいたが、それは宗教の範囲の話で純然たる哲学ではない、と。
「東洋哲学」という言葉は、はじめから「それは哲学なのか」という問いとセットで生まれたのです。この問いは今も終わっていません。その話は、西洋哲学との違いを扱った別の記事に書きました。
→ 東洋哲学と西洋哲学の違い ― 「東洋には論理がない」は本当か
二、東洋哲学と東洋思想は、どう違うか
検索すると「東洋哲学」と「東洋思想」の両方が出てきます。指している中身はほとんど同じです。違いは、呼び方の立場にあります。
- 東洋哲学:西洋の philosophy と同じ土俵に置いて、比べたり論じたりするときの呼び方。大学の学科名や研究書に多い。
- 東洋思想:「哲学」と呼ぶかどうかの議論を避けて、宗教や道徳や政治論まで広く含めるときの呼び方。一般書に多い。
上で見たとおり「東洋のものを哲学と呼んでよいか」には論争があるので、慎重な人ほど「思想」を使う、と覚えておけば十分です。この記事では、検索する方の言葉に合わせて両方を使います。
英語では Eastern philosophy または Asian philosophy と言います。古い本では Oriental philosophy とも書かれますが、「オリエント」という語には西洋から見た他者という含みがある、という批判(エドワード・サイード『オリエンタリズム』1978年が代表的です)があり、現在の英語圏では Asian philosophy が増えています。
三、地図 ― 三つの源流と、一本の流れ
東洋哲学の全体は、次のように描けます。
- インド:ブッダの仏教。苦しみからどう抜けるかを問う。のちに中国へ渡って禅になり、日本に届く。
- 中国:紀元前5〜3世紀の「諸子百家」が源流。儒家・道家・墨家・法家・兵家などが、人はどう生きるか、国をどう治めるかを争った。のちに宋代の朱子学、明代の陽明学へ。
- 日本:インドと中国の両方を受け取り、作り替えた。聖徳太子の十七条憲法、鎌倉仏教(禅・浄土真宗)、江戸の儒学と国学、そして明治の実業思想。
流れとしては、インド → 中国 → 日本と東へ移りながら、そのたびに姿を変えていきます。以下、この順で、各地の中心にある一句を開いていきます。
四、インド ― 怨みは、怨みによっては止まない
ブッダの言葉に最も近いとされる詩句集『法句経』から、いちばん有名な一句を置きます。
【原文】五 世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。
「この世において、怨みが怨みによってやむことは決してない。怨みなきことによってやむ。この理は変わることがない。」
直前の二句が、構造を説明しています。「あの人は私を罵った、打った、奪った」と固く握り続ける人の怒りはやまず、握り続けない人の怒りはおさまる。出来事は同じで、違うのは握るかどうかだけです。
この一句は、第二次大戦後の講和会議でセイロン(現スリランカ)の代表が引き、日本への賠償請求を放棄する演説のなかで使ったことでも知られています。
仏教は、世界の成り立ちを説明する前に、苦しみの仕組みと、そこから抜ける道を示すところから始まりました。この実践的な性格は、中国や日本に渡っても消えません。
出典:法句経 第一 双叙の部
ブッダ・禅・親鸞については、原典だけで一本の記事にまとめています。
→ 『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』の次に読む原典 ― ブッダ・荘子・禅・親鸞を本人の言葉で
五、中国(一)― 人は生まれつき善か、悪か
中国の思想は、人間の本性をどう見るかで大きく分かれます。同じ儒家のなかで、真っ向から対立した二人がいます。
孟子:性善説
【書き下し】惻隱の心は、人皆之れ有り。羞惡の心は、人皆之れ有り。恭敬の心は、人皆之れ有り。是非の心は、人皆之れ有り。
人を憐れむ心、不正を恥じる心、人を敬う心、善悪を見分ける心。この四つは、誰もが持っている。そしてそれぞれが仁・義・礼・智の芽である、と孟子は言います。
【書き下し】仁義禮智は、外由り我を鑠(シャク)するに非ざるなり。我之を固有するなり。思わざるのみ。
「仁義礼智は、外からメッキされたものではない。もともと自分が持っているのだ。ただ気づいていないだけだ。」
出典:孟子 告子章句上
荀子:性悪説
【書き下し】人の性は悪にして、其の善なる者は偽(ぎ)なり。
「人の生まれつきは悪であり、その善は人為によるものだ。」
ここでの「偽」は嘘ではありません。「人の為す」こと、つまり後から加える努力や教育のことです。人は放っておけば利を好み、妬み、欲に流れる。だから師と礼による導きが要る、と荀子は論じます。
出典:荀子 性悪篇
性善説と性悪説は、よく「人を信じるか、信じないか」の対立として紹介されます。しかし原文を並べると、二人とも教育と修養が必要だという結論は同じです。違うのは、その根拠を「内にある芽を育てる」と見るか、「外から形を与える」と見るか。人を育てる立場にある人なら、この二つのどちらに自分が寄っているかは、一度確かめておく価値があります。
六、中国(二)― 国をどう治めるか
諸子百家の論争のもう一つの軸は、統治の方法です。
儒家:自分がされたくないことを、人にしない
孔子の教えを一言でと問われたら、弟子の子貢が同じ質問をした場面があります。
【書き下し】子貢問いて曰く、「一言にして以て終身之を行う可き者有りや。」子曰く、「其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。」
「生涯守れる一言はありますか」「それは恕(じょ)だろう。自分がされたくないことを、人にしてはならない。」
儒家は、この「思いやり」を家族から国家まで同心円状に広げていけば、世は治まると考えました。治める者の徳が先、という考え方です。
出典:論語 衛霊公篇
墨家:身内と他人を分けるな
これに正面から異を唱えたのが墨子です。儒家の愛は、親を先に、他人を後にする「差のある愛」だと批判し、こう主張しました。
【書き下し】人の國を視ること其の國を視るが若くし、人の家を視ること其の家を視るが若くし、人の身を視ること其の身を視るが若くす。
「他人の国を自分の国のように、他人の家を自分の家のように、他人の身を自分の身のように見よ。」これが「兼愛」です。墨子はこれを必ず「交ごも相い利する」――互いに利益を与え合う――と対にして語りました。心情ではなく、交換の設計として愛を論じたところに、墨家の独自性があります。
出典:墨子 兼愛中
道家と法家:正反対の二つの答え
残る二つは、ここでは短く触れます。
道家(老子・荘子)は、作為そのものを減らせと言いました。老子の結論はこうです。
【書き下し】人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
人は地に、地は天に、天は道に従う。そして道は「自然」――おのずからそうであること――に従う。道の上には、もう規範がありません。
出典:老子 第25章
法家(韓非子・商鞅)は逆に、人の善意を当てにせず、法と賞罰で動かせと説きました。儒家の「徳で治める」と、法家の「法で治める」の対立は、今も組織論でそのまま繰り返されています。
→ 徳治主義と法治主義。ルールか人徳か? 韓非子の名言12選 孫子の兵法の名言13選
七、中国(三)― 変化そのものを「道」と呼ぶ
諸子百家のさらに底に、儒家も道家も共通の源泉とした書物があります。『易経』です。もとは占いの書でしたが、その解説として付けられた「十翼」が、深い哲学を含んでいます。
【書き下し】一陰一陽、之を道と謂う。
「一たび陰となり、一たび陽となる。そのはたらきを道という。」
道は、陰か陽かのどちらかではない。入れ替わり続けるリズムそのものが道だ、というのです。同じ段で「日新、之を盛徳と謂う」「生生、之を易と謂う」――日々新たであること、生み続けることが徳であり易だ、と続きます。
固定した正解ではなく、変化の型を読む。この発想は、東洋思想の多くに共通する前提になっています。
出典:易経 繋辞上
八、宋・明 ― 朱子学と陽明学
時代が下ると、仏教の精緻な理論に刺激された儒学者たちが、儒学を体系的な哲学に組み直します。
朱子学:性は即ち理なり
【書き下し】性は即ち理なり。天下の理、その自る所を原ぬれば、未だ不善有らず。
「人の本性は、そのまま理(ことわり)である。」北宋の程頤のこの言葉を、南宋の朱熹が中心に据えて体系化したのが朱子学です。一つひとつの物に理があり、それを窮めていけば全体に通じる(格物窮理)。江戸幕府が公認の学問とし、東アジアの学問の土台になりました。
出典:近思録 巻1 道体
陽明学:知って行わないのは、まだ知らないのだ
明代の王陽明は、朱子学の「まず知り、それから行う」という順序に異を唱えました。
【書き下し】未だ知りて行わざる者有らず。知りて行わざるは、只だ是れ未だ知らざるなり。
「知っていて行わない者はいない。知っていて行わないのは、まだ知らないだけだ。」
そして有名な定式がこれです。
【書き下し】知は是れ行の始め、行は是れ知の成るなり
知は行の始まり、行は知の完成。これが「知行合一」です。陽明学は日本で、大塩平八郎や幕末の志士たちに強い影響を与えました。
出典:伝習録 徐愛録
九、日本 ― 受け取って、作り替える
日本の思想は、インドと中国から受け取ったものを、そのままにしなかった歴史です。
聖徳太子:和を以て貴しと為す
【書き下し】一に曰わく、和(わ)を以(も)って貴(たっと)しと為(な)し、忤(さから)うこと無きを宗(むね)と為(せ)よ。
七世紀初めの十七条憲法の第一条です。儒教・仏教・法家の言葉を借りながら、最初に置いたのは「和」でした。しかも続きを読むと、黙って従えという意味ではありません。
【書き下し】然(しか)れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事(こと)を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、則(すなわ)ち事理(じり)自(おのずか)ら通(つう)ず。何事(なにごと)か成らざらん。
上下が睦まじく、議論が噛み合えば、道理はおのずから通る。そうなれば成らないことはない、と書いています。
出典:十七条憲法 第一条
鎌倉仏教:禅と浄土
中国から渡った禅は、道元によって「只管打坐」の曹洞宗に、栄西によって臨済宗になりました。一方、法然・親鸞は、厳しい修行ができない人のための念仏の道を開きます。自力を極める禅と、自力を捨てる浄土。正反対の二つが、同じ時代の日本に並んだことになります。
国学:「漢意」を洗い流せ
江戸時代になると、今度は中国の思想そのものを疑う学問が現れます。本居宣長の国学です。
【原文】道を學ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、淸く濯ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし
「道を学ぼうとする者は、第一に漢意(からごころ)・儒意を清く洗い流し、大和魂を固くすることを要とせよ。」
これは中国嫌いの話ではありません。宣長が退けたのは、何事も善悪是非の理屈で割り切ろうとする思考の型でした。実際、宣長は漢籍を読むこと自体はむしろ勧めています。借り物の枠組みで古典を読んでいないかを点検せよ、という方法論です。
冒頭の中江兆民が「宣長は考古家にすぎない」と切り捨てたのと、同じ宣長です。どちらの評価に立つかで、「日本に哲学はあったか」の答えも変わります。
出典:うひ山ぶみ 第二十四段
江戸から明治へ:道徳と経済をつなぐ
江戸後期から明治には、古典を生活と商売の現場に持ち込む人々が現れます。二宮尊徳は論語や大学を「一村の予算」に読み替えて数百の村を立て直し、渋沢栄一は『論語と算盤』で儒学を近代の実業に持ち込みました。東洋思想が「実学」として働いた、日本らしい例です。
そして明治以降、西田幾多郎の『善の研究』(1911年)をはじめ、禅や東洋の伝統を西洋哲学の言葉で論じ直す試みが本格的に始まります。兆民の「日本に哲学なし」への、一つの応答でした。
十、三つの問いで読む東洋哲学
最後に、ここまでの地図を、流派ではなく問いで並べ直しておきます。どこから読み始めるか迷ったら、自分がいちばん気になる問いから入るのが近道です。
問い一:「自分」とは何か。苦しみからどう抜けるか。
→ 仏教(法句経)、道家(荘子)、禅(無門関・臨済録)、浄土(歎異抄)
問い二:人とどう生きるか。組織や国をどう治めるか。
→ 儒家(論語・孟子・荀子)、墨家(墨子)、法家(韓非子)、朱子学・陽明学、十七条憲法
問い三:変化と争いに、どう処するか。
→ 易経、老子、兵家(孫子)
同じ一冊が複数の問いにまたがることもよくあります。老子は問い一にも二にも三にも答えています。流派の分類は、読むための地図であって、檻ではありません。
よくある質問
Q. 東洋哲学を学ぶには、どこから入門すればよいですか。
原典なら、短いものから開くのが確実です。『老子』は五千字あまり、『無門関』は約九千字で、どちらも一日で通読できます。原典からの選び方は、別の記事で十冊にまとめました。
→ 東洋哲学の本おすすめ ― 入門書ではなく原典から選ぶ十冊
Q. 東洋哲学と西洋哲学は、何が違うのですか。
「西洋は論理、東洋は直観」とよく言われますが、原典を読むとそう単純ではありません。墨子や荀子には、言葉と論理についての精密な議論があります。詳しくは次の記事に書きました。
→ 東洋哲学と西洋哲学の違い ― 「東洋には論理がない」は本当か
Q. 東洋哲学の名言を知りたいです。
書ごとに原文・現代語訳つきでまとめています。
→ 論語の名言一覧 43選 老子の名言に学ぶ、リーダーの器 菜根譚の名言14選
Q. 師導には、どの書が入っていますか。
儒家・道家・兵家・法家・墨家・仏教・禅・神道・国学など、七十余りの書を系統別に並べています。
本記事の出典について
引用した原文・書き下し文は、すべて師導が収録する底本の値をそのまま使っています。長い段は途中から引いていますが、残した部分は一字も変えていません。各節末のリンクから、その段の全文・現代語訳・解説をご覧いただけます。
「哲学」の訳語が『百一新論』(明治7年刊)で初めて用いられたこと、明治15年前後の東京大学で「東洋哲学史」が講じられたこと、哲学館の創立(明治20年)と東洋大学への改称(明治39年)、中江兆民『一年有半』(明治34年)の一節は、いずれも公刊された研究・大学の公式資料・一般に知られた記録に拠りました。ヘーゲルの孔子評は『哲学史講義』に見えるものとして広く引かれている一節です。
性善説・性悪説、朱子学・陽明学、国学の位置づけなど、思想史の整理は一般的な理解に拠っており、学説によって異なる見方があります。『法句経』の一句がサンフランシスコ講和会議で引かれた経緯は、師導の解説に拠りました。