伝習録 / 黄省曾録
一友靜坐有見,馳問先生。答曰:「吾昔居滁時:見諸生多務知解口耳異同,無益於得;姑教之靜坐。一時窺見光景,頗收近效。久之漸有喜靜厭動、流入枯槁之病;或務為玄解妙覺,動人聽聞。故邇來只說『致良知』。良知明白,隨你去靜處體悟也好,隨你去事上磨鍊也好,良知本體原是無動無靜的。此便是學問頭腦。我這個話頭,自滁州到今,亦較過幾番,只是『致良知』三字無病。醫經折肱,方能察人病理。」
新字:一友静坐有見,馳問先生。答曰:「吾昔居滁時:見諸生多務知解口耳異同,無益於得;姑教之静坐。一時窺見光景,頗収近効。久之漸有喜静厭動、流入枯槁之病;或務為玄解妙覺,動人聴聞。故邇来只説『致良知』。良知明白,随你去静処体悟也好,随你去事上磨錬也好,良知本体原是無動無静的。此便是學問頭脳。我這個話頭,自滁州到今,亦較過幾番,只是『致良知』三字無病。医経折肱,方能察人病理。」
書き下し
一友、静坐して見る有り。馳せて先生に問う。答えて曰く、「吾、昔、滁に居る時、諸生の多く知解・口耳の異同を務め、得るに益無きを見る。姑(しばら)く之に静坐を教う。一時、光景を窺見し、頗る近効を収む。之を久しくして漸く静を喜び動を厭い、枯槁に流入するの病有り。或いは務めて玄解妙覚を為し、人の聴聞を動かす。故に邇来、只だ『良知を致す』を説く。良知、明白ならば、你が静処に去きて体悟するに随うも也(また)好し。你が事上に去きて磨錬するに随うも也た好し。良知の本体は原と是れ動無く静無き的なり。此れ便ち是れ学問の頭脳なり。我の這個の話頭は、滁州より今に到るまで、亦た較過すること幾番ぞ。只だ是れ『致良知』の三字のみ病無し。医は肱を折るを経て、方に能く人の病理を察す」と。
現代語訳
ある友人が静坐して見るところがあり、急いで先生に問うた。先生は答えられた。「私は昔、滁州にいた時、生徒たちが知解や口耳の異同ばかり務めて、得るところがないのを見た。しばらく静坐を教えた。一時は光景を垣間見て、近い効果を収めた。しかし久しくすると、静を喜び動を嫌い、枯れ果てる病が出た。あるいは玄妙な解釈をして、人の耳目を驚かせる者も出た。だから近ごろは『良知を致す』だけを説く。良知が明白なら、静かな所で体得してもよい、事の上で磨いてもよい。良知の本体は、もともと動も静もない。これが学問の中心だ。私のこの言い方は、滁州から今まで何度も比べ直した。ただ『致良知』の三字だけが病がない。医者は自分の腕を折って、初めて人の病理を察せられる」。