伝習録 / 黄省曾録
丁亥年九月,先生起復征思、田,將命行時,德洪與汝中論學。汝中舉先生教言曰:「無善無惡是心之體,有善有惡是意之動,知善知惡是良知,為善去惡是格物。」德洪曰:「此意如何?」汝中曰:「此恐未是究竟話頭;若說心體是無善、無惡,意亦是無善、無惡的意,知亦是無善、無惡的知,物是無善、無惡的物矣。若說意有善、惡,畢竟心體還有善、惡在。」德洪曰:「心體是『天命之性』,原是無善、無惡的;但人有習心,意念上見有善惡在,格、致、誠、正、修,此正是復那性體功夫。若原無善惡,功夫亦不消說矣。」是夕侍坐天泉橋,各舉請正。先生曰:「我今將行,正要你們來講破此意。二君之見,正好相資為用,不可各執一邊。我這裏接人,原有此二種,利根之人,直從本原上悟入,人心本體原是明瑩無滯的,原是個未發之中;利根之人一悟本體即是功夫,人己內外一齊俱透了。其次不免有習心在,本體受蔽,故且教在意念上實落為善、去惡,功夫熟後,渣滓去得盡時,本體亦明盡了。汝中之見,是我這裏接利根人的;德洪之見,是我這裏為其次立法的。二君相取為用,則中人上下皆可引入於道,若各執一邊,跟前便有失人,便於道體各有未盡。」既而曰:「已後與朋友講學,切不可失了我的宗旨。無善無惡是心之體,有善有惡是意之動,知善知惡的是良知,為善去惡是格物。只依我這話頭隨人指點,自沒病痛,此原是徹上徹下功夫。利根之人,世亦難遇,本體功夫一悟盡透,此顏子、明道所不敢承當,豈可輕易望人。人有習心,不教他在良知上實用為善、去惡功夫,只去懸空想個本體,一切事為俱不著實,不過養成一個虛寂,此個病痛不是小小,不可不早說破。」是日,德洪、汝中俱有省。
新字:丁亥年九月,先生起復征思、田,将命行時,徳洪与汝中論学。汝中舉先生教言曰:「無善無悪是心之体,有善有悪是意之動,知善知悪是良知,為善去悪是格物。」徳洪曰:「此意如何?」汝中曰:「此恐未是究竟話頭;若説心体是無善、無悪,意亦是無善、無悪的意,知亦是無善、無悪的知,物是無善、無悪的物矣。若説意有善、悪,畢竟心体還有善、悪在。」徳洪曰:「心体是『天命之性』,原是無善、無悪的;但人有習心,意念上見有善悪在,格、致、誠、正、修,此正是復那性体功夫。若原無善悪,功夫亦不消説矣。」是夕侍坐天泉橋,各舉請正。先生曰:「我今将行,正要你們来講破此意。二君之見,正好相資為用,不可各執一辺。我這裏接人,原有此二種,利根之人,直従本原上悟入,人心本体原是明瑩無滞的,原是個未発之中;利根之人一悟本体即是功夫,人己内外一斉倶透了。其次不免有習心在,本体受蔽,故且教在意念上実落為善、去悪,功夫熟後,渣滓去得尽時,本体亦明尽了。汝中之見,是我這裏接利根人的;徳洪之見,是我這裏為其次立法的。二君相取為用,則中人上下皆可引入於道,若各執一辺,跟前便有失人,便於道体各有未尽。」既而曰:「已後与朋友講学,切不可失了我的宗旨。無善無悪是心之体,有善有悪是意之動,知善知悪的是良知,為善去悪是格物。只依我這話頭随人指点,自没病痛,此原是徹上徹下功夫。利根之人,世亦難遇,本体功夫一悟尽透,此顔子、明道所不敢承当,豈可軽易望人。人有習心,不教他在良知上実用為善、去悪功夫,只去懸空想個本体,一切事為倶不著実,不過養成一個虚寂,此個病痛不是小小,不可不早説破。」是日,徳洪、汝中倶有省。
書き下し
丁亥年九月、先生、起復して思・田を征す。将に命じて行かんとする時、徳洪、汝中と学を論ず。汝中、先生の教言を挙げて曰く、「善無く悪無きは是れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動、善を知り悪を知るは是れ良知、善を為し悪を去るは是れ格物なり」と。徳洪曰く、「此の意、如何」と。汝中曰く、「此れ恐らくは未だ是れ究竟の話頭ならず。若し心体は是れ善無く・悪無しと説かば、意も亦た是れ善無く・悪無きの意、知も亦た是れ善無く・悪無きの知、物も是れ善無く・悪無きの物ならん。若し意に善・悪有りと説かば、畢竟、心体に還た善・悪有りて在らん」と。徳洪曰く、「心体は是れ『天の命ずるの性』なり。原と是れ善無く・悪無き的なり。但だ人に習心有り、意念の上に善悪有りて在るを見る。格・致・誠・正・修は、此れ正に是れ那の性体に復するの功夫なり。若し原と善悪無くんば、功夫も亦た説くを消せざるなり」と。是の夕、天泉橋に侍坐し、各々挙げて正を請う。先生曰く、「我、今、将に行かんとす。正に你們の来たりて此の意を講破するを要す。二君の見は、正に好し、相い資して用と為す。各々一辺に執すべからず。我、這裏に人を接するに、原と此の二種有り。利根の人は、直だ本原の上より悟入す。人心の本体は原と是れ明瑩無滞的なり。原と是れ個の未発の中なり。利根の人は、一たび本体を悟らば即ち是れ功夫なり。人己内外、一斉に倶に透り了る。其の次は習心の在る有るを免れず。本体、蔽を受く。故に且く意念の上に実落に善を為し悪を去るを教う。功夫、熟する後、渣滓、去り得て尽くる時、本体も亦た明らかに尽くさん。汝中の見は、是れ我、這裏に利根の人を接する的なり。徳洪の見は、是れ我、這裏に其の次の為に法を立つる的なり。二君、相い取りて用と為さば、則ち中人の上下、皆な道に引き入るべし。若し各々一辺に執せば、跟前に便ち人を失う有り。便ち道体に於て各々未だ尽くさざる有らん」と。既にして曰く、「已後、朋友と講学するに、切に我が宗旨を失うべからず。善無く悪無きは是れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動、善を知り悪を知る的は是れ良知、善を為し悪を去るは是れ格物なり。只だ我が這の話頭に依りて人に随いて指点せば、自ら病痛無し。此れ原と是れ徹上徹下の功夫なり。利根の人は、世にも亦た遇い難し。本体功夫、一悟して尽く透るは、此れ顔子・明道も承当するを敢えてせざる所なり。豈に軽易に人に望むべけんや。人に習心有り。他をして良知の上に実に善を為し悪を去るの功夫を用いしめず、只だ去きて懸空に個の本体を想わば、一切の事為、倶に着実ならず。一個の虚寂を養成するに過ぎず。此個の病痛は小小に非ず。早く説破せざるべからず」と。是の日、徳洪・汝中、倶に省有り。
現代語訳
丁亥年九月、先生は再び起用されて思恩・田州を征伐された。出発する時、私(徳洪)は王汝中と学を論じた。汝中は先生の教えを挙げて「善もなく悪もないのが心の体、善あり悪あるのが意の動き、善を知り悪を知るのが良知、善を為し悪を去るのが格物」と言った。私が「この意はどうか」と問うと、汝中は「これは究極の言い方ではないだろう。心の体が善も悪もないなら、意も知も物も善悪がないはずだ。もし意に善悪があるなら、心の体にも善悪があることになる」と言った。私は「心の体は『天が命じた性』で、もともと善も悪もない。ただ人には習わしの心があり、意念の上に善悪が見える。格・致・誠・正・修は、その性の体に返る工夫だ。もともと善悪がなければ、工夫も説く必要がない」と言った。その夕べ、天泉橋で侍坐し、二人とも正されることを請うた。先生は言われた。「私は今、出発しようとしている。ちょうど君たちにこの意を論じ破ってほしかった。二人の見解は、互いに補い合って用となる。どちらか一方に執着してはならない。私がここで人を接するのに、二種類ある。素質の鋭い人は、本源から悟り入る。人の心の本体はもともと明るく澄んで滞りがない。素質の鋭い人は、一度本体を悟れば、それが工夫だ。人と自分、内と外が一斉に透る。その次の者は習わしの心があり、本体が蔽われる。だから意念の上で実際に善を為し悪を去ることを教える。工夫が熟して澱が尽きた時、本体も明らかになる。汝中の見解は素質の鋭い人を接するもの、徳洪の見解はその次の者のために法を立てるものだ。二人が互いに取り合えば、上下どちらの人も道に引き入れられる。もし一方に執着すれば、目の前で人を失う」。そして「今後、友人と講学する時、私の宗旨を失うな。善もなく悪もないのが心の体、善あり悪あるのが意の動き、善を知り悪を知るのが良知、善を為し悪を去るのが格物だ。この言い方に依って人に応じて指し示せば、病はない。これは上から下まで貫く工夫だ。素質の鋭い人は、世にも稀だ。一度悟って尽く透るのは、顔回や程明道でさえ引き受けなかった。軽々しく人に望めようか。人には習わしの心がある。良知の上で実際に善を為し悪を去る工夫をさせず、空中で本体を思い描けば、一切の行いが着実でなくなる。虚しい静寂を養うだけだ。この病は小さくない。早く説き破らなければならない」と言われた。この日、徳洪も汝中も悟るところがあった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
伝習録・黄以方録黄以方問う、「『博く文を学ぶ』は事に随いて此の天理を存するを学ぶと為す。然らば則ち『行いて余力有らば、則ち以て文を学ぶ』と謂うは、其の説、相い合わざるに似たり」と。先生曰く、「『詩』『書』・六芸は、皆な是れ天理の発見なり。文字は都て其の中に包まる。之を『詩』『書』・六芸に考うるは、皆な此の天理を存するを学ぶ所以なり。特に事為に発見する者のみ方に文と為すにあらず。『余力あらば文を学ぶ』も亦た只だ『博く文を学ぶ』中の事なり」と。或るひと「学びて思わず」の二句を問う。曰く、「此れも亦た為にする有りて言う。其の実、思うは即ち学なり。学びて疑う所有らば、便ち須らく之を思うべし。『思いて学ばず』とは、蓋し此等の人有り。只だ懸空に去きて思い、一の想個の道理を想い出ださんことを要す。却って身心の上に在りて実に其の力を用い、以て此の天理を存するを学ばず。思と学とを両事と作して做す。故に『罔(くら)し』と『殆(あや)うし』の病有り。其の実、思うは只だ是れ其の学ぶ所を思う。原と両事に非ざるなり」と。先生曰く、「先儒、『格物』を解して天下の物を格すと為す。天下の物、如何ぞ格し得んや。且つ一草一木も亦た皆な理有りと謂う。今、如何ぞ去きて格さんや。縦い草・木を格し得来たるも、如何ぞ反り来たりて自家の意を誠にし得んや。我、『格』を解して『正』の字の義と作し、『物』を『事』の字の義と作す。『大学』の所謂る『身』は、即ち耳・目・口・鼻・四肢、是なり。身を修めんと欲するは便ち是れ、目は礼に非ずんば視る勿かれ、耳は礼に非ずんば聴く勿かれ、口は礼に非ずんば言う勿かれ、四肢は礼に非ずんば動く勿かれ、と要するなり。這個の身を修めんことを要するに、身上に如何ぞ工夫を用い得んや。心なる者は、身の主宰なり。目は視ると雖も、而して視る所以の者は、心なり。耳は聴くと雖も、而して聴く所以の者は、心なり。口と四肢とは言い動くと雖も、而して言い動く所以の者は、心なり。故に身を修めんと欲するは自家の心体を体当し、常に廓然大公にして、些子も正しからざる処有る無からしむるに在り。主宰、一たび正しければ、則ち目に竅を発するも、自ら礼に非ざるの視る無く、耳に竅を発するも、自ら礼に非ざるの聴く無く、口と四肢とに竅を発するも、自ら礼に非ざるの言い動く無し。此れ便ち是れ身を修むるは其の心を正すに在るなり。然れども至善なる者は、心の本体なり。心の本体、那ぞ不善有らんや。如今、心を正さんと要するに、本体の上、何処にか功を用い得んや。必ず心の発動する処に就きて、纔(はじ)めて力を著くべきなり。心の発動は不善無き能わず。故に須らく此の処に就きて力を著くべし。便ち是れ『誠意』に在るなり。一念、善を好むに発せば、便ち実実落落として去きて善を好むが如し。一念、悪を悪むに発せば、便ち実実落落として去きて悪を悪む。意の発する所、既に誠ならざる無くんば、則ち其の本体、如何ぞ正しからざる的有らんや。故に其の心を正さんと欲するは意を誠にするに在り。工夫、誠意に到りて、始めて著落の処有り。然れども誠意の本は、又た知を致すに在るなり。所謂る『人、知らずと雖も、己の独り知る者』、此れ正に是れ吾が心の良知の処なり。然れども善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち做し去らず、不善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち去きて做さずんば、則ち這個の良知は便ち遮蔽し了る。是れ知を致す能わざるなり。吾が心の良知、既に擴充して底に到る能わずんば、則ち善は好むを知ると雖も、著実に好む能わず。悪は悪むを知ると雖も、著実に悪む能わず。如何ぞ意の誠なるを得んや。故に知を致すは、意の誠なるの本なり。然れども亦た是れ懸空の致知にあらず。知を致すは実事の上に在りて格す。意、善を為すに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為し、意、悪を去るに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為さざるが如し。悪を去るは固より是れ不正を格して以て正に帰す。善を為すは則ち不善、正されたり。亦た是れ不正を格して以て正に帰すなり。此くの如くんば、則ち吾が心の良知、私欲の蔽う無くして、以て其の極を致すを得たり。而して意の発する所、善を好み悪を去ること、誠ならざる有る無し。誠意の工夫の実に手を下す処は格物に在るなり。若し此くの如く物を格さば、人人、便ち做し得たり。人皆な以て堯・舜と為るべしとは、正に此に在るなり」と。
-
伝習録・徐愛録愛問う、「昨、先生の『至善に止まる』の教えを聞き、已に工夫の力を用うる処有るを覚ゆ。但だ朱子の『格物』の訓と、之を思うに終に合する能わず」と。先生曰く、「『格物』は是れ『至善に止まる』の功なり。既に『至善』を知らば、即ち『格物』を知らん」と。愛曰く、「昨、先生の教えを以て之を『格物』の説に推すに、亦た大略を見得るに似たり。但だ朱子の訓は、其の『書』の『精一』、『論語』の『博約』、『孟子』の『尽心知性』に於て、皆な証拠有る所なり。是を以て未だ釈然たる能わず」と。先生曰く、「子夏は聖人を篤信し、曾子は反りて諸を己に求む。篤信も固より亦た是なり。然れども反りて求むるの切なるに如かず。今、既に心に得ずんば、安くんぞ旧聞に狃(な)れて、是当を求めざるべけんや。就ち朱子も亦た程子を尊信するが如し。其の心に得ざる処に至りては、亦た何ぞ嘗て苟くも従わんや。『精一』『博約』『尽心』は本と自ら吾が説と吻合す。但だ未だ之を思わざるのみ。朱子の『格物』の訓は、未だ牽合附会を免れず。其の本旨に非ず。精は是れ一の功、博は是れ約の功なり。曰仁は既に知行合一の説を明らかにす。此れ一言にして喩すべし。『心を尽くし、性を知り、天を知る』は是れ『生知安行』の事なり。『心を存し、性を養い、天に事う』は是れ『学知利行』の事なり。『夭寿貳(うたが)わず、身を修めて以て俟つ』は是れ『困知勉行』の事なり。朱子の錯りて『格物』を訓ずるは、只だ此の意を倒(さかさま)に看るが為に、『尽心知性』を以て『物格り知至る』と為し、初学をして便ち去きて『生知安行』の事を做さしめんと要す。如何ぞ做し得ん」と。愛問う、「『尽心知性』は何を以て『生知安行』と為すか」と。先生曰く、「性は是れ心の体、天は是れ性の原なり。心を尽くすは即ち是れ性を尽くすなり。惟だ天下の至誠のみ、能く其の性を尽くし、天地の化育を知ると為す。『心を存す』とは、心に未だ尽くさざる有るなり。『天を知る』は、『知州』『知県』の『知』の如し。是れ自己分上の事なり。己と天と一と為る。『天に事う』は子の父に事え、臣の君に事うるが如し。須らく是れ恭敬奉承して、然る後に能く失う無かるべし。尚お天と二と為る。此れ便ち是れ聖賢の別なり。夭寿に其の心を貳わざるに至りては、乃ち是れ学者に一心に善を為し、窮通夭寿の故を以て、便ち善を為すの心を把(と)りて変動せしむべからざるを教うるなり。只だ去きて身を修めて以て命を俟ち、窮通寿夭に個の命有るを見得れば、我も亦た必ずしも此を以て心を動かさず。『天に事う』は天と二と為ると雖も、已に自ら個の天の面前に在るを見得たり。『命を俟つ』は便ち是れ未だ曾て面を見ず、此に在りて等候するに相似たり。此れ便ち是れ初学立心の始め、個の困勉の意在る有り。今、却って倒(さかさま)に做し了る。所以に学者をして手を下す処無からしむ」と。愛曰く、「昨、先生の教えを聞き、亦た影影として工夫は須らく是くの如くなるべきを見得たり。今、此の説を聞き、益々疑うべき無し。愛は昨暁、『格物』の『物』の字を思うに、即ち是れ『事』の字なり。皆な心上より説く」と。先生曰く、「然り。身の主宰は便ち是れ心なり。心の発する所は便ち是れ意なり。意の本体は便ち是れ知なり。意の在る所は便ち是れ物なり。如し意、親に事うるに在らば、即ち親に事うるは便ち是れ一物なり。意、君に事うるに在らば、即ち君に事うるは便ち是れ一物なり。意、民を仁し物を愛するに在らば、即ち民を仁し物を愛するは便ち是れ一物なり。意、視聴言動に在らば、即ち視聴言動は便ち是れ一物なり。所以に某は心外の理無く、心外の物無しと説く。『中庸』は『誠ならずんば物無し』と言う。『大学』の『明徳を明らかにす』の功は、只だ是れ個の『誠意』なり。『誠意』の功は、只だ是れ個の『格物』なり」と。
-
伝習録・陳九川録問う、「先生、嘗て善・悪は只だ是れ一物と謂う。善・悪の両端は、冰・炭の相い反するが如し。如何ぞ只だ一物と謂わんや」と。先生曰く、「至善なる者は、心の本体なり。本体の上、才かに過当すること些子あらば、便ち是れ悪なり。是れ一個の善有りて、却って又た一個の悪有りて相い対するに非ざるなり。故に善・悪は只だ是れ一物なり」と。直、先生の説を聞くに因りて、則ち程子の所謂る「善は固より性なり。悪も亦た之を性と謂わざるべからず」を知る。又た曰く、「善・悪は皆な天理なり。之を悪と謂う者は、本と悪に非ず。但だ本性の上に於ける過と不及との間なるのみ」と。其の説、皆な疑うべき無し。
-
伝習録・陳九川録正徳乙亥、九川、初めて先生に龍江に見(まみ)ゆ。先生、甘泉先生と「格物」の説を論ず。甘泉は旧説を持す。先生曰く、「是れ之を外に求むるなり」と。甘泉曰く、「若し物理を格すを以て外と為さば、是れ自ら其の心を小にするなり」と。九川、甚だ旧説の是なるを喜ぶ。先生、又た「尽心」一章を論ず。九川、一たび聞きて、却って遂に疑い無し。後、家居し、復た「格物」を以て質を遺(おく)る。先生、答えて云う、「但だ能く実地に功を用いなば、久しくして当に自ら釈けん」と。山間、乃ち自ら『大学』旧本を録して之を読み、朱子の「格物」の説の是に非ざるを覚ゆ。然れども亦た先生の「意の在る所を物と為す」を疑い、「物」の字、未だ明らかならず。己卯、京師より帰り、再び先生に洪都に見ゆ。先生、兵務倥傯たり。隙に乗じて講授す。首(はじ)めに問う、「近年、功を用うること何如」と。九川曰く、「近年、体験し得たり。『明徳を明らかにする』の功夫は只だ是れ『誠意』なり。『明徳を天下に明らかにす』より、歩歩、根源に推し入り、『誠意』の上に到りて再び去るを得ず。如何ぞ以前に又た『格致』の工夫有るか。後に又た体験す。意の誠偽を覚え得るは、必ず先ず知覚して乃ち可なり。顔子の『不善有れば未だ嘗て知らずんばあらず、之を知れば未だ嘗て復た行わず』を以て証と為し、豁然として疑い無きが若し。却って又た『格物』の工夫を多くす。又た思い来たるに吾が心の霊、何ぞ意の善悪を知らざる有らん。只だ是れ物欲、蔽い了れり。須らく物欲を格し去りて、始めて能く顔子の未だ嘗て知らずんばあらざるが如くなるべきのみ。又た自ら功夫の顛倒し、『誠意』と片段を成さざるを疑う。後に希顔に問う。希顔曰く、『先生、格物・致知は是れ誠意の功夫と謂う。極めて好し』と。九川曰く、『如何なるか是れ誠意の功夫』と。希顔、再び思い体看せしむ。九川、終に悟らず。問わんことを請う」と。先生曰く、「惜しいかな。此れ一言にして悟るべし。惟濬の挙ぐる所の顔子の事、便ち是れなり。只だ身・心・意・知・物は是れ一件なるを知らんことを要す」と。九川、疑いて曰く、「物は外に在り。如何ぞ身・心・意・知と是れ一件ならん」と。先生曰く、「耳・目・口・鼻・四肢は、身なり。心に非ずんば安くんぞ能く視聴言動せん。心、視聴言動せんと欲するも、耳・目・口・鼻・四肢無くんば、亦た能わず。故に心無くんば則ち身無く、身無くんば則ち心無し。但だ其の充塞する処を指して之を言えば、之を身と謂う。其の主宰する処を指して言えば、之を心と謂う。心の発動する処を指して、之を意と謂う。意の霊明なる処を指して、之を知と謂う。意の渉著する処を指して、之を物と謂う。只だ是れ一件なり。意は未だ懸空なる者有らず。必ず事物に著く。故に意を誠にせんと欲さば、則ち意の在る所の某事に随いて之を格し、其の人欲を去りて天理に帰さば、則ち良知の此の事に在る者、蔽い無くして致すを得ん。此れ便ち是れ誠意の功夫なり」と。九川、乃ち釈然として数年の疑いを破る。
-
伝習録・答陸原静書 又来書に云う、「『大学』は『心に好楽・忿懥・憂患・恐懼有る』を以て『其の正しきを得ず』と為す。而して程子も亦た『聖人の情は万事に順いて情無し』と謂う。所謂る有りとは、『伝習録』中に病瘧を以て之に譬う。極めて精切なり。程子の言の若きは、則ち是れ聖人の情は心に生ぜずして物に生ずるなり。何の謂いぞや。且つ事、感じて情、応ずれば、則ち是を是とし非を非とすること以て格すに就くべし。事、或いは未だ感ぜざる時、之を有りと謂わば則ち未だ形れず。之を無しと謂わば則ち病根は有無の間に在り。何を以て吾が知を致さんや。学びて情無きを務むれば、累は軽しと雖も、儒を出でて仏に入らん。可ならんや」と。聖人の致知の功は、至誠にして息む無し。其の良知の体は、皦(あき)らかなること明鏡の如く、略ぼ纖翳無し。妍媸の来たるや、物に随いて形を見(あら)わす。而して明鏡は曾て留染無し。所謂る「万事に順いて情無し」なり。「住する所無くして其の心を生ず」。仏氏、曾て是の言有り。未だ非と為さざるなり。明鏡の物に応ずるや、妍なる者は妍、媸なる者は媸、一たび照らして皆な真なり。即ち是れ其の心を生ずる処なり。妍なる者は妍、媸なる者は媸、一たび過ぎて留めず。即ち是れ住する所無き処なり。病瘧の喩え、既に已に其の精切なるを見れば、則ち此の節の問う所は釈然たるべし。病瘧の人は、瘧は未だ発せずと雖も、病根は自ら在り。則ち亦た安くんぞ其の瘧の未だ発せざるを以て遂に其の薬を服し理を調うるの功を忘るべけんや。若し必ず瘧の発するを待ちて而る後に薬を服し理を調えば、則ち既に晩し。致知の功は、事有ると事無きとに間無し。豈に病の已発・未発を論ぜんや。大抵、原静の疑う所は、前後、一ならざるが若しと雖も、然れども皆な自私自利、将迎意必の祟りを為すより起こる。此の根、一たび去らば、則ち前後の疑う所は、自ら将に氷消し霧釈けて、問辨を待たざる有らんとす。銭徳洪の跋に曰く、原静に答うるの書、出づるや、読者は皆な澄の善く問い、師の善く答えて、皆な未だ聞かざる所を聞くを得たるを喜ぶ。師曰く、「原静の問う所は只だ是れ知解の上に転ずるのみ。已むを得ずして之と節を逐いて分疏す。若し良知を信じ得ば、只だ良知の上に工を用う。千経万典と雖も脗合せざる無く、異端曲学も一たび勘して尽く破れん。何ぞ必ずしも此くの如く節節に分解せんや。仏家に『塊を撲つ人を逐う』の喩え有り。塊を見て人を撲たば、則ち人を得たり。塊を見て塊を逐わば、塊に於て奚(なに)をか得んや」と。座に在る諸友、之を聞き、惕然として皆な惺悟する有り。此の学は反りて求むるを貴ぶ。知解の入るべきに非ざるなり。
-
伝習録・薛侃録侃、花間の草を去る。因りて曰く、「天地の間、何ぞ善は培い難く、悪は去り難きか」と。先生曰く、「未だ培わず未だ去らざるのみ」と。少間ありて、曰く、「此等の善悪を看るは、皆な軀殻より念を起こす。便ち錯る会(べ)し」と。侃、未だ達せず。曰く、「天地の生意は、花も草も一般なり。何ぞ曾て善悪の分有らんや。子、花を観んと欲せば、則ち花を以て善と為し、草を以て悪と為す。如し草を用いんと欲する時は、復た草を以て善と為さん。此等の善悪は、皆な汝が心の好悪より生ずる所なり。故に是れ錯ると知る」と。曰く、「然らば則ち善無く悪無きか」と。曰く、「善無く悪無き者は、理の静なり。善有り悪有る者は、気の動なり。気に動かざれば、即ち善無く悪無し。是れを至善と謂う」と。曰く、「仏氏も亦た善無く悪無し。何を以て異なる」と。曰く、「仏氏は善無く悪無きの上に著在す。便ち一切都て管せず。以て天下を治むべからず。聖人の善無く悪無きは、只だ是れ『作好する有る無く』『作悪する有る無く』、気に動かざるなり。然れども『王の道に遵い』『其の極有るに会す』れば、便ち自ら『一に天理に循い』、便ち個の『裁成輔相』有り」と。曰く、「草は既に悪に非ずんば、即ち草は去るに宜しからず」と。曰く、「此くの如くんば却って是れ仏・老の意見なり。草若し是れ礙(さまた)げならば、何ぞ汝が去るを妨げん」と。曰く、「此くの如くんば又た是れ好を作し悪を作すなり」と。曰く、「好悪を作さずとは、是れ全く好悪無きに非ず。却って是れ知覚無きの人なり。之を作さずと謂う者は、只だ是れ好悪、一に理に循い、去るに又た一分の意思を著けざるなり。此くの如くんば、即ち是れ曾て好悪せざると一般なり」と。曰く、「草を去るは如何ぞ是れ一に理に循い、意思を著けざるか」と。曰く、「草に妨礙有らば、理も亦た去るに宜し。之を去るのみ。偶々未だ即ちには去らざるも、亦た心を累わさず。若し一分の意思を著け了らば、即ち心体に便ち貽累有り。便ち許多の気を動かす処有り」と。曰く、「然らば則ち善悪は全く物に在らざるか」と。曰く、「只だ汝が心に在り。理に循えば便ち是れ善、気に動けば便ち是れ悪なり」と。曰く、「畢竟、物に善悪無し」と。曰く、「心に在りて此くの如く、物に在りても亦た然り。世儒は惟だ此を知らず。心を舎てて物を逐い、『格物』の学を将(もっ)て錯り看了る。終日、外に馳求し、只だ個の『義襲して取る』を做し得たり。終身、行いて著(あら)われず、習いて察せず」と。曰く、「『好色を好むが如く、悪臭を悪むが如し』とは、則ち如何」と。曰く、「此れ正に是れ一に理に循うなり。是れ天理、合(まさ)に此くの如くなるべし。本と私意の好を作し悪を作す無し」と。曰く、「『好色を好むが如く、悪臭を悪むが如し』とは、安くんぞ意に非ざるを得んや」と。曰く、「却って是れ誠意なり。私意に非ず。誠意は只だ是れ天理に循うなり。是れ天理に循うと雖も、亦た一分の意をも著け得ず。故に忿懥・好楽する所有らば、則ち其の正を得ず。須らく是れ廓然として大公なるべし。方に是れ心の本体なり。此を知らば、即ち『未発の中』を知らん」と。伯生曰く、「先生云う、『草に妨礙有らば、理も亦た去るに宜し』と。縁何ぞ又た是れ軀殻より念を起こすか」と。曰く、「此れ須らく汝が心、自ら体当すべし。汝、草を去らんと要するは、是れ甚麼(なん)の心ぞ。周茂叔の窓前の草を除かざるは、是れ甚麼の心ぞ」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る