貞観政要 / 悔過
貞觀中,太子承乾多不修法度,魏王泰尤以才能為太宗所重,特詔泰移居武德殿。魏徵上疏諫曰:「魏王既是陛下愛子,須使知定分,常保安全,每事抑其驕奢,不處嫌疑之地也。今移居此殿,使在東宮之西,海陵昔居,時人以為不可。雖時移事異,猶恐人之多言。又王之本心,亦不寧息。既能以寵為懼,伏願成人之美。」太宗曰:「我幾不思量,甚大錯誤。」遂遣泰歸於本第。
新字:貞観中,太子承乾多不修法度,魏王泰尤以才能為太宗所重,特詔泰移居武徳殿。魏徴上疏諫曰:「魏王既是陛下愛子,須使知定分,常保安全,毎事抑其驕奢,不処嫌疑之地也。今移居此殿,使在東宮之西,海陵昔居,時人以為不可。雖時移事異,猶恐人之多言。又王之本心,亦不寧息。既能以寵為懼,伏願成人之美。」太宗曰:「我幾不思量,甚大錯誤。」遂遣泰帰於本第。
書き下し
貞観中、太子承乾は多く法度を修めず。魏王泰は尤も才能を以て太宗の重んずる所と為る。特に詔して泰を武徳殿に移居せしむ。魏徴、疏を上りて諫めて曰く、「魏王は既に是れ陛下の愛子なり。須らく定分を知り、常に安全を保ち、事毎に其の驕奢を抑え、嫌疑の地に処らざらしむべし。今、此の殿に移居せしめ、東宮の西に在らしむ。海陵の昔居りし所なり。時の人は以て不可と為す。時は移り事は異なると雖も、猶お恐る、人の言多きを。又た王の本心も、亦た寧息せず。既に能く寵を以て懼れと為さば、伏して願わくは人の美を成せ」と。太宗曰く、「我は幾(ほとん)ど思量せず、甚だ大いなる錯誤なり」と。遂に泰を遣わして本第に帰らしむ。
現代語訳
貞観年間、太子の承乾は多く法度を守らなかった。魏王李泰はとりわけ才能によって太宗に重んじられた。特に詔して、李泰を武徳殿に移り住まわせた。魏徴が上奏して諫めた。「魏王は陛下の愛子です。分限を知り、常に安全を保ち、事あるごとに驕りと奢りを抑え、疑いを招く場所に置かないようにすべきです。今、この殿に移り住まわせ、東宮の西に置かれる。昔、海陵王が住んだ所です。当時の人は不可としました。時は移り事情は違っても、なお人の口が多いことを恐れます。また王の本心も、安らかではないでしょう。寵愛を恐れとする心があるなら、伏して願わくは、その美点を成し遂げさせてください」。太宗は言った。「私はよく考えなかった。大変な誤りだ」。そして李泰を元の邸に帰らせた。
解説
この章句が説くこと
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貞観政要・直諫貞観十年、越王は長孫皇后の生む所、太子の介弟なり。聡明絶倫にして、太宗は特に寵異する所なり。或るひと言う、三品以上は、皆な王を軽蔑すと。意は侍中魏徴等を譖(そし)るに在り。以て上の怒りを激す。上、斉政殿に御し、三品已上を引きて入坐せしめ定まる。大いに怒り、色を作して言いて曰く、「我に一言有り、公等に向かいて道わん。往前の天子は、即ち是れ天子なり。今時の天子は、天子に非ざるか。往年の天子の児は、是れ天子の児なり。今日の天子の児は、天子の児に非ざるか。我は隋家の諸王を見るに、達官已下、皆な其の躓頓(ちとん)を被るを免れず。我の児子は、自ら其の縦横を許さず。公等の容易に過ぐる所、相い共に軽蔑するを得たり。我若し之を縦(ゆる)さば、豈に能く公等を躓頓せしめざらんや」と。玄齢等戦慄し、皆な拝謝す。徴、正色して諫めて曰く、「当今の群臣、必ず越王を軽蔑する者無し。然れども礼に在りて、臣と子とは一例なり。『伝』に称す、王人は微なりと雖も、諸侯の上に列す、と。諸侯之を用いて公と為さば、即ち是れ公なり。之を用いて卿と為さば、即ち是れ卿なり。若し公卿と為さずんば、即ち諸侯に下士たり。今、三品已上は、列して公卿と為り、並びに天子の大臣なり。陛下の敬異を加うる所なり。縦い其れ小しく是ならざる有るも、越王何ぞ輒ち折辱を加うるを得んや。若し国家の紀綱廃壊せば、臣の知らざる所なり。当今聖明の時を以てすれば、越王豈に此くの如きを得んや。且つ隋の高祖は礼義を知らず、諸王を寵樹し、無礼を行わしむ。尋いで罪を以て黜(しりぞ)けらる。法と為すべからず。亦た何ぞ道うに足らんや」と。太宗其の言を聞き、喜び色に形(あら)わる。群臣に謂いて曰く、「凡そ人の言語、理到らば、伏せざるべからず。朕の言う所は、身に当たりての私愛なり。魏徴の論ずる所は、国家の大法なり。朕は郷(さき)に忿怒し、自ら理は疑わざるに在りと謂えり。魏徴の論ずる所を見るに及び、始めて大いに道理に非ざるを覚る。人君の言を為すこと、何ぞ容易なるべけんや」と。玄齢等を召して切に之を責め、徴に絹一千匹を賜う。
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貞観政要・太子諸王定分貞観十三年、諫議大夫褚遂良は、毎日特に魏王泰の府に給する料物、皇太子に逾(こ)ゆる有るを以て、疏を上りて諫めて曰く、「昔、聖人礼を制するに、嫡を尊び庶を卑しくす。之を儲君と謂い、道は霄極に亜(つ)ぐ。甚だ崇重と為す。物を用うるに計らず、泉貨財帛は、王者と之を共にす。庶子は体卑し。例と為すを得ず。嫌疑の漸を塞ぎ、禍乱の源を除く所以なり。而して先王は必ず人情に本づき、然る後に法を制す。国家有れば、必ず嫡庶有るを知ればなり。然れども庶子は愛すと雖も、嫡子を超越するを得ず。正礼は特に須らく尊崇すべし。如し明らかに定分を立つる能わずんば、遂に当に親しむべき者をして疎ならしめ、当に尊ぶべき者をして卑しからしむ。則ち佞巧の徒、機に乗じて動く。私恩は公を害し、或いは国を乱すに至る。伏して惟うに、陛下は功は万古に超え、道は百王に冠たり。号令を発施し、世の為に法を作す。一日万幾、或いは未だ美を尽くさずんば、臣が職は諫諍なり。静黙するを容るる無し。伏して見るに、儲君の料物、翻って魏王より少なし。朝野の見聞、以て是と為さず。『伝』に曰く、『臣聞く、子を愛せば教うるに義方を以てす』と。忠・孝・恭・倹は、義方の謂いなり。昔、漢の竇太后及び景帝は並びに義方の理を識らず。遂に梁の孝王を驕恣にし、四十余城に封じ、苑は方三百里。大いに宮室を営み、復道は望を弥(わた)る。財鏹を積むこと巨万を計る。出づるに警め入るに蹕(ひつ)す。小しく意を得ざれば、病を発して死す。宣帝も亦た淮陽王を驕恣にし、幾(ほとん)ど敗に至る。其の輔くるに退譲の臣を以てするに頼り、僅かに乃ち免るるを獲たり。且つ魏王は既に新たに閤を出づ。伏して願わくは恒に礼訓を存し、妙に師傅を択び、其の成敗を示せ。既に之を敦くするに節倹を以てし、又た之を勧むるに文学を以てす。惟れ忠惟れ孝、因りて之を奨むるに道徳斉礼を以てせば、乃ち良器と為らん。此れ所謂る聖人の教えは、粛(きび)しからずして成る者なり」と。太宗深く其の言を納る。
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貞観政要・悔過貞観十八年、太宗侍臣に謂いて曰く、「夫れ人臣の帝王に対するや、多くは意を承け旨に順い、甘言もて容を取る。朕は今、己の過ちを聞かんと欲す。卿等皆な直言すべし」と。散騎常侍劉洎対えて曰く、「陛下は公卿と事を論ずる毎に、及び書を上る者有るに、其の旨に称わざるを以て、或いは面に詰難を加う。慚じて退かざる無し。恐らくは直言を誘進するの道に非ず」と。太宗曰く、「朕も亦た此の問難有るを悔ゆ。当に即ち之を改むべし」と。
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貞観政要・教戒太子諸王貞観十一年、太宗呉王恪に謂いて曰く、「父の子を愛するは、人の常情なり。教訓を待ちて知るに非ざるなり。子能く忠孝ならば則ち善し。若し誨誘に遵わず、礼法を忘れ棄てば、必ず自ら刑戮を致す。父は之を愛すと雖も、将た之を如何せん。昔、漢の武帝既に崩じ、昭帝嗣ぎ立つ。燕王旦は素より驕縦にして、诪張(ちゅうちょう)して服せず。霍光は一折簡を遣わして之を誅す。則ち身は死し国は除かる。夫れ臣子と為らば、慎まざるを得ず」と。
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貞観政要・任賢魏徴は、鉅鹿(きょろく)の人なり。近ごろ家を相州の内黄に徙(うつ)す。武徳の末、太子洗馬(せんば)と為る。太宗と隠太子と陰かに相い傾奪するを見て、毎に建成に勧めて早く之が謀を為さしむ。太宗既に隠太子を誅し、徴を召して之を責めて曰く、「汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや」と。衆皆な之が為に危懼す。徴、慷慨自若として、従容として対えて曰く、「皇太子若し臣の言に従わば、必ず今日の禍無からん」と。太宗之が為に容を斂(おさ)め、厚く礼異を加え、擢(ぬきん)でて諫議大夫に拝す。数々之を臥内に引き、訪うに政術を以てす。徴は雅(もと)より経国の才有り、性又た抗直にして、屈撓する所無し。太宗毎に之と言い、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦た知己の主に逢うを喜び、其の力用を竭くす。又た之を労いて曰く、「卿の諫むる所、前後二百余事、皆な朕が意に称(かな)う。卿の忠誠もて国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是くの若くならんや」と。三年、累遷して秘書監となり、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂いて曰く、「卿の罪は鉤に中(あ)つるより重く、我の卿に任ずるは管仲に逾(こ)ゆ。近代の君臣相い得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや」と。六年、太宗九成宮に幸し、近臣を宴す。長孫無忌曰く、「王珪・魏徴は、往(さき)に息隠に事う。臣之を見ること讎(あだ)の若し。謂わざりき、今者(いま)又た此の宴を同じくせんとは」と。太宗曰く、「魏徴は往者(さき)には実に我が讎とする所なり。但だ其の心を事うる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用う。何ぞ古烈に慚じんや。徴は毎に顔を犯して切諫し、我の非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり」と。徴再拝して曰く、「陛下、臣を導きて言わしむ。臣の敢えて言う所以なり。若し陛下臣の言を受けずんば、臣も亦た何ぞ敢えて龍鱗を犯し、忌諱に触れんや」と。太宗大いに悦び、各々銭十五万を賜う。七年、王珪に代わりて侍中と為り、累ねて鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職とする所を辞せんことを乞い、散官と為らんことを請う。太宗曰く、「朕は卿を讎虜の中より抜き、卿に任ずるに枢要の職を以てす。朕の非を見れば、未だ嘗て諫めずんばあらず。公独り見ずや、金の鉱に在るは、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛えて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕は方(まさ)に自ら金に比し、卿を以て良工と為す。疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾(しか)るを得んや」と。徴乃ち止む。後に復た固辞す。侍中を解くを聴(ゆる)し、授くるに特進を以てし、仍お門下省の事を知らしむ。十二年、太宗、皇孫の誕(う)まるるを以て、詔して公卿を宴す。帝極めて歓び、侍臣に謂いて曰く、「貞観以前、我に従いて天下を平定し、艱険に周旋するは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし、忠讜(ちゅうとう)を献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、惟だ魏徴のみ。古の名臣も、何を以て加えんや」と。是に於いて親ら佩刀を解きて以て二人に賜う。庶人承乾は春宮に在りて、徳業を修めず。魏王泰は寵愛日に隆く、内外の庶寮、咸な疑議有り。太宗聞きて之を悪(にく)み、侍臣に謂いて曰く、「当今の朝臣、忠謇(ちゅうけん)は魏徴に如くは無し。我遣わして皇太子に傅たらしめ、用て天下の望みを絶たん」と。十七年、遂に太子太師を授け、門下の事を知ること故の如し。徴自ら疾有るを陳ぶ。太宗謂いて曰く、「太子は宗社の本なり。須らく師傅有るべし。故に中正を選びて、以て輔弼と為す。公の疹病を知る。臥して之を護るべし」と。徴乃ち職に就く。尋いで疾に遇う。徴の宅内には先に正堂無し。太宗時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟(や)めて為に造らしめ、五日にして就る。中使を遣わして賜うに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親ら臨みて慟哭し、司空を贈り、謚して文貞と曰う。太宗親ら為に碑文を制し、復た自ら石に書す。特に其の家に食実封九百戸を賜う。太宗後に嘗て侍臣に謂いて曰く、「夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正すべし。古を以て鏡と為せば、以て興替を知るべし。人を以て鏡と為せば、以て得失を明らかにすべし。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過ちを防ぐ。今、魏徴殂逝(そせい)し、遂に一鏡を亡えり」と。因りて泣下すること之を久しくす。乃ち詔して曰く、「昔惟だ魏徴のみ、毎に予が過ちを顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰わるる莫し。朕豈に独り往時に非有りて、皆な茲の日に是ならんや。故に亦た庶僚苟(いやしく)も順い、龍鱗に触れ難き者か。所以に己を虚しくして外に求め、迷いを披きて内に省みる。言いて用いざるは、朕の甘心する所なり。用いて言わざるは、誰の責ぞや。今より已後、各々乃(なんじ)の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠す無かれ」と。
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貞観政要・納諫太宗嘗て苑西監穆裕を怒り、朝堂に於て之を斬らんことを命ず。時に高宗は皇太子と為る。遽かに顔を犯して諫を進む。太宗の意乃ち解く。司徒長孫無忌曰く、「古より太子の諫むるは、或いは間に乗じて従容として言う。今、陛下は天威の怒りを発し、太子は顔を犯すの諫を申(の)ぶ。誠に古今未だ有らざるなり」と。太宗曰く、「夫れ人は久しく相与に処れば、自然に染習す。朕の天下を御してより、心を虚しくして正直なり。即ち魏徴有りて朝夕に諫を進む。徴の亡じてより、劉洎・岑文本・馬周・褚遂良等之に継ぐ。皇太子は幼くして朕の膝前に在り。朕の心に諫むる者を説(よろこ)ぶを見る毎に、因りて染みて以て性を成す。故に今日の諫有り」と。
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