『五輪書(ごりんのしょ)』は、剣豪・宮本武蔵が晩年に書き残した兵法書です。

「剣術の本」と聞くと、刀の振り方や構えの解説を想像するかもしれません。たしかに、そういう箇所もあります。けれど読み進めると、話はすぐに剣の外へ出ていきます。大将は大工の棟梁のようなものだ。商いにも栄える拍子と衰える拍子がある。何でも速ければいいわけではない。極意や秘伝をありがたがるのはおかしい。

武蔵は六十余度の勝負に一度も負けなかったと自分で書いています。そういう人が、最後に書いたのは「勝ち方」の本ではなく、勝ち続けるための物の見方の本でした。経営者やビジネスパーソンに読まれ続けているのは、そのためだと思います。

この記事では、『五輪書』の名言を十二句、原文と現代語訳・解説つきで読んでいきます。並べる順番は本そのものの順で、序から地・水・火・風・空の各巻へ進みます。

なお、引用は師導が収録する底本から、句読点と振り仮名を補った読みの欄をそのまま切り出しています。

『五輪書』とは何か ― 六十歳の武蔵が、洞窟で書いた本

先に本の輪郭を押さえておきます。

宮本武蔵は、江戸時代初めの剣術家です。二本の刀を使う「二天一流(にてんいちりゅう)」の開祖で、晩年は肥後熊本の細川家に客分として迎えられました。

『五輪書』の書き出しには、執筆の日付と場所がはっきり書かれています。寛永二十年(一六四三)十月、肥後の岩戸山(巌殿山)に登って書き始めた。年は六十。 熊本市の西にある雲巌禅寺の奥の洞窟「霊巌洞(れいがんどう)」が、その場所として伝えられています。武蔵はそれから二年足らずの正保二年(一六四五)に亡くなりました。

書名の「五輪」は、仏教で世界を形づくるとされる五つの要素、地・水・火・風・空のことです。武蔵はこれを巻の名にしました。

  • 地の巻:兵法とは何か。全体の見取り図。
  • 水の巻:一対一の剣術。心の持ち方、目のつけ方、太刀の使い方。
  • 火の巻:勝負の駆け引き。一対一にも、大軍同士の合戦にも通じるもの。
  • 風の巻:他の流派の批判。何がおかしいのか。
  • 空の巻:まとめ。迷いの晴れた境地。

武蔵の自筆本は残っておらず、弟子筋に伝わった写本で読まれてきました。写本によって字句に違いがあるので、ここでは師導の底本に従います。

では、中身に入ります。

一、「万事に於て我に師匠なし」 ― 勝った理由を、自分の力にしない

最初は、全巻の序にあたる段からです。

【書き下し】三十を越えて跡を思ひ見るに、兵法至極して勝つにはあらず。おのづから道の器用ありて天理を離れざるが故か、又は他流の兵法不足なる所にや。その後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れば、おのづから兵法の道にあふ事、我五十歳のころなり。それより以来は、尋ね入るべき道なくして光陰をおくる。……兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事に於て我に師匠なし。今この書を作るといへども、仏法儒道の古語をも借(か)らず、軍記軍法の古き事をも用ゐず……

武蔵は序で、十三歳の初勝負から二十八、九歳までに六十余度戦い、一度も負けなかったと振り返ります。そのうえで、こう書いています。

三十を過ぎて振り返ると、自分が勝てたのは、兵法を極めていたからではなかった。 生まれつきの才があったのか、相手の兵法が足りなかったのか。それから朝も夕も鍛錬を重ね、ようやく道にかなったと思えたのは五十歳のころだった。

有名な「万事に於て我に師匠なし」は、そのあとに来ます。兵法の理を他の芸や仕事に当てはめれば、何ごとにも師はいらない。だからこの本も、仏教や儒教の古い言葉を借りず、昔の軍記も使わずに書く、と。

「我に師匠なし」だけを取り出すと、傲慢な天才の言葉に聞こえます。しかしその前には、六十戦無敗の理由を「自分が強かったからではない」と突き放す一文が置かれています。若いころの成功を実力と取り違えなかったから、二十年かけて原理を探し直すことができた。「師匠なし」は、その二十年の結果として出てくる言葉です。

創業期の成功を、社長の才覚の証明だと思い込む会社は少なくありません。市場が伸びていただけかもしれない。競合が弱かっただけかもしれない。武蔵は三十歳でそれを疑い、五十歳までかけて確かめ直しました。

出典:五輪書 序

二、「大将は大工の統領として」 ― 節のある木にも、使いどころがある

地の巻で武蔵は、兵法を大工の仕事にたとえます。その中心になるのが、この段です。

【書き下し】大将は大工の統領(とうりやう)として、天下のかねを弁へ、其の国のかねを糾し、其の家のかねを知る事、統領の道なり。大工の統領は、堂塔伽藍のすみかねを覚え、くうでん・ろうかくのさしづを知り、人々をつかひ、家々を取立つる事、大工の統領も武家の統領も同じ事なり。……家を立つるに木配りをする事、直(すぐ)にして節もなく見つきのよきを表の柱とし、少し節有りとも直につよきをうちの柱とし、たとひかよわくとも節なき木の見ざまよきをば、敷居・鴨居・戸障子と夫々(それぞれ)に遣ひ、節有りとも歪みたりとも強き木をば、其の家の強み強みを見分けて、能(よ)く吟味して遣ふに於ては、其の家久しく崩れがたし。又材木のうちにしても、節多く歪みて弱きをば、あししろ共なし、後には薪共なすべきなり。

大将は大工の棟梁(とうりょう)のようなものだ。棟梁は、家を建てるときに木を配る。まっすぐで節がなく見た目のよい木は、表の柱に。少し節があってもまっすぐで強い木は、内側の柱に。弱くても節がなく見た目のよい木は、敷居や鴨居や戸障子に。節があって歪んでいても強い木は、家の強みになる場所に。 そうやって木を見分けて使えば、家は長く崩れない。

目を引くのは、「見た目がよい」と「強い」を別の性質として扱っていることです。見た目のよい木は人目につく表へ、強い木は荷重のかかるところへ。両方そろった木ばかりではないから、それぞれの長所が生きる場所に置く。弱くて節の多い木でさえ、足場にし、最後は薪にする。捨てる木は一本もありません。

武蔵は続けて、職人の使い方も書いています。腕の上中下を知り、下手な者には根太(床下の横木)を張らせ、さらに劣る者には楔(くさび)を削らせる。人を見分けて使えば、仕事ははかどる。 そして棟梁の心得として、妥協しないこと、職人の気力の上中下を知ること、励ますこと、無理を知ることを挙げます。

人事の話として読むと、この段はかなり具体的です。優秀な人を集める話ではありません。いまいる人の性質を見分けて、それぞれが強みになる場所に置く話です。

出典:五輪書 地の巻

三、「物毎のさかゆる拍子・おとろふる拍子」 ― 商いにも拍子がある

地の巻の最後で、武蔵は『五輪書』全体を貫く言葉を持ち出します。「拍子(ひょうし)」、つまりリズムとタイミングです。

【書き下し】物毎に付き拍子は有るものなれども、とりわけ兵法の拍子、鍛錬なくては及びがたき所なり。世の中の拍子あらはれて有る事、乱舞の道、れい人(伶人)管絃の拍子など、是れ皆能く合ふ所のろくなる拍子なり。武芸の道にわたりて、弓を射、鉄砲を放ち、馬に乗る事迄も、拍子・調子は有り。諸芸諸能に至りても、拍子をそむく事は有るべからず。又空なる事に於ても拍子は有り。武士の身の上にして、奉公に身をしあぐる拍子・しさぐる拍子、筈のあふ・筈のちがふ拍子有り。或は商の道、分限になる拍子・分限にても其のたゆる拍子、道々に付けて拍子の相違有る事なり。物毎のさかゆる拍子・おとろふる拍子、能々(よくよく)分別すべし。

物事にはすべて拍子がある。舞や音楽の拍子、弓や鉄砲や馬の拍子。そして目に見えないことにも拍子がある。武士なら、奉公で出世する拍子と落ちていく拍子。商いなら、財を成す拍子と、財があっても尽きていく拍子。 物事の栄える拍子と衰える拍子を、よくよく見分けよ。

剣術の本に、いきなり商売の栄枯盛衰が出てきます。武蔵にとって拍子は、剣の技術ではなく、世の中のあらゆる事象に流れている「波」のことでした。

そして兵法で特に重んじるのが、「背く拍子」です。合う拍子、当たる拍子、間の拍子を知ったうえで、相手の拍子にあえて合わせない。敵の思いもよらない拍子で勝つ。

事業にも、伸びる時期と縮む時期があります。問題は、その波の中にいるとき、自分がどちらの拍子にいるのかが見えにくいことです。「分限にても其のたゆる拍子」——財産があっても、それが尽きていく拍子がある。うまくいっている最中にこそ、衰える拍子は始まっている、という読み方もできます。

出典:五輪書 地の巻

四、「心の持様は常の心に替る事なかれ」 ― 本番用の心を作らない

水の巻の最初に置かれているのは、剣の構えではなく、心の持ち方です。

【書き下し】兵法の道に於て、心の持様は常の心に替る事なかれ。常にも兵法の時にも少しも替らずして、心を広く直(すぐ)にして、きつくひつぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬ様に、心をまん中におきて、心を静にゆるがせて、其のゆるぎのせつなもゆるぎやまぬ様に、能々(よくよく)吟味すべし。静なる時も心は静ならず、何とはやき時も心は少しもはやからず、心は体につれず、体は心につれず、……

兵法における心の持ち方は、ふだんの心と変えてはならない。ふだんも戦いのときも少しも変えず、心を広くまっすぐにし、張りつめすぎず、少しもたるませず、心を真ん中に置く。静かなときも心は止まらず、どんなに速いときも心は少しも急がない。 心は体に引きずられず、体は心に引きずられない。

武蔵が求めているのは、「本番に強い心」を別に作ることではありません。本番の心と、ふだんの心を同じにすることです。本番で特別な心になろうとするから、硬くなる。ふだんから同じ心でいれば、本番で切り替える必要がない。

この段にはもう一つ、見落とされがちな一節があります。身分の低い者は大きなことを心に知り尽くし、身分の高い者は小さなことをよく知れ。 現場の人間は全体を知り、上に立つ人間は細部を知る。立場と反対のものを持て、ということです。そして上も下も、自分を贔屓(ひいき)しない心を持て、と続きます。

大事な商談や会議の前だけ、急に気合いを入れ直す。そういう人ほど本番で崩れやすいのは、武蔵の言うとおりかもしれません。

出典:五輪書 水の巻

五、「観の目つよく、見の目よわく」 ― 目の前の太刀を見るな

『五輪書』でいちばんよく引かれる言葉の一つが、この「観見(かんけん)二つの目」です。

【書き下し】目の付様は、大きに広く付くる目なり。観・見二ツの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見る事、兵法の専なり。敵の太刀を知り、聊(いささ)かも敵の太刀を見ずと云ふ事、兵法の大事なり。

目のつけ方は、大きく広く見る目である。「観」と「見」の二つがあり、観の目を強く、見の目を弱く働かせる。遠いところを近くに見、近いところを遠くに見る。敵の太刀を知りながら、敵の太刀そのものは少しも見ない。 これが兵法の大事だ。

「見」は目の前のものを見る、ふつうの目。「観」は全体の気配や流れをつかむ目。武蔵は、目の前の敵の太刀を凝視するなと言います。太刀に目を奪われると、その太刀を動かしている体や、足の運びや、周りの状況が見えなくなるからです。

武蔵は、これは一対一でも大軍同士の合戦でも同じだと書き、さらに「いそがしき時、俄(にはか)には弁へがたし」——忙しいときに急にはできない、だから日ごろから常にこの目でいよ、と念を押しています。

経営の場面でいえば、「見の目」は今月の数字、目の前のクレーム、競合の新商品。「観の目」は、それを生んでいる流れです。数字を見るなとは言っていません。数字を知りながら、数字に目を奪われるな、ということです。

出典:五輪書 水の巻

六、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」 ― 今日は昨日の我に勝つ

水の巻の結びにあるのが、『五輪書』でもっとも有名なこの一句です。

【書き下し】千里の道も一足づつ運ぶなり。緩々(ゆるゆる)と思ひ、此の法を行ふ事、武士の役なりと心得て、今日は昨日の我に勝ち、あすは下手に勝ち、後は上手に勝つと思ひ、此の書物の如くにして、少しも脇の道へ心のゆかざる様に思ふべし。……千日の稽古を鍛(たん)とし、万日の稽古を錬(れん)とす。能々(よくよく)吟味有るべきものなり。

千日の稽古を「鍛(たん)」といい、万日の稽古を「錬(れん)」という。千日はおよそ三年、万日はおよそ二十七年です。

ただ、この一句の前に置かれている文章のほうが、実は実用的です。千里の道も一足ずつ運ぶ。ゆるゆると、あせらずに行え。今日は昨日の自分に勝ち、明日は下手な相手に勝ち、そのあと上手な相手に勝つ。

上達の順番がはっきりしています。まず昨日の自分。次に下手。最後に上手。いきなり上手と比べない。比べる相手を、自分の段階に合わせて選んでいます。

そしてもう一つ。たとえどれほどの敵に打ち勝っても、習いに背いていたなら、それは本当の道ではない。 勝ったかどうかより、正しいやり方で勝ったかどうか。結果だけで自分を評価するな、ということです。

新しく入った社員を、いきなり社内のトップと比べて評価していないか。この段は、育成の順番の話としても読めます。

出典:五輪書 水の巻

七、「枕をおさふる」 ― 「う」の字の頭を押さえる

火の巻は、勝負の駆け引きの巻です。その中で、とくに印象的なたとえがこれです。

【書き下し】枕をおさふると云ふは、我実の道を得て、敵にかかりあふ時、敵何事にても思ふきざしを、敵のせぬ内に見知りて、敵の打つと云ふ「う」つの「う」の字のかしらをおさへて、後をさせざる心、枕をおさふる心なり。たとへば、敵のかかると云ふ「か」の字をおさへ、とぶと云ふ「と」の字のかしらをおさへ、きると云ふ「き」の字のかしらをおさふる、皆以て同じ心なり。

「枕を押さえる」とは、相手に頭を上げさせないこと。敵が何かしようとする兆しを、敵が実行する前に見抜き、「打つ」の「う」の字の頭を押さえて、その先をさせない。 「かかる」なら「か」を、「跳ぶ」なら「と」を、「斬る」なら「き」を押さえる。

言葉の一文字目で止める、というたとえが見事です。相手が動き出してから対応するのでは遅い。動こうとした瞬間に止める。

ただし、武蔵はすぐに注意を添えています。敵のすることを「押さえよう、押さえよう」とばかり思うのは、それ自体が後手だ。 相手の役に立たない動きは好きにさせておき、役に立つ動きだけを押さえる。そして何より、自分が道に従って動いている中で、相手の頭を押さえる。

競合の動きに先回りしようとするあまり、競合の後ばかり追いかけている会社は珍しくありません。武蔵に言わせれば、それも後手です。押さえるべきは相手の全部ではなく、相手にとって効く一手だけ。

出典:五輪書 火の巻

八、「敵になる」 ― 立て籠もる者は雉、打ち入る者は鷹

同じ火の巻から、もう一つ。

【書き下し】敵になると云ふは、我身を敵になり替へて思ふべきと云ふ所なり。世の中を見るに、ぬすみなどして家の内へ取籠る様なるものをも、敵を強く思ひなすものなり。敵になりて思へば、世の中の人を皆相手として、にげこみて、せんかたなき心なり。取籠るものは雉子(きじ)なり。打ち果しに入る人は鷹なり。能々(よくよく)工夫有るべし。

「敵になる」とは、自分を敵の立場に置き換えて考えること。盗人が家に立て籠もると、外の人はその盗人を強い相手のように思ってしまう。しかし盗人の側になってみれば、世の中すべてを敵に回し、逃げ込んで、どうしようもない心境なのだ。立て籠もる者は雉(きじ)、討ち取りに入る者は鷹(たか)である。

武蔵は、合戦でも同じだと書きます。「敵」と聞くと、人は実際以上に強く思って大ごとにしてしまう。だが、よい軍勢を持ち、道理をよく知っていれば、心配するような相手ではない。

相手の立場に立つ、というと、ふつうは相手への思いやりの話になります。武蔵の場合は逆で、相手を過大評価しないために相手の立場に立ちます。追い詰められているのは向こうではないか。こちらが雉ではなく鷹ではないか。

大手の参入、強い競合、厳しい交渉相手。怖いと感じたときこそ、向こうの事情を具体的に想像してみる。案外、相手のほうが立て籠もった雉だったりします。

出典:五輪書 火の巻

九、「山海の心」 ― 同じ手は三度使わない

火の巻からもう一句、短いものを。

【書き下し】山海の心と云ふは、敵我戦の内に、同じ事を度々する事、悪き所なり。同じ事二度は是非に及ばず、三度するに非ず。敵にわざをしかくるに、一度にて用ひずば、今一ツもせきかけて、其の利におよばず、各別替りたる事をふつとしかけ、それにもはかゆかずば、又各別の事をしかくべし。然るによつて、敵、山と思はば海としかけ、海と思はば山としかくる心、兵法の道なり。

戦いの中で同じことを何度もするのは悪い。同じことを二度するのはやむをえないが、三度してはならない。 一度で効かなければ、もう一度畳みかけてみる。それでも駄目なら、まったく違うことをふっと仕掛ける。それでも駄目なら、また別のことを。敵が山だと思えば海と仕掛け、海だと思えば山と仕掛ける。

「二度は是非に及ばず、三度するに非ず」。二度までは許す、というところに武蔵の現実感覚があります。一度でやめるのは早すぎる。しかし三度目は、もう相手に読まれている。

同じ営業トークを、断られた相手に三度繰り返す。同じ施策を、成果が出ないまま三期続ける。武蔵の基準なら、三度目の前に手を変えるべきでした。同じ火の巻には、もつれて膠着したら気持ちを振り捨てて「新たになる」べきだ、という段もあります。

出典:五輪書 火の巻

十、「はやきはこけると云ひて」 ― 上手は速く見えない

風の巻は、他の流派を批判する巻です。その中で、いまの私たちにも刺さるのが「速さ」への批判です。

【書き下し】兵法のはやきと云ふ所、実の道に非ず。はやきと云ふ事は、物毎の拍子の間にあはざるによつて、はやき・おそきと云ふ心なり。其の道上手になりては、はやく見えざるものなり。……はやきはこけると云ひて、間に合はず。勿論おそきも悪し。是も上手のする事は緩々(ゆるゆる)と見えて、間のぬけざる所なり。諸事しつけたるもののする事は、いそがしく見えざるものなり。

兵法で「速い」というのは、本当の道ではない。速い・遅いというのは、拍子に合っていないから言うことだ。その道の上手になると、速くは見えない。 一日に四十里、五十里を行く者も、朝から晩まで走っているわけではない。速いと転ぶ。 もちろん遅いのも悪い。上手のすることはゆったりと見えて、しかも間が抜けない。何ごとも熟練した人のすることは、せわしく見えない。

武蔵は、速さそのものを否定しているのではありません。速さを目的にするなと言っています。拍子に合っていれば、速さは結果としてついてくる。拍子に合っていないから、急ぐ必要が出てくる。

さらにこの段は、相手がむやみに速いときは、あえて静かになり、相手につられないことが肝要だ、と結ばれます。

「スピードが命」と言われる時代です。しかし、忙しそうに見える組織が速い組織とは限りません。熟練した人の仕事は、せわしく見えない。そちらのほうが、実際には早く着いていることが多いものです。

出典:五輪書 風の巻

十一、「何れを表といひ、何れを奥と云はん」 ― 秘伝をありがたがらない

風の巻から、もう一句。今度は教え方の話です。

【書き下し】兵法の事に於て、何れを表(おもて)といひ、何れを奥と云はん。芸によりことにふれて、極意・秘伝などいひて、奥口あれ共、敵と打ち合ふ時の理に於ては、表にて戦ひ、奥をもつて切るといふ事に非ず。……されば世の中に、山の奥を尋ぬるに、猶奥へ行かんと思へば、又口に出るものなり。

兵法で、何を「表(入門)」といい、何を「奥(極意)」というのか。芸によっては極意だ秘伝だといって奥と入口を分けるが、実際に敵と打ち合うときに、表の技で戦って奥の技で斬る、などということはない。 山の奥を尋ねて、もっと奥へ行こうとすると、かえって反対側の入口に出てしまう。

では武蔵はどう教えたのか。初めて学ぶ人には、やりやすい技から稽古させ、飲み込みの早い理から先に教える。難しいことは、その人の心がほぐれた頃合いを見て、順に教える。そして、弟子に秘密を守らせる誓紙や罰文(ばつぶん)は好まない、と書いています。

「この戦い方の理に、何を隠し、何を見せびらかすというのか」。武蔵にとって、秘伝や極意は教える側の権威づけであって、戦いの役には立たないものでした。

社内のノウハウを、一部のベテランだけが「秘伝」として抱えていないか。本当に役立つ知識なら、隠す理由はありません。段階に応じて、順に渡していけばいい。 武蔵の教え方は、そのまま人材育成の設計図として読めます。

出典:五輪書 風の巻

十二、「迷ひの雲の晴れたる所こそ、実の空」 ― 分からないことを「空」と呼ぶな

最後は、いちばん短い巻、空の巻です。

【書き下し】有る所を知りて無き所を知る、是(これ)則(すなは)ち空なり。世の中に於てあしく見れば、物を弁へざる所を空と見る所、実(まこと)の空には非ず、皆迷ふ心なり。……心意二ツの心をみがき、観見二ツの眼をとぎ、少しもくもりなく、迷ひの雲の晴れたる所こそ、実の空と知るべきなり。

空とは、ものの無いところ、知りえないところのこと。有るところを知り尽くして、はじめて無いところを知る。それが空だ。 世間では、物事が分かっていない状態を空と呼んだりするが、それは本当の空ではなく、ただの迷いである。心と意を磨き、観と見の二つの目を研ぎ、少しの曇りもなく、迷いの雲が晴れたところこそ、本当の空だ。

「空」というと、何もない境地、悟りの境地を思い浮かべます。武蔵の空は違います。全部を知ったうえで、それでも分からないところのことです。知らないことを「空」と呼んで分かったつもりになるのは、迷いにすぎない、と武蔵ははっきり言っています。

そして、ここで五番目の「観見二つの目」がもう一度出てきます。最後の巻で、水の巻の目のつけ方に戻ってくる。『五輪書』は、そういう組み立ての本です。

出典:五輪書 空の巻

十二句を並べ直す

最後に、十二句を並べ直しておきます。

一、万事に於て我に師匠なし ——勝った理由を、自分の才覚にしない。
二、大将は大工の統領 ——見た目のよい木と、強い木は、置き場所が違う。
三、さかゆる拍子・おとろふる拍子 ——うまくいっている最中に、衰える拍子は始まる。
四、常の心に替る事なかれ ——本番用の心を、別に作らない。
五、観の目つよく、見の目よわく ——数字を知りながら、数字に目を奪われない。
六、千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす ——まず昨日の自分に勝つ。
七、枕をおさふる ——押さえるのは、相手に効く一手だけ。
八、敵になる ——怖い相手ほど、向こうの事情を想像する。
九、山海の心 ——同じ手は、二度まで。
十、はやきはこける ——上手は、速く見えない。
十一、何れを表といひ、何れを奥と云はん ——秘伝をありがたがらない。
十二、迷ひの雲の晴れたる所 ——分からないことを、分かったつもりにしない。

並べてみると、十二句のうち多くが、「見え方」と「実際」のずれの話だと気づきます。勝ったのは強かったからではなかった。速く見える人が速いわけではない。怖く見える敵が強いわけではない。極意に見えるものが役に立つわけではない。空に見えるものが悟りとは限らない。

武蔵は、見え方に引きずられずに実際を見る目を、剣の稽古を通じて鍛えました。そして六十歳でそれを書き残すとき、剣の話だけでは終わらせず、大工の棟梁や商いの拍子にまで広げた。剣術の本の形をした、物の見方の本。それが『五輪書』です。

結び――「我、事において後悔せず」について

最後に一つ、補足しておきます。

武蔵の名言としてよく並ぶ「我、事において後悔せず」は、『五輪書』の言葉ではありません。武蔵が亡くなる直前に書いたとされる『独行道(どっこうどう)』という短い箇条書きの一条です。師導は『独行道』を収録していないので、ここでは原文にリンクを張っていません。

ただ、この一句を『五輪書』と並べると、面白いことに気づきます。『五輪書』の武蔵は、三十歳で自分の勝利を疑い直し、五十歳まで鍛錬を重ね、六十歳で「習いに背いて勝ったなら本当の道ではない」と書いた人です。後悔しない人というより、振り返ることをやめなかった人でした。「後悔せず」は、振り返りを尽くした人の最後の言葉として読むと、意味が変わってきます。

『五輪書』は短い本です。五巻を通しても、一日あれば読めます。ただ、武蔵は各段の終わりに何度も「よくよく吟味すべし」と書いています。そのとおり、一度で読み終える本ではありません。


この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・現代語訳と解説つきで収録しています。『五輪書』は地・水・火・風・空の五巻を通して読めます。

五輪書の名句一覧

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