五輪書 / 風の巻
兵法のはやきと云所実の道に非ずはやきと云事は物毎の拍子の間にあはざるによつてはやきおそきと云ふ心也其道上手になりてははやく見えざるもの也縦人にはや道と云て四十里五十里行ものも有是も朝より晩迄はやくはしるにではなし道のふかんなるものは一日はしる様なれ共はかゆかざるもの也乱舞の道に上手の謡ふうたひに下手のつけてうたへば後るる心有ていそがしきもの也又鼓太鼓に老松をうつに静なる位なれ共下手は是にもおくれさきたつ心有高砂は急なる位なれ共はやきと云事悪しはやきはこけると云て間に合ず勿論おそきも悪し是も上手のする事は緩々と見えて間のぬけざる所也諸事しつけたるもののする事はいそがしく見えざるもの也此たとへを以て道の理を知るべし殊に兵法の道に於てはやきと云事悪し其子細は是も所によりて沼ふけなどにて身足共に早くゆきがたし太刀はいよいよはやくきる事なし早くきらんとすれば扇小刀の様にはあらでちやくときれば少もきれざるもの也能々分別すべし大分の兵法にしてもはやくいそぐ心悪し枕をおさふると云心にては少もおそき事はなき事也人のむざとはやき事などにはそむくと云て静になり人につかざる所肝要也此心の工夫鍛錬有べき事也
書き下し
兵法のはやきと云ふ所、実の道に非ず。はやきと云ふ事は、物毎の拍子の間にあはざるによつて、はやき・おそきと云ふ心なり。其の道上手になりては、はやく見えざるものなり。縦(たと)ひ人にはや道と云ひて、四十里・五十里行くものも有り。是も朝より晩迄はやく走るにではなし。道のふかんなるものは、一日走る様なれ共、はかゆかざるものなり。乱舞の道に、上手の謡ふうたひに下手のつけてうたへば、後るる心有りていそがしきものなり。又鼓・太鼓に老松をうつに、静なる位なれ共、下手は是にもおくれ・さきたつ心有り。高砂は急なる位なれ共、はやきと云ふ事悪し。はやきはこけると云ひて、間に合はず。勿論おそきも悪し。是も上手のする事は緩々(ゆるゆる)と見えて、間のぬけざる所なり。諸事しつけたるもののする事は、いそがしく見えざるものなり。此のたとへを以て、道の理を知るべし。殊に兵法の道に於て、はやきと云ふ事悪し。其の子細は、是も所によりて、沼ふけなどにて、身足共に早くゆきがたし。太刀はいよいよはやくきる事なし。早くきらんとすれば、扇・小刀の様にはあらで、ちやくと切れば少しも切れざるものなり。能々(よくよく)分別すべし。大分の兵法にしても、はやくいそぐ心悪し。枕をおさふると云ふ心にては、少しもおそき事はなき事なり。人のむざとはやき事などには、そむくと云ひて、静になり、人につかざる所肝要なり。此の心の工夫・鍛錬有るべき事なり。
現代語訳
兵法における「速さ」というものは、真の道ではない。速いというのは、物事の拍子(リズム)に合わないから「速い・遅い」と言うにすぎない。その道の上手になると、動きは速く見えないものだ。たとえば「早道(脚の速い者)」といって一日に四十里五十里を行く者もいるが、それは朝から晩までずっと速く走っているのではない。走りの下手な者は一日中走っているようでも、はかどらないものだ。舞や謡の道でも、上手の謡に下手が合わせて謡えば、遅れまいとして気ぜわしくなる。鼓・太鼓で「老松」を打つのは静かな調子だが、下手はこれにも遅れたり先走ったりする。「高砂」は急な調子だが、それでも速ければよいというものではない。「速いは転ぶ」といって、速すぎれば拍子に間に合わない。むろん遅すぎるのも悪い。上手のすることは、ゆったりと見えて拍子が抜けない。何ごとも修練を積んだ者のすることは、気ぜわしく見えないものだ。このたとえで道の理を知るがよい。とりわけ兵法では速さは悪い。というのも、たとえば沼や深田では体も足も速くは動けず、太刀はなおさら速くは切れない。速く切ろうとすれば、扇や小刀のようにはいかず、ぱっと切ったつもりでも少しも切れないものだ。よくよく分別せよ。大きな兵法(合戦)でも、速く急ぐ心は悪い。「枕を押さえる(相手の動きを起こる前に制する)」心でいれば、決して遅れることはない。相手がむやみに速いときは、あえて逆らうように静かに構え、相手につられない――そこが肝要である。この心の工夫と鍛錬を積むべきである。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』桓公五年 繻葛の戦い五年春正月、甲戌、己丑、陳侯鮑卒す、再び赴ぐるなり。是に於いて陳亂る。文公の子佗大子免を殺して之に代はる。公疾病にして亂作る。國人分散す、故に再び赴ぐ。夏、齊侯・鄭伯紀に朝す、以って之を襲はんと欲す。紀人之を知る。王鄭伯の政を奪ふ。鄭伯朝せず。秋、王諸侯を以って鄭を伐つ。鄭伯之を禦ぐ。王中軍と為る。虢公林父右軍に將たり、蔡人・衛人焉に屬す。周公黑肩左軍に將たり、陳人焉に屬す。鄭の子元左拒と為りて、以って蔡人・衛人に當たり、右拒と為りて、以って陳人に當たらんことを請ふ。曰く、「陳亂れて、民鬬心有る莫し。若し先づ之を犯さば、必ず奔らん。王の卒之を顧みば、必ず亂れん。蔡・衛は枝へず、固より將に先づ奔らんとす。既にして王の卒に萃まらば、以って事を集す可し」と。之に從ふ。曼伯右拒と為り、祭仲足左拒と為り、原繁・高渠彌中軍を以って公を奉じ、魚麗の陳を為す。偏を先にし伍を後にし、伍承けて彌縫す。繻葛に戰ふ。二拒に命じて曰く、「旝動かば鼓せよ」と。蔡・衛・陳皆奔る。王の卒亂る。鄭の師合して以って之を攻む。王の卒大いに敗る。祝聃王を射て肩に中つ。王も亦た能く軍す。祝聃之に從はんと請ふ。公曰く、「君子は多く人に上たらんことを欲せず。況や敢へて天子を陵がんや。苟も自ら救ひて、社稷隕つること無くんば、多なり」と。夜、鄭伯祭足をして王を勞ひ、且つ左右を問はしむ。仍叔の子來聘す、弱なればなり。秋、大いに雩す。書するは、時ならざればなり。凡そ祀は、啟蟄にして郊し、龍見れて雩し、始めて殺して嘗し、閉蟄にして烝す。過ぐれば則ち書す。冬、淳于公曹に如く。其の國の危ふきを度り、遂に復らず。
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史記 春申君列伝此れより観れば、楚国は援なり、隣国は敵なり。詩に云ふ『趯趯たる毚免、犬に遇ひてこれを獲らる。他人心有り、余これを忖度す』と。今、王、中道にして韓・魏の王を善くするを信ず、此れ正に呉の越を信ずるなり。臣これを聞く、敵は仮すべからず、時は失ふべからずと。臣恐る、韓・魏は辞を卑くして患ひを除き、実は大国を欺かんと欲するを。何となれば則ち、王は韓・魏に重世の徳無くして、累世の怨み有り。夫れ韓・魏の父子兄弟の踵を接して秦に死する者は将に十世ならんとす。本国残はれ、社稷壊れ、宗廟毀たる。腹を刳き腸を絶ち、頸を折り頤を摺き、首身分離し、骸骨を草沢に暴し、頭顱僵仆して、境に相望む。父子老弱の脰を系ぎ手を束ねて群虜と為る者は、路に相及ぶ。鬼神孤傷して、血食する所無し。人民は生を聊んぜず、族類離散し、流亡して仆妾と為る者、海内に盈満す。故に韓・魏の亡びざるは、秦の社稷の憂ひなり。今、王これに資して与に楚を攻む、また過ちならずや。且つ王の楚を攻むるに将に悪くにか兵を出ださんとする。王将に路を仇讎の韓・魏に借らんとするか。兵出づるの日にして王その返らざるを憂へん、是れ王は兵を以て仇讎の韓・魏に資するなり。王若し路を仇讎の韓・魏に借らずんば、必ず随水の右壌を攻めん。随水の右壌は、此れ皆広川大水、山林谿谷にして、食はざるの地なり、王これを有すと雖も、地を得たりと為さず。是れ王は楚を毀るの名有りて地を得るの実無きなり。且つ王の楚を攻むるの日、四国必ず悉く兵を起こして以て王に応ぜん。秦・楚の兵構へて離れず、魏氏将に出でて留・方与・銍・湖陵・碭・蕭・相を攻めんとし、故宋必ず尽きん。斉人南面して楚を攻め、泗上必ず挙げられん。此れ皆平原四達、膏腴の地なり、而して独り攻めしむ。王、楚を破りて以て韓・魏を中国に肥やして斉を勁くせん。
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史記 項羽本紀此の時に当たりて、彭越数(しばしば)梁の地に反し、楚の糧食を絶つ、項王之を患ふ。高俎を為り、太公を其の上に置き、漢王に告げて曰く、「今急ぎ下らずんば、吾太公を烹ん。」と。漢王曰く、「吾項羽と倶に北面して命を懐王に受け、曰く『約して兄弟と為る』と、吾が翁は即ち若(なんぢ)が翁なり、必ず而(なんぢ)が翁を烹んと欲せば、則ち幸ひに我に一桮の羹を分かて。」と。項王怒り、之を殺さんと欲す。項伯曰く、「天下の事未だ知るべからず、且つ天下を為むる者は家を顧みず、之を殺すと雖も益無く、秪(ただ)禍を益すのみ。」と。項王之に従ふ。楚漢久しく相持して未だ決せず、丁壮は軍旅に苦しみ、老弱は転漕に罷る。項王漢王に謂ひて曰く、「天下匈匈たること数歳なる者は、徒だ吾が両人を以てのみ、願はくは漢王と挑戦して雌雄を決せん、徒らに天下の民の父子を苦しむるを為す毋からん。」と。漢王笑ひて謝して曰く、「吾寧ろ智を鬬はすも、力を鬬はす能はず。」と。項王壮士をして出でて挑戦せしむ。漢に騎射を善くする者楼煩有り、楚挑戦すること三合、楼煩輒ち之を射殺す。項王大いに怒り、乃ち自ら甲を被り戟を持ちて挑戦す。楼煩之を射んと欲す、項王目を瞋らして之を叱す、楼煩目敢へて視ず、手敢へて発せず、遂に走りて還りて壁に入り、敢へて復た出でず。漢王人をして間かに之を問はしむ、乃ち項王なり。漢王大いに驚く。是に於て項王乃ち漢王に即きて相与に広武の間に臨みて語る。漢王之を数(せ)む、項王怒り、一戦せんと欲す。漢王聴かず、項王伏弩もて漢王を射中つ。漢王傷つき、走りて成皋に入る。項王淮陰侯已に河北を挙げ、斉・趙を破り、且に楚を撃たんと欲すと聞き、乃ち龍且をして往きて之を撃たしむ。淮陰侯与に戦ひ、騎将灌嬰之を撃ち、大いに楚の軍を破り、龍且を殺す。韓信因りて自ら立ちて斉王と為る。項王龍且の軍破るると聞き、則ち恐れ、盱台の人武渉をして往きて淮陰侯に説かしむ。淮陰侯聴かず。是の時、彭越復た反し、梁の地を下し、楚の糧を絶つ。
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史記 呉王濞列伝呉の少将桓将軍王に説きて曰く、「呉は歩兵多し。歩兵は険に利あり。漢は車騎多し。車騎は平地に利あり。願はくは大王過ぐる所の城邑下らざれば、直ちに棄て去り、疾く西して雒陽の武庫に拠り、敖倉の粟を食み、山河の険に阻りて以て諸侯に令せよ。関に入る毋しと雖も、天下固より已に定まらん。即し大王徐行して、城邑を留め下さば、漢軍の車騎至りて、梁楚の郊に馳せ入らば、事敗れん」と。呉王諸老将に問ふ。老将曰く、「此れ少年の鋒を推すの計は可なるのみ。安くんぞ大慮を知らんや」と。是に於て王桓将軍の計を用ひず。呉王専ら其の兵を并せ将ゐ、未だ淮を度らざるに、諸賓客皆将・校尉・候・
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史記 黥布列伝山東は漢の有に非ざるなり。中計に出でば、勝敗の数未だ知るべからざるなり。下計に出でば、陛下枕を安んじて臥せん」と。上曰く、「何をか上計と謂ふ」と。令尹対へて曰く、「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、斉を并せ魯を取り、檄を燕・趙に伝へ、固く其の所を守らば、山東は漢の有に非ざるなり」と。「何をか中計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた楚を取り、韓を并せ魏を取り、敖庾の粟に拠り、成皋の口を塞がば、勝敗の数未だ知るべからざるなり」と。「何をか下計と謂ふ」と。「東のかた呉を取り、西のかた下蔡を取り、重を越に帰し、身は長沙に帰せば、陛下枕を安んじて臥し、漢事無からん」と。上曰く、「是の計将に安くにか出でんとす」と。令尹対へて曰く、「下計に出でん」と。上曰く、「何の謂ぞ上中計を廃して下計に出づるとは」と。令尹曰く、「布は故の麗山の徒なり。自ら万乗の主に致る。此れ皆身の為にして、後に百姓万世の為に慮ることを顧みざる者なり。故に下計に出づと曰ふ」と。上曰く、「善し」と。薛公に千戸を封ず。乃ち皇子長を立てて淮南王と為す。上遂に兵を発し、自ら将として東のかた布を撃つ。布の初めて反するや、其の将に謂ひて曰く、「上老いたり、兵を厭ふ。必ず来たる能はず。諸将をして使はしめん。諸将は独り淮陰・彭越を患ふるのみ。今皆已に死せり。余は畏るるに足らざるなり」と。故に遂に反す。果して薛公の之を籌るが如く、
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孫子・始計篇孫子曰く、兵とは国の大事なり。死生の地、存亡の道、察せざるべからず。

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