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五輪書 / 火の巻

敵になると云は我身を敵になり替て思ふべきと云所也世の中を見るにぬすみなどして家の内へ取籠る様なるものをも敵を強く思なすもの也敵になりて思へば世の中の人を皆相手としにげこみてせんかたなき心也取籠るものは雉子也打果しに入る人は鷹也能々工夫有べし大きなる兵法にしても敵といへば強く思ひて大事にかくるもの也 よき人数をもち兵法の道理を能知り敵に勝と云所を能うけては気遣すべき道に非ず一分の兵法も敵になりて思ふべし兵法能心得て道理強く其道達者なるものに於ては必ずまくると思ふ所也能々吟味すべし

書き下し

敵になると云ふは、我身を敵になり替へて思ふべきと云ふ所なり。世の中を見るに、ぬすみなどして家の内へ取籠る様なるものをも、敵を強く思ひなすものなり。敵になりて思へば、世の中の人を皆相手として、にげこみて、せんかたなき心なり。取籠るものは雉子(きじ)なり。打ち果しに入る人は鷹なり。能々(よくよく)工夫有るべし。大きなる兵法にしても、敵といへば強く思ひて、大事にかくるものなり。よき人数をもち、兵法の道理を能(よ)く知り、敵に勝つと云ふ所を能くうけては、気遣すべき道に非ず。一分の兵法も、敵になりて思ふべし。兵法能く心得て、道理強く、其の道達者なるものに於ては、必ずまくると思ふ所なり。能々吟味すべし。

現代語訳

「敵になる」というのは、自分の身を敵の立場に置き換えて考えよ、ということである。世間を見ると、盗みなどをして家の中に立て籠もるような者でも、(外から見れば)敵を強大に思ってしまうものだ。だが敵(立て籠もる側)になって考えれば、世間の人すべてを相手にして、逃げ込んで、どうしようもない心境なのだ。立て籠もる者は(追い詰められた)雉(きじ)であり、討ち取りに入る者は鷹である。よくよく工夫せよ。大きな兵法(合戦)でも、「敵」といえば(実際以上に)強く思って、大ごとに構えてしまうものだ。(だが)よい軍勢を持ち、兵法の道理をよく知り、敵に勝てるところをよく心得ていれば、気遣い(心配)するような道ではない。小さな兵法(個人戦)でも、敵の立場になって考えよ。兵法をよく心得て、道理に強く、その道の達人であれば、(相手は)必ず負けると思うものだ。よくよく吟味すべきである。

解説

「敵になる」=相手の立場に立って考えることの効用を説く、心理面で特に優れた一段です。武蔵は鮮やかな例を挙げます。家に立て籠もる犯人は、外から見れば恐ろしく強大に見える。しかし本人の立場になれば、世間全部を敵に回して逃げ込んだ、どうしようもない孤立無援の心境なのだ、と。「立て籠もる者は追い詰められた雉、討ち入る者は鷹」――立場を変えれば、恐れていた相手が実は弱者だと見える。人は相手を実際以上に強く思い込み、必要以上に恐れて大ごとに構えてしまう。だが相手の内側に立てば、その弱み・不安・手詰まりが見えてくる。そのうえで自分が道理と実力を備えていれば、恐れる必要などない――相手も内心「必ず負ける」と思っているのだから。過大評価による恐れを、相手視点への転換で解きほぐす。交渉・競争・対人関係で相手を冷静に見積もるための、実践的な心理術を示した一段です。

この章句が説くこと

敵になる相手の立場過大評価を解く恐れを制す心理術冷静な見積もり

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