「墨守(ぼくしゅ)」。
自分の考えや、昔からのやり方を固く守って変えないこと。「旧習を墨守する」「前例を墨守する」のように、どちらかといえば融通の利かなさを責める言葉として使われます。
語源は、中国の戦国時代の思想家・墨子(ぼくし)です。本名を墨翟(ぼくてき)といい、城を守る技術に長けていました。「墨翟の守り」を縮めて「墨守」。
ところが、語源となった墨子の話を原文で読むと、ずいぶん印象が違います。墨子が守り抜いたのは、実は城ではありません。戦争そのものを起こさせなかったのです。しかも、それが誰にも知られなかった。
そして「墨翟の守り」という言い回しが最初に現れるのは、墨子の本ではなく、籠城している将軍に「もう守るのをやめなさい」と説いた手紙のなかでした。
この記事では、墨子の原文と、同じ話を収めた四つの書、そして「墨守」という言葉が生まれた手紙を読んでいきます。
墨子とは誰か
墨子(前四七〇ごろ〜前三九〇ごろ)は、孔子より少しあとの時代の人です。すべての人を分け隔てなく愛せという「兼愛」、侵略戦争を否定する「非攻」を説き、儒家と正面から対立しました。韓非子が「世の顕学(けんがく)は儒と墨なり」——いま世に目立つ学派は儒家と墨家だ——と並べたほどの勢力です。
墨家の特徴は、戦争に反対するだけでなく、攻められた側を守る技術集団でもあったことです。『墨子』には、城の守り方を具体的に書いた篇が十一も残っています。
ただし、秦漢以後、墨家は急速に姿を消し、清代の学者が掘り起こすまで千年以上も読まれませんでした。「墨守」という言葉だけが、先に日本語にまで届いたわけです。
公輸篇 ― 十日十夜歩いて、最初に言ったこと
墨守の語源とされる話は、『墨子』の公輸篇にあります。
楚の国に、公輸盤(こうしゅばん)という天才技術者がいました。彼が「雲梯(うんてい)」という新しい攻城兵器を作り、楚はそれで小国の宋を攻めようとしていた。それを聞いた墨子は、斉を発って十日十夜歩き、楚の都・郢(えい)にたどり着きます。
公輸盤に会った墨子の第一声は、意外なものでした。
【書き下し】子墨子曰く、「北方に臣を侮る有り。願わくは子を藉りて之を殺さん」と。公輸盤、説ばず。子墨子曰く、「請う、十金を獻ぜん」と。公輸盤曰く、「吾が義、固より人を殺さず」と。
北方に私を侮辱した者がいる。あなたの力を借りて殺してほしい。報酬も出す——。公輸盤は不快になって答えます。「私の義として、人は殺さない」。
墨子は、この一言を待っていました。
【書き下し】義として少なきを殺さずして衆きを殺すは、類を知ると謂う可からず
一人は殺さないというあなたが、宋の大勢の人を殺す兵器を作っている。それは筋が通らない。公輸盤は言い返せなくなります。
先に相手に原則を言わせてから、その原則を相手の行動に当てはめる。十日十夜の道のりは、この一手のための準備でした。
出典:墨子 公輸
楚王の返事 ―「もう作ってしまったから」
公輸盤の紹介で、墨子は楚王に会います。ここでも手法は同じです。
自分の立派な車を捨てて、隣の家のぼろ車を盗もうとする人がいる。自分の錦の服を捨てて、隣の粗末な服を盗もうとする人がいる。どういう人だと思いますか。王は答えます。「盗み癖のある病人だろう」。墨子は続けます。楚は五千里四方、宋は五百里四方。楚には獲物も魚も良材もあふれ、宋には何もない。宋を攻めるのは、その盗み癖と同じです。
王は認めます。しかし、こう付け加えました。
【書き下し】王曰く、「善いかな。然りと雖も、公輸盤、我が為に雲梯を為れり。必ず宋を取らん」と。
もっともだ。しかし、公輸盤がもう雲梯を作ってしまった。だから宋は取る。
理屈では負けたのに、作った以上は使うと言う。いまで言う「サンクコスト(埋没費用)」の罠です。大金を投じたプロジェクトほど、止める理由が見つかっても止められない。二千四百年前の王も、同じところで引っかかっていました。
出典:墨子 公輸
帯を解いて城とし、九度の攻めを防ぐ
論理で止まらないなら、墨子は次の手を打ちます。
【書き下し】子墨子、帶を解きて城と為し、牒を以て械と為す。公輸盤、九たび攻城の機變を設く。子墨子、九たび之を距ぐ。公輸盤の攻械、盡き、子墨子の守圉、餘り有り。
墨子は腰の帯を解いて城壁に見立て、木札を兵器に見立てた。公輸盤は九度、攻め方を変えて攻めた。墨子は九度とも防いだ。公輸盤の攻め手は尽き、墨子の守りにはまだ余裕があった。
机の上の模擬戦で、雲梯では宋を落とせないことを証明してしまったのです。
追い詰められた公輸盤は「あなたを防ぐ方法は分かっている。言わないが」とつぶやき、墨子も「その方法は分かっている。言わないが」と返します。王が意味を尋ねると、墨子は答えます。公輸盤は、私を殺せば宋は守れなくなると考えているのでしょう。しかし、私の弟子の禽滑釐(きんかつり)ら三百人が、すでに私の守りの道具を持って宋の城壁の上で待っています。私を殺しても無駄です。
楚王は、宋を攻めるのをやめました。
墨子は、議論に勝つ準備と、議論に勝ったあとの備えを、別々にしていたわけです。論破しただけでは、相手は力ずくで来る。力ずくで来ても無駄だという状態を、先に作っておいた。 これが「墨翟の守り」の中身です。
出典:墨子 公輸
帰り道、雨宿りを断られる
公輸篇は、次の短い段で終わります。
【書き下し】子墨子、歸るに、宋を過ぐ。天、雨ふる。其の閭中に庇る。閭を守る者、内れざるなり。故に曰く、「神に治まる者は、衆人、其の功を知らず。眀に争う者は、衆人、之を知る」と。
帰り道に宋を通ると、雨が降ってきた。村の門で雨宿りしようとしたが、門番は中に入れてくれなかった。だから言う。見えないところで事を収める者の功は、人々に知られない。目に見えるところで争う者の功は、人々に知られる。
宋の人々は、自分たちの国が攻められかけていたことも、それを止めた人がいたことも知りません。戦争は起きなかった。起きなかったことは、誰にも見えない。 だから、国を救った本人が雨の中に立たされる。
防災、品質管理、情報セキュリティ、経理の内部統制。事故が起きなかった年には、担当者の仕事は誰にも評価されません。墨子の言う「神に治まる者」です。二千年以上前に、この一行が書かれていました。
出典:墨子 公輸
同じ話が、四つの書に残っている
この話は、墨子の本だけでなく、ほかの書にも収められています。師導に入っているものだけで四つあり、読み比べると細部が違います。
| 書 | 模擬戦(九攻九距) | 弟子三百人 | 雨宿りの結び |
|---|---|---|---|
| 『墨子』公輸篇 | あり | あり | あり |
| 『呂氏春秋』愛類篇 | あり | なし | なし |
| 『淮南子』脩務訓 | あり | なし | なし |
| 『戦国策』宋衛策 | なし(比喩の議論だけで王が折れる) | なし | なし |
『呂氏春秋』と『淮南子』は、裳(も)を裂いて足に巻き、十日十夜歩いたという道のりを強調し、墨子が王に「取れるから攻めるのか、取れず不義でも攻めるのか」と二択で迫る形にしています。
【書き下し】公輸般九たび之を攻め、墨子九たび之を卻け、入ること能わず。故に荊輟めて宋を攻めず。
『戦国策』には模擬戦が出てきません。盗み癖の比喩だけで、王は「宋を攻めるのはやめよう」と言っています。
そして、弟子三百人がすでに城壁の上にいるという一番の山場と、雨宿りを断られる結びは、『墨子』自身にしかありません。ほかの書は、この話を「弁論と技術で戦争を止めた話」として収めました。『墨子』だけが、「止めた者は報われない」まで書いています。
出典:呂氏春秋 愛類/淮南子 脩務訓/戦国策 公輸般爲楚設機
守りの条件 ― 良い守将と、それを用いる君主
墨家の守りは、精神論ではありませんでした。『墨子』備城門篇は、弟子の禽滑釐が「小国を守りたい。どうすればいいか」と尋ねる場面から始まります。
【書き下し】子墨子曰く、我が城池、修まり、守器、具わり、推粟、足り、上下、相い親しみ、又た四隣諸侯の救いを得ば、此れ持する所以なり。
城と堀が整い、守りの道具がそろい、食糧が足り、上と下が親しみ合い、周りの国の救援がある。これで持ちこたえられる。墨子はさらに、優れた守将がいても、君主がその人を用いなければ守れない、と付け加えます。
物、人、体制、外部との関係。四つがそろってはじめて守れる。現代の事業継続計画(BCP)の考え方と、ほとんど同じ構成です。この篇から始まる十一篇には、城壁の上に何歩ごとに何を置くかまで、細かく書かれています。
出典:墨子 備城門
「墨翟の守り」が生まれた手紙
では、「墨守」という言葉はどこで生まれたのでしょうか。
時代は墨子より百年以上くだります。燕の大軍が斉に攻め込み、七十余城を奪いました。その後、斉の名将・田単(でんたん)が反撃に転じますが、燕の将軍の一人が斉の聊城(りょうじょう)に立てこもり、一年以上攻めても落ちません。燕の本国で讒言され、帰れば殺されると恐れて、籠城を続けていたのです。
そこで斉の弁士・魯仲連(ろちゅうれん)が手紙を書き、矢に結んで城内に射込みました。その一節です。
【書き下し】今公又弊聊の民を以て、全齊の兵を距ぎ、期年解けざるは、是れ墨翟の守りなり。人を食い骨を炊ぎ、士反北の心無きは、是れ孫臏・呉起の兵なり。能く以て天下に見るべし。
あなたは疲れきった聊城の民で、斉の全軍を防ぎ、一年たっても囲みが解けない。これは墨翟の守りだ。 人を食い骨を炊いても、兵に逃げる心がないのは、孫臏や呉起の用兵だ。その武勇は、もう天下に示すに足りる。
そして魯仲連は、こう続けます。だから、兵を解きなさい。 車も鎧も無傷のまま燕に帰って報告するか、あるいは斉に来て領地をもらうか。どちらでも名誉と実利は立つ。
つまり「墨翟の守り」は、籠城をやめさせるための誉め言葉として使われたのです。あなたの守りは墨子に匹敵する。見事だった。だからもう十分だ——。唐代の『長短経』も、この手紙をほぼそのまま収めています。
『戦国策』では、燕将は「謹んで仰せを承った」と答えて兵を退いたとされます。一方『史記』の魯仲連伝は、燕将が手紙を読んで三日泣き、帰ることも降ることもできずに自害したと伝えています。どちらの結末にせよ、墨守という言葉は、最初から「守ることの終わらせ方」と一緒に登場したわけです。
墨子は、守り続けた人ではない
こうして読むと、今日の「墨守」の意味——考えを変えずにかたくなに守る——は、墨子の実像とかなりずれています。
墨子がしたことを並べ直すと、こうなります。
- 攻める側の技術者のもとへ、自分から出向いた。
- 相手に原則を言わせ、その原則で相手の計画を崩した。
- 論理で止まらない王には、机上の模擬戦で、計画が成功しないことを証明した。
- 力ずくで来られても無駄なように、三百人を先に現場に置いておいた。
どれも、じっと城にこもって守る姿ではありません。先回りして、戦いそのものを起こさせない動きです。
『墨子』の魯問篇には、後日談があります。公輸盤が墨子に言います。「あなたに会う前は、宋が欲しかった。会ってからは、宋をくれると言われても、不義ならいらない」。墨子は答えます。
【書き下し】是れ我れ子に宋を予うるなり。
それなら、私はあなたに宋を与えたことになる。 欲しがる心を手放させたことを、「与えた」と言い換えています。墨子が本当に守ったのは城壁ではなく、相手の考えを変えることでした。
出典:墨子 魯問
結び――守りの仕事は、見えない
「墨守」は、いつしか「変えないこと」の代名詞になりました。しかし語源の話から読み取れるのは、むしろ逆のことです。
- 守りとは、攻めさせないことだった。 城壁で耐えることより前に、攻める側の計画が成り立たないことを示す。
- 守りには、終わらせ方がある。 「墨翟の守り」という言葉は、見事な籠城を称えたうえで、兵を解くよう説く手紙のなかで生まれた。
- うまくいった守りは、誰にも見えない。 墨子は宋を救い、その宋で雨宿りを断られた。
「前例を墨守する」と言われる組織と、墨子の守り方は正反対です。前例を守り続けるのは、城にこもって耐えることに近い。墨子なら、十日十夜歩いて、攻めてくる相手のところへ先に行ったはずです。
そして、何も起きなかった年に、誰にも褒められない仕事をしている人がいたら。その人は、墨子が言う「神に治まる者」かもしれません。
この記事で引いた句は、いずれも師導に原文・書き下し文・現代語訳と解説つきで収録しています。『墨子』は、兼愛・非攻から守城の十一篇まで、全篇を読めます。
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