戦国策 / 燕攻齊取七十餘城
燕攻齊,取七十餘城,唯莒、即墨不下。齊田單以即墨破燕,殺騎劫。初,燕將攻下聊城,人或讒之。燕將懼誅,遂保守聊城,不敢歸。田單攻之歲餘,士卒多死,而聊城不下。魯連乃書,約之矢以射城中,遺燕將曰:「吾聞之,智者不倍時而棄利,勇士不怯死而滅名,忠臣不先身而後君。今公行一朝之忿,不顧燕王之無臣,非忠也;殺身亡聊城,而威不信於齊,非勇也;功廢名滅,後世無稱,非知也。故知者不再計,勇士不怯死。今死生榮辱,尊卑貴賤,此其一時也。願公之詳計而無與俗同也。且楚攻南陽,魏攻平陸,齊無南面之心,以為亡南陽之害,不若得濟北之利,故定計而堅守之。今秦人下兵,魏不敢東面,橫秦之勢合,則楚國之形危。且棄南陽,斷右壤,存濟北,計必為之。今楚、魏交退,燕救不至,齊無天下之規,與聊城共據期年之弊,即臣見公之不能得也。齊必決之於聊城,公無再計。彼燕國大亂,君臣過計,上下迷惑,栗腹以百萬之眾,五折於外,萬乘之國,被圍於趙,壤削主困,為天下戮,公聞之乎?今燕王方寒心獨立,大臣不足恃,國弊多,民心無所歸。今公又以弊聊之民,距全齊之兵,期年不解,是墨翟之守也;食人炊骨,士無反北之心,是孫臏、吳起之兵也。能以見於天下矣!「故為公計者,不如罷兵休士,全車甲,歸報燕王,燕王必喜。士民見公,如見父母,交游攘臂而議於世,功業可明矣。上輔孤主,以制群臣;下養百姓,以資說士。矯國革俗於天下,功名可立也。意者,亦捐燕棄世,東游於齊乎?請裂地定封,富比陶、衛,世世稱孤寡,與齊久存,此亦一計也。二者顯名厚實也,願公熟計而審處一也。「且吾聞,傚小節者不能行大威,惡小恥者不能立榮名。昔管仲射桓公中鉤,篡也;遺公子糾而不能死,怯也;束縛桎桔,辱身也。此三行者,鄉里不通也,世主不臣也。使管仲終窮抑,幽囚而不出,慚恥而不見,窮年沒壽,不免為辱人賤行矣。然而管子并三行之過,據齊國之政,一匡天下,九合諸侯,為五伯首,名高天下,光照鄰國。曹沫為魯君將,三戰三北,而喪地千里。使曹子之足不離陳,計不顧後,出必死而不生,則不免為敗軍禽將。曹子以敗軍禽將,非勇也;功廢名滅,後世無稱,非知也。故去三北之恥,退而與魯君計也,曹子以為遭。齊桓公有天下,朝諸侯。曹子以一劍之任,劫桓公於壇位之上,顏色不變,而辭氣不悖。三戰之所喪,一朝而反之,天下震動驚駭,威信吳、楚,傳名後世。若此二公者,非不能行小節,死小恥也,以為殺身絕世,功名不立,非知也。故去忿恚之心,而成終身之名;除感忿之恥,而立累世之功。故業與三王爭流,名與天壤相敝也。公其圖之!」燕將曰:「敬聞命矣!」因罷兵到讀而去。故解齊國之圍,救百姓之死,仲連之說也。
新字:燕攻斉,取七十余城,唯莒、即墨不下。斉田単以即墨破燕,殺騎劫。初,燕将攻下聊城,人或讒之。燕将懼誅,遂保守聊城,不敢帰。田単攻之歳余,士卒多死,而聊城不下。魯連乃書,約之矢以射城中,遺燕将曰:「吾聞之,智者不倍時而棄利,勇士不怯死而滅名,忠臣不先身而後君。今公行一朝之忿,不顧燕王之無臣,非忠也;殺身亡聊城,而威不信於斉,非勇也;功廃名滅,後世無称,非知也。故知者不再計,勇士不怯死。今死生栄辱,尊卑貴賤,此其一時也。願公之詳計而無与俗同也。且楚攻南陽,魏攻平陸,斉無南面之心,以為亡南陽之害,不若得済北之利,故定計而堅守之。今秦人下兵,魏不敢東面,横秦之勢合,則楚国之形危。且棄南陽,断右壤,存済北,計必為之。今楚、魏交退,燕救不至,斉無天下之規,与聊城共拠期年之弊,即臣見公之不能得也。斉必決之於聊城,公無再計。彼燕国大乱,君臣過計,上下迷惑,栗腹以百万之眾,五折於外,万乗之国,被囲於趙,壤削主困,為天下戮,公聞之乎?今燕王方寒心独立,大臣不足恃,国弊多,民心無所帰。今公又以弊聊之民,距全斉之兵,期年不解,是墨翟之守也;食人炊骨,士無反北之心,是孫臏、吳起之兵也。能以見於天下矣!「故為公計者,不如罷兵休士,全車甲,帰報燕王,燕王必喜。士民見公,如見父母,交游攘臂而議於世,功業可明矣。上輔孤主,以制群臣;下養百姓,以資説士。矯国革俗於天下,功名可立也。意者,亦捐燕棄世,東游於斉乎?請裂地定封,富比陶、衛,世世称孤寡,与斉久存,此亦一計也。二者顕名厚実也,願公熟計而審処一也。「且吾聞,傚小節者不能行大威,悪小恥者不能立栄名。昔管仲射桓公中鉤,篡也;遺公子糾而不能死,怯也;束縛桎桔,辱身也。此三行者,鄉里不通也,世主不臣也。使管仲終窮抑,幽囚而不出,慚恥而不見,窮年没寿,不免為辱人賤行矣。然而管子并三行之過,拠斉国之政,一匡天下,九合諸侯,為五伯首,名高天下,光照鄰国。曹沫為魯君将,三戦三北,而喪地千里。使曹子之足不離陳,計不顧後,出必死而不生,則不免為敗軍禽将。曹子以敗軍禽将,非勇也;功廃名滅,後世無称,非知也。故去三北之恥,退而与魯君計也,曹子以為遭。斉桓公有天下,朝諸侯。曹子以一剣之任,劫桓公於壇位之上,顏色不変,而辞気不悖。三戦之所喪,一朝而反之,天下震動驚駭,威信吳、楚,伝名後世。若此二公者,非不能行小節,死小恥也,以為殺身絶世,功名不立,非知也。故去忿恚之心,而成終身之名;除感忿之恥,而立累世之功。故業与三王争流,名与天壤相敝也。公其図之!」燕将曰:「敬聞命矣!」因罷兵到読而去。故解斉国之囲,救百姓之死,仲連之説也。
書き下し
燕齊を攻め、七十余城を取るも、唯だ莒・即墨のみ下らず。齊の田単、即墨を以て燕を破り、騎劫を殺す。初め、燕将聊城を攻め下すや、人或いは之を讒す。燕将誅を懼れ、遂に聊城を保守し、敢えて帰らず。田単之を攻むること歳余、士卒死する者多くして、聊城下らず。魯連乃ち書を、矢に約して以て城中に射入れ、燕将に遺りて曰く、「吾之を聞く、智者は時に倍きて利を棄てず、勇士は死を怯れて名を滅ぼさず、忠臣は身を先にして君を後にせずと。今公一朝の忿を行い、燕王の臣無きを顧みざるは、忠に非ざるなり。身を殺し聊城を亡ぼし、威齊に信ぜられざるは、勇に非ざるなり。功廃れ名滅び、後世称する無きは、知に非ざるなり。故に知者は再び計らず、勇士は死を怯れず。今死生栄辱、尊卑貴賤、此れ其の一時なり。願わくは公の詳らかに計りて俗と同じくすること無からんことを。且つ楚は南陽を攻め、魏は平陸を攻め、齊は南面の心無く、以為えらく南陽を亡う害は、済北を得るの利に若かずと、故に計を定めて堅く之を守る。今秦人兵を下し、魏敢えて東面せず、横秦の勢合すれば、則ち楚国の形危うし。且つ南陽を棄て、右壌を断ち、済北を存するは、計必ず之を為さん。今楚・魏交々退き、燕の救い至らず、齊天下の規無く、聊城と与に期年の弊を共に拠らば、即ち臣公の得る能わざるを見るなり。齊必ず之を聊城に決す、公再び計ること無かれ。彼の燕国大いに乱れ、君臣計を過り、上下迷惑し、栗腹百万の衆を以て、五たび外に折れ、万乗の国、趙に囲まれ、壌削られ主困しみ、天下の戮と為る、公之を聞くか。今燕王方に寒心して独立し、大臣恃むに足らず、国弊多く、民心帰する所無し。今公又弊聊の民を以て、全齊の兵を距ぎ、期年解けざるは、是れ墨翟の守りなり。人を食い骨を炊ぎ、士反北の心無きは、是れ孫臏・呉起の兵なり。能く以て天下に見るべし。故に公の為に計るは、兵を罷め士を休め、車甲を全うして帰りて燕王に報ずるに如かず、燕王必ず喜ばん。士民公を見ること、父母を見るが如く、交游攘臂して世に議し、功業明らかにすべし。上は孤主を輔けて、以て群臣を制し、下は百姓を養いて、以て説士に資す。国を矯め俗を革むること天下に、功名立つべし。意うに、亦た燕を捐てて世を棄て、東のかた齊に游ばんか。地を裂きて封を定め、富は陶・衛に比し、世世孤寡を称して、齊と久しく存す、此れ亦た一計なり。二者は顕名厚実なり、願わくは公熟計して一を審処せよ。且つ吾聞く、小節に傚う者は大威を行う能わず、小恥を悪む者は栄名を立つる能わずと。昔管仲桓公を射て鉤に中つるは、篡なり。公子糾に遺されて死する能わざるは、怯なり。桎梏に束縛せらるるは、身を辱むるなり。此の三行なる者は、郷里通ぜず、世主臣とせざるなり。管仲をして終に窮抑せしめ、幽囚して出でず、慚恥して見われざらしめば、年を窮め寿を没するまで、辱人賤行為るを免れざらん。然れども管子三行の過ちを并せて、齊国の政に拠り、天下を一匡し、諸侯を九合し、五伯の首と為り、名天下に高く、光隣国を照らす。曹沫魯君の将と為り、三戦三北し、地を喪うこと千里。曹子をして足陳を離れず、計後を顧みず、出でて必ず死して生きざらしめば、則ち敗軍禽将為るを免れざらん。曹子敗軍禽将を以てするは、勇に非ざるなり。功廃れ名滅び、後世称する無きは、知に非ざるなり。故に三北の恥を去り、退きて魯君と計るや、曹子以為えらく遭えりと。齊桓公天下を有ち、諸侯に朝せらる。曹子一剣の任を以て、桓公を壇位の上に劫し、顔色変ぜずして、辞気悖らず。三戦の喪う所、一朝にして之を反す、天下震動驚駭し、威呉・楚に信ぜられ、名を後世に伝う。此の二公の若きは、小節を行い小恥に死する能わざるに非ず、以為えらく身を殺し世を絶たば、功名立たず、知に非ずと。故に忿恚の心を去りて、終身の名を成し、感忿の恥を除きて、累世の功を立つ。故に業三王と流れを争い、名天壌と相敝う。公其れ之を図れ」と。燕将曰く、「敬んで命を聞けり」と。因りて兵を罷め到読して去る。故に齊国の囲みを解き、百姓の死を救うは、仲連の説なり。
現代語訳
燕は齊を攻めて七十余城を奪ったが、莒と即墨の二城だけは陥落しなかった。齊の田単は即墨に拠って燕軍を破り、将軍騎劫を討ち取った。これより先、燕の将軍は聊城を攻め落としたが、ある者に讒言されたため、誅殺を恐れて聊城に立てこもり、燕へ帰ろうとしなかった。田単は一年余りにわたってこの城を攻めたが、多くの兵を失うばかりで、聊城は落ちなかった。そこで魯仲連は手紙を書き、矢に結び付けて城中に射込み、燕将に送ってこう述べた。「私はこう聞いています。智者は時流に逆らって利益を捨てたりせず、勇士は死を恐れて名声を失ったりせず、忠臣は自分の身を先にして主君を後回しにしたりはしないと。今あなたは一時の怒りにまかせて行動し、燕王に仕える臣がいなくなることを顧みない。これは忠ではありません。自らの命を捨てて聊城を滅ぼし、その威名も齊に認められないならば、これは勇ではありません。功績が失われ名声が消えて後世に語り継がれないのは、知ではありません。だから智者は同じ判断を繰り返し迷わず、勇士は死を恐れない。生死栄辱、尊卑貴賤の分かれ目は、まさにこの一時にあります。どうか俗人と同じ考えに流されず、よくよくお考えください。楚は南陽を攻め、魏は平陸を攻めていますが、齊は南方に心を向けず、南陽を失う損失より済北を得る利益の方が大きいと考え、方針を定めて堅く守りを固めています。今、秦が兵を出したため魏は東を向く余裕がなく、秦と手を結ぶ諸国の勢いが合わされば、楚の形勢も危うくなるでしょう。そうなれば齊は南陽を捨て、右の領土を切り離してでも、済北を守り抜こうとするに違いありません。今、楚と魏がともに退き、燕からの救援も来ない中、齊が天下を意に介さず、聊城とともに一年もの疲弊を分かち合うつもりならば、あなたはもはや目的を果たせないでしょう。齊は必ず聊城で決着をつけようとしており、あなたに二度目の計略はありません。あの燕国は大いに乱れ、君臣は判断を誤り、上下ともに迷い惑っています。栗腹は百万の大軍を率いながら五度も外で敗れ、万乗の大国でありながら趙に包囲され、領土を削られ主君は苦しみ、天下の恥辱となった。あなたはそれをお聞きでしょうか。今、燕王は心細く孤立し、頼りになる重臣もおらず、国は疲弊し、民心も定まりません。それなのにあなたは疲れ果てた聊城の民をもって齊の全軍を防ぎ、一年経っても解決しないのは、墨翟のような徹底した籠城戦であり、人の肉を食らい骨を炊いてまで士卒に敗走の気配がないのは、孫臏や呉起の用兵に匹敵するものです。その武勇は天下に示すに足るものでしょう。そこであなたのために考えるならば、兵を退き士卒を休ませ、車馬武具を無傷のまま持ち帰って燕王に報告するのが一番です。燕王はきっと喜ぶでしょう。士や民はあなたを父母のように迎え、人々は腕まくりして世に語り、功業は明らかになります。上は孤立した主君を助けて群臣を統率し、下は民を養って遊説の士を支える。国を正し風俗を改める功績を天下に示せば、功名を打ち立てることができます。あるいは、燕を捨てて世俗を離れ、東の齊に身を寄せるのも一つの道でしょう。土地を分け与えられて領地を定め、陶や衛の富豪にも匹敵する富を得て、代々一国の主として齊とともに長く栄える、これもまた一つの策です。この二つはいずれも名誉と実利を兼ね備えたものです。どうかよく考えて、いずれか一つをお選びください。また私はこう聞いています。小さな節義にこだわる者は大きな威徳を行うことができず、小さな恥を嫌う者は栄えある名声を打ち立てることができないと。昔、管仲は桓公を射て帯の鉤に命中させました。これは主君に背く行為です。公子糾に見捨てられながら殉死しなかったのは、臆病といえます。そして捕らえられ枷をはめられたのは、身の恥辱です。この三つの行いは、郷里の人々にも受け入れられず、世の君主も家臣として用いないようなものです。もし管仲がそのまま失意のうちに捕らわれの身から出ることなく、恥じて表舞台に出なかったならば、生涯、恥ずべき卑しい行いをした人物として終わったでしょう。しかし管仲はこの三つの過ちを併せ持ちながらも、齊国の政治を任され、天下を一つにまとめ、諸侯を九たび会盟させ、五覇の筆頭となり、名声は天下に高く、その光は隣国にまで及びました。曹沫は魯の将軍となり、三度戦って三度敗れ、千里の土地を失いました。もし曹沫が陣を離れず、後のことを顧みず、必ず死んで生き延びまいとしたならば、敗軍の将として捕らえられる運命を免れなかったでしょう。曹沫が敗軍の将として生き延びたのは、勇ではありません。功績が失われ名声が消えて後世に語られないのは、知ではありません。だから彼は三度の敗北の恥を捨て、退いて魯君と謀を練りました。曹沫はこれを好機とみなしたのです。齊の桓公が天下を治め、諸侯に朝見を受けていたとき、曹沫は一振りの剣一つを頼りに、壇上で桓公を脅し、顔色一つ変えず、言葉も乱れませんでした。三度の戦いで失った土地を、一朝にして取り戻し、天下を震撼させ、その威名は呉・楚にまで知れ渡り、名は後世に伝わりました。この二人は、小さな節義を守り小さな恥に死ぬことができなかったのではなく、命を捨てて世を終えれば功名は立てられない、それは知恵ではないと考えたからです。だから彼らは一時の怒りの心を捨てて生涯の名声を成し遂げ、感情に任せた恥辱を退けて代々に伝わる功績を打ち立てたのです。その事業は三王と流れを争うほどであり、その名声は天地とともに朽ちることがありません。あなたもどうかよくお考えください」。燕将は言った。「謹んで仰せを承りました」。そして兵を退いてその地を去った。こうして齊国の包囲を解き、多くの民の命を救ったのは、魯仲連の説得によるものであった。
解説
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戦国策・昌國君樂毅為燕昭王合五國之兵而攻齊昌国君楽毅、燕の昭王の為に五国の兵を合して斉を攻め、七十余城を下し、尽く之を郡県として以て燕に属せしむ。三城未だ下らざるに、燕の昭王死す。恵王位に即き、斉人の反間を用い、楽毅を疑いて騎劫をして之に代わりて将たらしむ。楽毅趙に奔る、趙封じて以て望諸君と為す。斉の田単騎劫を欺詐し、卒に燕軍を敗り、復た七十城を収めて以て斉を復す。燕王悔い、趙の楽毅を用いて燕の弊に乗じて以て燕を伐たんことを懼る。燕王乃ち人をして楽毅を譲めしめ、且つ之に謝して曰く、「先王国を挙げて将軍に委ね、将軍燕の為に斉を破り、先王の讎に報い、天下振動せざる莫し、寡人豈敢えて一日も将軍の功を忘れんや。会たま先王群臣を棄て、寡人新たに位に即き、左右寡人を誤れり。寡人の騎劫をして将軍に代わらしめし所以は、将軍の久しく外に暴露するが為、故に将軍を召して且く事を計るを休めしめんとすればなり。将軍過ちて聴き、以て寡人と郄有りとし、遂に燕を捐てて趙に帰す。将軍自ら計を為すは則ち可なり、而も亦何を以て先王の将軍を遇する所以の意に報いんや」と。 望諸君乃ち人をして書を献じて燕王に報ぜしめて曰く、「臣不佞にして、先王の教えを奉承し、以て左右の心に順う能わず、斧質の罪に抵れて以て先王の明を傷い、而も又足下の義を害せんことを恐れ、故に遁逃して趙に奔る。自ら不肖の罪を負う、故に敢えて辞説を為さず。今王使者をして之を数めしむ、臣侍御者の先王の臣を畜幸せし所以の理を察せずして、而も又臣の先王に事えし所以の心を白かにせざらんことを恐る、故に敢えて書を以て対う。 「臣聞く、賢聖の君は、禄を以て其の親を私せず、功多き者之を授く。官を以て其の愛に随わず、能く当たる者之に処る。故に能を察して官を授くる者は、成功の君なり。行いを論じて交わりを結ぶ者は、名を立つるの士なり。臣学ぶ所を以て之を観るに、先王の挙錯、世に高きの心有り、故に節を魏王に仮り、身を以て燕に察せらるるを得たり。先王過ちて挙げ、之を賓客の中より擢んで、之を群臣の上に立て、父兄に謀らずして、臣をして亜卿為らしめたり。臣自ら以為えらく、令を奉じ教えを承くれば、以て幸いに罪無かるべし、と、故に命を受けて辞せず。 「先王之に命じて曰く、『我斉に積怨深怒有り、軽弱を量らずして、斉を以て事と為さんと欲す』と。臣対えて曰く、『夫れ斉は霸国の余教にして、驟勝の遺事なり、兵甲に閑にして、戦攻に習う。王若し之を攻めんと欲せば、則ち必ず天下を挙げて之を図らん。天下を挙げて之を図るは、趙に結ぶより径なるは莫し。且つ又淮北・宋地は、楚・魏の同じく願う所なり。趙若し許さば、楚・魏を約し、宋力を尽くさば、四国之を攻め、斉大いに破るべし』と。先王曰く、『善し』と。臣乃ち口に令を受け、符節を具え、南のかた臣を趙に使わす。顧みて命に反り、兵を起こして隨いて斉を攻む。天の道、先王の霊を以て、河北の地、先王の挙に隨いて之を済上に有てり。済上の軍、令を奉じて斉を撃ち、大いに之に勝つ。軽卒鋭兵、長駆して国に至る。斉王逃遁して莒に走り、僅かに身を以て免る。珠玉財宝、車甲珍器、尽く収めて燕に入る。大呂は元英に陳ね、故鼎は暦室に反り、斉器は寧台に設く。薊丘の植は、汶皇に植う。五伯自り以来、功未だ先王に及ぶ者有らざるなり。先王以て其の志に愜うと為し、臣を以て命を頓かずと為し、故に地を裂きて之を封じ、小国の諸侯に比するを得しめたり。臣不佞にして、自ら以為えらく、令を奉じ教えを承くれば、以て幸いに罪無かるべし、と、故に命を受けて辞せず。 「臣聞く、賢明の君は、功立ちて廃せず、故に春秋に著る。蚤知の士は、名成りて毀れず、故に後世に称せらる。先王の怨に報い恥を雪ぎ、万乗の強国を夷らげ、八百年の蓄積を収め、群臣を棄つるの日に至りて、余令後嗣に詔ぐの遺義、政を執り事に任ずるの臣、能く法令に循い庶孽に順う所以の者、施して萌隸に及ぶが若きは、皆以て後世に教うべし。 「臣聞く、善く作す者は、必ずしも善く成さず。善く始むる者は、必ずしも善く終えず。昔者伍子胥説かれて闔閭に聴かれ、故に呉王遠く跡して郢に至る。夫差是とせず、之に鴟夷を賜いて江に浮かべたり。故に呉王夫差先論の以て功を立つべきを悟らず、故に子胥を沈めて悔いず。子胥主の量を同じくせざるを蚤く見ざりし、故に江に入りて改めず。夫れ身を免れ功を全うし、以て先王の跡を明らかにするは、臣の上計なり。毀辱の非に離れ、先王の名を堕とすは、臣の大いに恐るる所なり。不測の罪に臨みて、幸いを以て利と為すは、義の敢えて出ださざる所なり。 「臣聞く、古の君子は、交わり絶つとも悪声を出ださず。忠臣の去るや、其の名を潔くせず。臣不佞と雖も、数々君子に教えを奉れり。侍御者の左右の説に親しみて、疏遠の行いを察せざらんことを恐る。故に敢えて書を以て報ず、唯だ君の留意せんことを」と。
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呂氏春秋・行論④齊、宋を攻む。燕王、張魁をして燕の兵を将いて以て從わしむ。齊王之を殺す。燕王之を聞き、泣數行にして下り、有司を召して之に告げて曰く、「余、事を興して、齊、我が使いを殺せり。請う、令して兵を舉げて以て齊を攻めん。」使い命を受く。凡繇進み見え、之を爭いて曰く、「王を賢とす、故に臣為らんことを願えり。今、王、賢主に非ざるなり。願わくは辭して臣為らざらん。」昭王曰く、「是れ何ぞや。」對えて曰く、「松下の亂に、先君以て安んぜず、群臣を棄つるなり。王之を苦しみ痛みて齊に事うるは、力足らざればなり。今魁死して王、齊を攻むるは、是れ魁を視ること先君に賢る。」王曰く、「諾。」王に請いて兵を止めしむ。王曰く、「然らば則ち若何せん。」凡繇對えて曰く、「請う王、縞素して辟けて郊に舎し、使いを齊に遣わし、客みて謝し、此れ盡く寡人の罪なり。大王は賢主なり。豈に盡く諸侯の使者を殺さんや。然るに燕の使者獨り死するは、此れ弊邑の人を擇ぶこと謹まざればなり。願わくは變更して罪を請うを得ん、と曰しめよ。」使者行きて齊に至る。齊王方に大いに飲し、左右の官實、御者甚だ衆し。因りて使者をして進みて報ぜしむ。使者報じて、燕王の甚だ恐懼して罪を請うことを言う。畢りて、又之を復せしめ、以て左右の官實に矜る。因りて乃ち小使を發して以て反って燕王をして舎に復せしむ。此れ濟上の敗るる所以、齊國以て虚するなり。七十城、田單微かりせば固より反らざるに幾し。湣王は大齊を以て驕りて殘せられ、田單は即ち墨城を以て功を立つ。詩に曰く、「將に之を毀たんと欲せば、必ず重ねて之を累ね、將に之を踣さんと欲せば、必ず高く之を舉げよ。」其れ此の謂か。累なりて毀たれず、舉がりて踣れざるは、其れ唯だ道有る者のみか。
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戦国策・燕攻齊齊破燕齊を攻め、齊破る。閔王莒に奔り、淖歯閔王を殺す。田単即墨の城を守り、燕兵を破り、齊墟を復す。襄王太子と為りて徴せらる。齊燕を破るを以て、田単の立つこと疑わる、齊国の衆、皆田単を以て自立せんとすと為すなり。襄王立ち、田単之に相たり。菑水を過ぐるに、老人有り菑を渉りて寒く、出でて行く能わず、沙中に坐す。田単其の寒きを見、後車をして衣を分たしめんと欲するも、以て分つべき無く、単裘を解きて之に衣せしむ。襄王之を悪みて曰く、「田単の施しは、将に以て我が国を取らんと欲するか。早く図らずんば、恐らくは之に後れん」と。左右を顧みるに人無く、巌下に珠を貫く者有り、襄王呼びて之に問いて曰く、「女吾が言を聞くか」と。対えて曰く、「之を聞けり」と。王曰く、「女以て何如と為すか」と。対えて曰く、「王は因りて以て己の善と為すに如かず。王単の善を嘉して、令を下して曰く、『寡人民の饑うるを憂え、単収めて之を食わしめ、寡人民の寒きを憂え、単裘を解きて之に衣せしめ、寡人百姓を憂労し、単も亦た之を憂う、寡人の意に称う』と。単是の善有りて王之を嘉し、単の善を善しとせば、亦た王の善のみ」と。王曰く、「善し」と。乃ち単に牛酒を賜い、其の行を嘉す。後数日、珠を貫く者復た王に見えて曰く、「王朝日に至らば、宜しく田単を召して之を庭に揖し、口に之を労うべし。乃ち令を布きて百姓の饑寒する者を求め、之を収穀せしめよ」と。乃ち人をして閭里に聴かしむるに、丈夫の相い□と語るを聞き、□□□□を挙げて曰く、「田単の人を愛す、嗟、乃ち王の教沢なり」と。
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戦国策・田單將攻狄田単将に狄を攻めんとし、往きて魯仲子に見ゆ。仲子曰く、「将軍狄を攻むるも、下す能わざらん」と。田単曰く、「臣五里の城、七里の郭を以て、破亡の余卒もて、万乗の燕を破り、齊墟を復す。狄を攻めて下らざるは、何ぞや」と。車に上りて謝せずして去る。遂に狄を攻め、三月にして之に克たざるなり。齊の嬰児謡いて曰く、「大冠箕の若く、脩剣頤を拄う、狄を攻めて能わず、下りて壘枯丘す」と。田単乃ち懼れ、魯仲子に問いて曰く、「先生単の狄を下す能わずと謂うは、請う其の説を聞かん」と。魯仲子曰く、「将軍の即墨に在るや、坐しては則ち蕢を織り、立ちては則ち丈插し、士卒の為に倡えて曰く、『往くべし、宗廟亡べり、云うこと尚し、何党にか帰らん』と。此の時に当り、将軍死するの心有りて、士卒生くるの気無く、若の言を聞けば、揮涙奮臂して戦わんと欲せざる莫し、此れ燕を破る所以なり。今将軍東に夜邑の奉有り、西に菑上の虞有り、黄金帯に横たわりて、淄・澠の間に馳せ、生くるの楽有りて、死するの心無し、勝たざる所以なり」と。田単曰く、「単心有り、先生之を志せり」と。明日、乃ち気を厲まし城を循り、矢石の所に立ち、乃ち枹に援りて之を鼓す、狄人乃ち下る。