風姿花伝 / 第一 年来稽古条々
この比一期の芸能の定まる初なりさるほどに稽古の境なり爰を三体の初とす声も已になほり体も定まる時分なりさればこの道に二つの果報あり声と身なりなりこの二つはこの時分に定まるなり年ざかりにむかふ芸能の生ずるところなりさるほどによそ目にもすは上手出来たりとて人も目に立つるなり本名人などなれども当座の花にめづらしくて立合勝負にも一旦勝つときは人も思ひあげ主も上手と思ひしむるなりこれ返々主の為仇なりこれもまことの花にはあらず年のさかりと見る人の一旦の心のめづらしき花なりまことの目利は見分くべしこの比の花こそ初心と申す比なるをきはめたるやうに主の思ひてはや申楽にそばみたる輪説をしいたりたる風体をすることあさましきことなりたとひ人もほめ名人などに勝つともこれは一旦のめづらしき花なりと思ひさとりていよいよ物まねをもすぐにし定めなほ得たらん人に事をこまかにとひて稽古を弥ましにすべしされば時分の花をまことの花と知る心が真実の花になほ遠ざかる心なりただ人ごとにこの時分の花に迷ひてやがて花の失するをも知らず初心と申すはこの比の事なり一 公案して思ふべしわが位のほどをよくよく心得ぬればそれほどの花は一期失せず位より上の上手と思へば本ありつる位の花も失するなりよくよく心得べし
書き下し
この比、一期の芸能の定まる初なり。さるほどに稽古の境なり。爰を三体の初とす。声も已になほり、体も定まる時分なり。されば、この道に二つの果報あり。声と身なりなり。この二つはこの時分に定まるなり。年ざかりにむかふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそ目にも、すは上手出来たりとて、人も目に立つるなり。本名人などなれども、当座の花にめづらしくて、立合勝負にも一旦勝つときは、人も思ひあげ、主も上手と思ひしむるなり。これ返々主の為仇なり。これもまことの花にはあらず。年のさかりと見る人の一旦の心のめづらしき花なり。まことの目利は見分くべし。この比の花こそ初心と申す比なるを、きはめたるやうに主の思ひて、はや申楽にそばみたる輪説をしいたりたる風体をすること、あさましきことなり。たとひ人もほめ、名人などに勝つとも、これは一旦のめづらしき花なりと思ひさとりて、いよいよ物まねをもすぐにし定め、なほ得たらん人に事をこまかにとひて、稽古を弥ましにすべし。されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず、初心と申すはこの比の事なり。一、公案して思ふべし。わが位のほどをよくよく心得ぬれば、それほどの花は一期失せず。位より上の上手と思へば、本ありつる位の花も失するなり。よくよく心得べし。
現代語訳
この二十四、五歳の頃は、一生の芸が定まり始める時である。だからこそ稽古の大切な境目である。ここを三体(演技の基本の型)の始まりとする。声もすでに整い、体つきも定まる時期だ。それゆえこの道には二つの授かりものがある。声と体つきである。この二つはこの時期に定まる。年の盛りに向かって芸が生まれ出るところだ。だから傍目にも、それ上手が現れたと、人も注目する。もともとの名人などであっても、その場限りの花が珍しくて、立合勝負(競演)に一時的に勝つと、人も持ち上げ、本人も自分を上手だと思い込んでしまう。これは本人にとってかえすがえす仇である。これも本物の花ではない。年の盛りと見る観客の一時の心が感じる、珍しさの花である。本当の目利きは見分けるはずだ。この頃の花こそ「初心(未熟の始まり)」という時期であるのに、極めたかのように本人が思い込んで、早くも申楽に偏った理屈をこね、気取った芸風をするのは、情けないことである。たとえ人が褒め、名人などに勝っても、これは一時の珍しさの花にすぎないと悟って、ますます物真似を正しく身につけ、さらに優れた人に細かく尋ねて、稽古をいっそう積むべきだ。だから、時分の花を本物の花と思い込む心こそ、真の花からますます遠ざかる心である。ところが誰もがこの時分の花に迷って、やがてその花が消えることにも気づかない。「初心」というのはこの時期のことである。一つ、よく工夫して考えるべきだ。自分の力量の程をよくよく心得れば、それだけの花は一生失われない。自分の力量より上の上手だと思い込めば、もともとあった程度の花さえ失われてしまう。よくよく心得るべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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尚書・西伯戡黎我が生、命は天に在るに非ずや。
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徒然草・第167段一道に携はる人、あらぬ道の席に臨みて、「あはれ我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを。」といひ、心にも思へる事、常のことなれど、世にわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし、などか習はざりけむ。」と言ひてありなむ。我が智を取り出でて人に争ふは、角あるものの角をかたぶけ、牙あるものの牙を噛み出す類なり。人としては善にほこらず、物と争はざるを徳とす。他に勝る事のあるは大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干の科あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にもいひけたれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。一道にもまことに長じぬる人は、みづから明らかにその非を知るゆゑに、志常に満たずして、つひに物に誇ることなし。
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尚書・周官寵に居りて危うきを思い、畏れざる罔く、畏れざれば畏るるに入る。
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