風姿花伝 / 第七 別紙口伝
一 秘する花を知ること秘すれば花なり秘せずば花なるべからずとなりこの分目を知ること肝要の花なり抑一切の事諸道芸においてその家々に秘事と申すは秘するによりて大用あるが故なり然れば秘事といふことをあらはせばさせることにてもなきものなりこれをさせる事にてもなしといふ人はいまだ秘事といふことの大用知らぬが故なり先づこの花の口伝におきてもただめづらしき花ぞと皆人知るならばさてはめづらしき事あるべしと思ひまうけたらん見物衆の前にてはたとひめづらしき事をするとも見手の心にめづらしき感はあるべからず見る人の為花ぞとも知らでこそ仕手の花にはなるべけれされば見る人はただ思ひの外におもしろき上手とばかり見てこれは花ぞとも知らぬが仕手の花なりさるほどに人の心に思ひもよらぬ感をもよほす手立これ花なりたとへば弓矢の道の手立にも名将の案謀にて思ひの外なる手立に強敵にも勝つことありこれ負くるかたの目にはめづらしき理にばかされて破らるるにてはあらずやこれ一切の諸道芸において勝負に勝つ理なりかやうの手立もこと落居してかかる謀事よと知りぬればその後はたやすけれどもいまだ知らざりつる故に敗くるなりさるほどに秘事とて一つをばわが家に残すなりここをもて知るべしたとへあらはさずともかかる秘事を知れる人よとも人には知られまじきなり人に心を知られぬれば敵人油断せずして用心をもてば却て敵に心をつくる相なり敵方用心をせぬときはこなたの勝つことなほたやすかるべし人に油断をさせて勝つことを得るはめづらしき理の大用なるにてはあらずやさるほどにわが家の秘事とて人に知らせぬをもて生涯の主になる花とす秘すれば花秘せねば花なるべからず
書き下し
一、秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分目を知ること、肝要の花なり。抑、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるが故なり。然れば、秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。これを、させる事にてもなしといふ人は、いまだ秘事といふことの大用知らぬが故なり。先づ、この花の口伝におきても、ただめづらしき花ぞと皆人知るならば、さてはめづらしき事あるべしと思ひまうけたらん見物衆の前にては、たとひめづらしき事をするとも、見手の心にめづらしき感はあるべからず。見る人の為、花ぞとも知らでこそ、仕手の花にはなるべけれ。されば、見る人はただ思ひの外におもしろき上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが仕手の花なり。さるほどに、人の心に思ひもよらぬ感をもよほす手立、これ花なり。たとへば、弓矢の道の手立にも、名将の案謀にて、思ひの外なる手立に強敵にも勝つことあり。これ、負くるかたの目にはめづらしき理にばかされて破らるるにてはあらずや。これ、一切の諸道芸において勝負に勝つ理なり。かやうの手立も、こと落居して、かかる謀事よと知りぬれば、その後はたやすけれども、いまだ知らざりつる故に敗くるなり。さるほどに、秘事とて一つをば、わが家に残すなり。ここをもて知るべし。たとへあらはさずとも、かかる秘事を知れる人よとも人には知られまじきなり。人に心を知られぬれば、敵人油断せずして用心をもてば、却て敵に心をつくる相なり。敵方用心をせぬときは、こなたの勝つことなほたやすかるべし。人に油断をさせて勝つことを得るは、めづらしき理の大用なるにてはあらずや。さるほどに、わが家の秘事とて、人に知らせぬをもて、生涯の主になる花とす。秘すれば花、秘せねば花なるべからず。
現代語訳
一、秘する花を知ること。秘すれば花となり、秘さなければ花にはならない、というのだ。この境目を知ることこそ、肝心の花である。そもそもあらゆる事、諸々の道や芸において、その家々に「秘事」があるのは、秘するからこそ大きな効用があるからだ。だから、秘事というものを明かしてしまえば、大したことでもなくなってしまう。これを「大したことではない」と言う人は、まだ秘事というものの大きな効用を知らないからである。まず、この花の口伝についても、ただ「珍しい花だ」と皆が知っていれば、「さては珍しいことをするに違いない」と予想して身構えた観客の前では、たとえ珍しいことを演じても、観る人の心に珍しいという感興は生まれない。観る人にとって、これが花だと気づかれないからこそ、演者の花になるのだ。だから、観る人がただ「思いがけず面白い上手だ」とだけ見て、これが花だとは気づかないのが演者の花である。つまり、人の心に思いもよらない感興を呼び起こす手立て、これが花なのだ。たとえば、弓矢の道(合戦)の手立てでも、名将の巧みな計略によって、思いがけない策で強敵にも勝つことがある。これは、負ける側の目には珍しい策に翻弄されて破られるのではないか。これこそ、あらゆる道芸において勝負に勝つ道理である。こうした手立ても、事が済んで「こういう計略だったのか」と知ってしまえば、その後は簡単に防げるが、まだ知らないうちは、それゆえに敗れるのだ。だから、秘事として一つを、わが家に残しておくのである。ここから悟るべきだ。たとえ明かさずとも、「こういう秘事を知っている人だ」とさえ人に知られてはならない。心中を人に知られてしまえば、敵は油断せず用心するので、かえって敵に警戒心を植えつけることになる。敵が用心しないときは、こちらが勝つことはいっそう容易だ。人に油断させて勝ちを得ること、これこそ珍しさの道理の大きな効用ではないか。だから、わが家の秘事として人に知らせないことをもって、生涯の頼みとなる花とするのだ。秘すれば花、秘さなければ花にはならない。