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風姿花伝 / 第一 年来稽古条々

この比よりは大方せぬならでは手立あるまじ麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことありさりながら真に得たらん能者ならば物数は皆々失せて善悪見所はすくなしとも花は残るべし亡父にて候ひし者は五十二と申しし五月十九日に死去せしがその月の四日の日駿河国浅間の御前にて法楽仕りその日の申楽殊に花やかにて見物の上下一同に褒美せしなり凡そその比物数をばはや今の初心にゆづりてやすき所を少々と色へてせしかども花は弥ましに見えしなりこれまことに得たりし花なるが故に能は枝葉もすくなく老木になるまで花は散らで残りしなりこれまのあたり老骨に残りし花の証拠なり年来稽古 以上

書き下し

この比よりは、大方せぬならでは手立あるまじ。麒麟も老いては駑馬に劣ると申すことあり。さりながら、真に得たらん能者ならば、物数は皆々失せて、善悪見所はすくなしとも、花は残るべし。亡父にて候ひし者は、五十二と申しし五月十九日に死去せしが、その月の四日の日、駿河国浅間の御前にて法楽仕り、その日の申楽、殊に花やかにて、見物の上下一同に褒美せしなり。凡そその比、物数をば、はや今の初心にゆづりて、やすき所を少々と色へてせしかども、花は弥ましに見えしなり。これ、まことに得たりし花なるが故に、能は枝葉もすくなく、老木になるまで花は散らで残りしなり。これ、まのあたり老骨に残りし花の証拠なり。年来稽古 以上。

現代語訳

五十歳以上のこの頃からは、おおかた何もしないという以外にやり方はないだろう。「麒麟(名馬)も老いては駑馬(駄馬)に劣る」ということわざがある。しかしながら、真に芸を体得した能者なら、演じられる演目はすべて失われ、良し悪しの見どころは少なくなっても、花だけは残るはずだ。亡き父であった者(観阿弥)は、五十二歳という年の五月十九日に死去したが、その月の四日の日、駿河国の浅間神社の御前で法楽(奉納の芸)を勤め、その日の申楽はとりわけ花やかで、見物の身分の上下を問わず一同が褒め称えた。おおよそその頃には、演目の数はもう今でいう初心の若手に譲って、無理のない所を少しばかり彩りを添えて演じたのだが、花はいよいよ勝って見えたのである。これは、本当に体得した花であるがゆえに、能は枝葉(技巧)も少なくなり、老木になるまで花は散らずに残ったのだ。これこそ、目の当たりに老骨に残った花の証拠である。年来稽古、以上。

解説

五十歳以上を説く、年来稽古条々の最後の一節です。この年齢では多くを演じないほかありませんが、真に芸を体得した者は、演目や技巧が失われても花だけは残る、と世阿弥は言います。そして亡父観阿弥が五十二歳で没する直前、死のわずか十数日前にも花やかに演じ、身分を問わず観客を魅了した実例を挙げ、老いてなお散らぬ「まことの花」を証しています。全編を貫く「まことの花」の理想像を父の姿で例証して締めくくる節です。現代でも、若さや量に頼らずとも本質を極めた人は年齢を重ねても衰えぬ魅力を保つこと、生涯かけて磨いた本物だけが最後に残ることを示唆してくれます。

この章句が説くこと

五十有余老骨に残る花まことの花観阿弥麒麟も老いては法楽

この一句を、あなたの毎日に。

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