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風姿花伝 / 第七 別紙口伝

一 能に十体を得べきこと十体を得たらん仕手は同じ事をひとまはりひとまはりづつするともその一通りの間久しかるべければめづらしかるべし十体を得たらん人はそのうちの故実工夫にてはももいろにもわたるべし先づ五年三年のうちに一ぺんづつもめづらしくし替ふるやうならんずるあてがひをもつべしこれは大きなる安立なりまたは一年のうち四季折節をも心にかくべしまた日をかさねたる申楽一日のうちは申すに及ばず風体の品々を色どるべしかやうに大綱より始めてちちとある事までも自然自然に心にかくれば一期花は失せまじきなりまたいふ十体を知らんよりは年々去来の花を忘るべからず年々去来の花とはたとへば十体とは物まねの品々なり年々去来とは幼かりし時のよそほひ初心の時分のわざ手盛のふるまひ年よりての風体この時分時分のおのれと身にありし風体を皆当芸に一度にもつことなりあるときは児若族能かと見えあるときは年ざかりの仕手かとおぼえまたはいかほども臈たけて劫入りたるやうに見えて同じ主とも見えぬやうに能をすべしこれすなはち幼少のときより老後までの芸を一度にもつ理なりさるほどに年々さりきたる花とはいへり但しこの位にいたれる仕手上代末代に見も聞きも及ばず亡父の若ざかりの能こそ臈たけたる風体殊に得たりけるなど聞き及びしか四十有余の時分よりは見なれし事なればうたがひなし自然居士の物まね高座の上にてのふるまひを時の人十六七の人体に見えしなんど沙汰ありしなりこれはまさしく人も申し身にも見たりし事なればこの位に相応したりし達者かとおぼえしなりかやうに若き時分には行末の年々去来の風体を得年よりては過ぎし方の風体を身に残す仕手二人とも見も聞きも及ばざりしなりされば初心よりのこの方の芸能の品々を忘れずしてそのときどき用々にしたがひて取り出だすべし若くては年よりの風体年よりてはさかりの風体を残すことめづらしきにあらずや然れば芸能の位あがれば過ぎし風体をしすてしすて忘るることひたすら花の種を失ふなるべしその時々にありし花のままにて種なければ手折れる花の枝のごとし種あらば年々時々の比になどかあはざらんただ返々初心を忘るべからずされば常の批判にも若き仕手をばはやくあがりたる劫入りたるなどほめ年よりたるをば若やぎたるなど批判するなりこれめづらしき理ならずや十体のうちを彩らば百色にもなるべしそのうへに年々去来の品々を一身当芸にもちたらんはいかほどの花ぞや

書き下し

一、能に十体を得べきこと。十体を得たらん仕手は、同じ事をひとまはりひとまはりづつするとも、その一通りの間久しかるべければ、めづらしかるべし。十体を得たらん人は、そのうちの故実工夫にては、ももいろにもわたるべし。先づ五年三年のうちに一ぺんづつも、めづらしくし替ふるやうならんずるあてがひをもつべし。これは大きなる安立なり。または一年のうち、四季折節をも心にかくべし。また、日をかさねたる申楽、一日のうちは申すに及ばず、風体の品々を色どるべし。かやうに、大綱より始めてちちとある事までも、自然自然に心にかくれば、一期花は失せまじきなり。またいふ、十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。年々去来の花とは、たとへば、十体とは物まねの品々なり。年々去来とは、幼かりし時のよそほひ、初心の時分のわざ、手盛のふるまひ、年よりての風体、この時分時分のおのれと身にありし風体を、皆当芸に一度にもつことなり。あるときは児若族能かと見え、あるときは年ざかりの仕手かとおぼえ、またはいかほども臈たけて劫入りたるやうに見えて、同じ主とも見えぬやうに能をすべし。これすなはち、幼少のときより老後までの芸を一度にもつ理なり。さるほどに、年々さりきたる花とはいへり。但し、この位にいたれる仕手、上代末代に見も聞きも及ばず。亡父の若ざかりの能こそ、臈たけたる風体殊に得たりけるなど聞き及びしか。四十有余の時分よりは見なれし事なればうたがひなし。自然居士の物まね、高座の上にてのふるまひを、時の人十六七の人体に見えしなんど沙汰ありしなり。これはまさしく人も申し身にも見たりし事なれば、この位に相応したりし達者かとおぼえしなり。かやうに、若き時分には行末の年々去来の風体を得、年よりては過ぎし方の風体を身に残す仕手、二人とも見も聞きも及ばざりしなり。されば、初心よりのこの方の芸能の品々を忘れずして、そのときどき用々にしたがひて取り出だすべし。若くては年よりの風体、年よりてはさかりの風体を残すこと、めづらしきにあらずや。然れば、芸能の位あがれば、過ぎし風体をしすてしすて忘るること、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる花の枝のごとし。種あらば、年々時々の比になどかあはざらん。ただ返々、初心を忘るべからず。されば、常の批判にも、若き仕手をば、はやくあがりたる、劫入りたるなどほめ、年よりたるをば、若やぎたるなど批判するなり。これめづらしき理ならずや。十体のうちを彩らば、百色にもなるべし。そのうへに、年々去来の品々を一身当芸にもちたらんは、いかほどの花ぞや。

現代語訳

一、能で十体(演技の十の基本様式)を身につけるべきこと。十体を会得した演者は、同じ演目を一巡り一巡りずつ演じても、その一巡りに長い時間がかかるので、飽きられず珍しく映るのだ。十体を会得した人は、その中での作法や工夫によって、百通りにも芸を広げられる。まず五年三年のうちに一度ずつでも、珍しく演じ替えられるような心づもりを持つべきだ。これは大きな確かな備えとなる。あるいは一年のうちで四季折々の趣も心にかけるべきだ。また、日を重ねて催す申楽では、一日のうちはもちろんのこと、芸風の品々に彩りを添えるべきである。このように、大筋から始めて細かな点に至るまで、自然に心にかけていけば、生涯にわたって花は失われないのだ。さらに言う。十体を知る以上に大切なのは、「年々去来の花」を忘れないことだ。年々去来の花とは何か。たとえば十体とは物まねの様式の品々である。年々去来とは、幼かった時の装い、初心の時分の芸、盛りの時の振る舞い、年老いてからの芸風——その時々に自分の身に備わっていた芸風を、すべて今の芸に一度に併せ持つことである。ある時は子供や若者の能かと見え、ある時は働き盛りの演者かと思われ、またある時はこの上なく円熟した名人のように見えて、同じ演者とは思えないほどに能を演じるべきだ。これはつまり、幼少から老後までの芸を一度に併せ持つ道理である。だから「年々去来の花」というのだ。ただし、この境地に達した演者は、昔も今も見聞きしたことがない。亡き父(観阿弥)の若盛りの能こそ、円熟した芸風を格別に会得していたと聞き及んでいる。四十過ぎからは私も見慣れているので疑いない。自然居士の物まねを高座で演じる振る舞いが、当時の人には十六、七の若者に見えたなどと評判になった。これはまさしく人も語り自分でも見たことなので、この境地にふさわしい達人であったと思われる。このように、若い時分に将来の年々去来の芸風を先取りして会得し、年老いてから過ぎ去った時の芸風を身に留めた演者は、父のほかに二人と見聞きしたことがない。だから、初心以来のこれまでの芸の品々を忘れず、その時々の用に応じて取り出すべきだ。若いうちに老人の芸風を、年老いてから盛りの芸風を身に残せるのは、珍しいことではないか。ところが、芸の位が上がるにつれ、過ぎ去った芸風を次々と捨て忘れていくのは、ひたすら花の種を失うことになる。その時々にあった花のままで、種がなければ、手折られた花の枝のようなものだ。種さえあれば、年々時々のどんな折にも咲かせられないことがあろうか。ただ、くれぐれも初心を忘れてはならない。だから、世間の評判でも、若い演者を「早くも大成した、円熟している」とほめ、年老いた演者を「若々しい」と評する。これこそ珍しさの道理ではないか。十体の中を彩れば百通りにもなる。その上に、年々去来の品々を一身の芸に併せ持ったなら、どれほどの花であろうか。

解説

この一節は、生涯にわたって花を保つ方法を説き、後の『花鏡』の「初心不可忘」へと連なる思想の源泉です。世阿弥はまず、演技の十の基本様式「十体」を極めれば芸は百通りに広がり、飽きられないと述べます。さらに重要なのが「年々去来の花」——幼少・初心・盛り・老年、その時々に身につけた芸風をすべて今の一身に併せ持つことです。過去の芸風を捨て去れば「花の種」を失い、手折られた花のように一時で終わる。種を保てば、いつでも咲かせられるというのです。父・観阿弥をその理想の体現者として挙げます。仕事や人生でも、成長の各段階で得た力は捨てるべき過去ではなく、蓄えるべき財産です。若い頃の初々しさ、脂の乗った時期の勢い、円熟の落ち着き——それらを併せ持てる人こそ、状況に応じて最適な自分を引き出せます。「初心を忘れるな」という教えの深い意味がここにあります。

この章句が説くこと

十体年々去来の花初心を忘るべからず花の種観阿弥自然居士

この一句を、あなたの毎日に。

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