風姿花伝 / 第五 奥義
秘義にいふ抑芸能とは諸人の心をやはらげて上下の感をなさんこと寿福増長の基遐齢延年の法なるべしきはめきはめては諸道悉くに寿福増長ならんとなり殊更この芸位をきはめて佳名を残すことこれ天下のゆるされなりこれ寿福増長なり然れども殊に故実あり上根上智の眼に見ゆるところ長位のきはまりたる仕手におきては相応至極なれば是非なし凡そおろかなる輩遠国田舎の賤しき眼にはこの長位のあがれる風体及びがたしこれを如何にすべきこの芸とは衆人愛敬をもて一座建立の寿福とせり故にあまり及ばぬ風体のみなればまた諸人の褒美欠けたりこの為能に初心を忘れずして時に応じ所によりておろかなる眼にもげにもと思ふやうに能をせむことこれ寿福なりよくよくこの風俗をきはめ見るに貴所 宮寺 田舎 遠国 諸社の祭礼にいたるまでおしなべてそしりを得ざらんを寿福達人の仕手とは申すべきかさればいかなる上手なりとも衆人愛敬欠けたる所あらんをば寿福増長の仕手とは申しがたししかるに亡父はいかなる田舎山里の片辺にてもその心を受けて所の風儀を一大事にかけて芸をせしなりかやうに申せばとて初心の人それほどはなにとて左右なくきはむべきと退屈の儀はあるべからずこの条々を心底にあててその理をちちと取りて了簡をもて我分力にひきあはせて工夫を致すべし凡そいまの条々工夫は初心の人よりはなほ上手におきての故実工夫なりたまたま得たる上手になりたる仕手も身をたのみ名にばかされてこの故実なくていたづらに名望よりは寿福に欠けたる人多き故にこれをなげくなり得たる所あれども工夫なくてはかなはず得て工夫あらんは花に種をそへたらんがごとしたとひ天下にゆるされを得たるほどの仕手も力なき因果にて万一少し廃るる時分ありとも田舎遠国の褒美の花失せずばふつと道の絶ゆることはあるべからず道絶えずはまた天下の時にあふことあるべし
書き下し
秘義にいふ、抑芸能とは、諸人の心をやはらげて、上下の感をなさんこと、寿福増長の基、遐齢延年の法なるべし。きはめきはめては、諸道悉くに寿福増長ならんとなり。殊更、この芸、位をきはめて佳名を残すこと、これ天下のゆるされなり。これ寿福増長なり。然れども、殊に故実あり。上根上智の眼に見ゆるところ、長位のきはまりたる仕手におきては、相応至極なれば是非なし。凡そおろかなる輩、遠国田舎の賤しき眼には、この長位のあがれる風体、及びがたし。これを如何にすべき。この芸とは、衆人愛敬をもて、一座建立の寿福とせり。故に、あまり及ばぬ風体のみなれば、また諸人の褒美欠けたり。この為、能に初心を忘れずして、時に応じ所によりて、おろかなる眼にもげにもと思ふやうに能をせむこと、これ寿福なり。よくよくこの風俗をきはめ見るに、貴所・宮寺・田舎・遠国・諸社の祭礼にいたるまで、おしなべてそしりを得ざらんを、寿福達人の仕手とは申すべきか。さればいかなる上手なりとも、衆人愛敬欠けたる所あらんをば、寿福増長の仕手とは申しがたし。しかるに亡父は、いかなる田舎山里の片辺にても、その心を受けて、所の風儀を一大事にかけて芸をせしなり。かやうに申せばとて、初心の人、それほどはなにとて左右なくきはむべきと、退屈の儀はあるべからず。この条々を心底にあてて、その理をちちと取りて、了簡をもて我分力にひきあはせて、工夫を致すべし。凡そいまの条々工夫は、初心の人よりは、なほ上手におきての故実工夫なり。たまたま得たる上手になりたる仕手も、身をたのみ名にばかされて、この故実なくて、いたづらに名望よりは寿福に欠けたる人多き故に、これをなげくなり。得たる所あれども、工夫なくてはかなはず。得て工夫あらんは、花に種をそへたらんがごとし。たとひ天下にゆるされを得たるほどの仕手も、力なき因果にて、万一少し廃るる時分ありとも、田舎遠国の褒美の花失せずば、ふつと道の絶ゆることはあるべからず。道絶えずは、また天下の時にあふことあるべし。
現代語訳
秘伝として言う。そもそも芸能とは、あらゆる人の心を和ませて、身分の高い者も低い者もともに感動させること、それが幸福と繁栄(寿福増長)のもとであり、長寿延命の法であるはずだ。突き詰めていけば、あらゆる道はすべて寿福増長につながるのである。とりわけこの芸は、位を極めて名声を後世に残すこと、それが天下の認可であり、これが寿福増長である。しかし、ここにはとりわけ大事な心得(故実)がある。すぐれた素質と知恵を持つ者の眼に映るところ、位の極まった演者にとっては、それにふさわしい至高のものだから問題はない。しかし、おおむね愚かな者や、遠い田舎の眼の肥えていない者には、この位の高い風体は理解が及びがたい。これをどうすべきか。この芸は、多くの人々に愛され好まれることをもって、一座の繁栄・幸福(寿福)としている。だから、あまりに高尚で及びがたい風体ばかりでは、多くの人からの称賛が欠けてしまう。そのために、能において初心を忘れずに、時に応じ場所に応じて、眼の肥えていない者にも「なるほど」と思うように演じること、これが寿福である。よくよくこの芸のあり方を極めて見ると、貴人の御所・宮寺・田舎・遠国・諸社の祭礼に至るまで、どこでもおしなべて非難を受けないような演者をこそ、寿福を体現した達人の演者と言うべきであろう。だから、どんなに上手であっても、大衆に愛される点が欠けているようでは、寿福増長の演者とは言いがたい。ところが亡父(観阿弥)は、どんな田舎の山里の片隅であっても、その土地の観客の心を汲み取り、その地の好みを一大事として芸を演じたのである。このように言うからといって、初心の人が、それほどのことをどうして簡単に極められようかと、投げ出す気持ちを持ってはならない。これらの条々を心の底に置いて、その道理をしっかり受け取り、判断力をもって自分の力量に照らし合わせて、工夫を尽くすべきである。おおよそ今述べた条々の工夫は、初心の人よりも、むしろ上手にとっての大事な心得と工夫である。たまたま上手になった演者も、自分の力を過信し名声に浮かれて、この心得を欠き、いたずらに名声ばかりで実の幸福(寿福)に欠けている人が多いので、それを嘆くのである。体得したものがあっても、工夫がなくては成り立たない。体得したうえに工夫があるのは、花に種を添えたようなものである。たとえ天下の認可を得たほどの演者でも、思いがけない不運によって、万一少し衰える時期があっても、田舎や遠国で好まれる花さえ失わなければ、芸道がぷっつり絶えることは決してない。道が絶えなければ、また天下に受け入れられる時機に巡り合うことがあるはずだ。