言志四録 / 南洲手抄
心之官則思。思字只是工夫字。思則愈精明、愈篤實。自其篤實謂之行、自其精明謂之知。知行歸於一思字。
新字:心之官則思。思字只是工夫字。思則愈精明、愈篤実。自其篤実謂之行、自其精明謂之知。知行帰於一思字。
書き下し
心の官は則ち思ふ。思の字只是れ工夫の字なり。思へば則ち愈精明なり、愈篤実なり。其の篤実より之を行と謂ひ、其の精明より之を知と謂ふ。知と行とは一の思の字に帰す。
現代語訳
心という器官のはたらきは「思う」ことである。この「思」の一字こそ、修養の工夫の要である。思えば思うほど、いよいよ明晰になり、いよいよ誠実になる。その誠実の面から見れば「行」といい、その明晰の面から見れば「知」という。知と行とは、結局この「思」の一字に帰着する。
解説
「思う」ことを修養の中心に据えた一条です。孟子の「心の官は則ち思ふ」を受け、一斎は「思」こそ工夫(修養)の要だと言います。深く思えば、認識は明晰になり(精明=知)、同時に実践は誠実になる(篤実=行)。つまり知と行は別物ではなく、どちらも「思」という一つの根から分かれた枝にすぎない。陽明学の「知行合一」を、一斎らしく「思」の一字で束ねた思想です。考えることと行うことを切り離しがちな私たちに、深く思うことがそのまま知にも行にもなると教えてくれます。
この章句が説くこと
思知行合一工夫心の官
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