言志四録 / 南洲手抄
物我一體、即是仁。我執公情以行公事、天下無不服。治亂之機、在於公不公。周子曰、公於己者、公於人。伊川又以公理、釋仁字。餘姚亦更博愛爲公愛。可并攷。
新字:物我一体、即是仁。我執公情以行公事、天下無不服。治乱之機、在於公不公。周子曰、公於己者、公於人。伊川又以公理、釈仁字。余姚亦更博愛為公愛。可并攷。
書き下し
物我一体は即ち是れ仁なり。我れ公情を執つて以て公事を行ふ、天下服せざる無し。治乱の機は公と不公とに在り。周子曰ふ、己に公なる者は人に公なりと。伊川又公理を以て仁の字を釈す。余姚も亦博愛を更めて公愛と為せり。并せ攷ふ可し。
現代語訳
自分と他者が一体であること、これがそのまま「仁」である。私が公の心をもって公の事を行えば、世の中で心服しない者はいない。世が治まるか乱れるかの分かれ目は、「公」であるか「不公(私)」であるかにかかっている。周子は「自分に対して公平な者は、人に対しても公平だ」と言った。程伊川は「公」という理で「仁」の字を説いた。王陽明(余姚の人)もまた「博愛」を「公愛」と言い換えた。あわせて考えてみるとよい。
解説
「仁」の本質を「公」の一字でとらえた一条です。自分と他者を分け隔てない一体感(物我一体)こそ仁であり、公の心で公の事を行えば、人は自然に心服する。世の治乱を分けるのも、結局は公か私かの一点だ、と言います。一斎は周敦頤・程伊川・王陽明を引きつつ、仁とは私心を去った「公平さ」だと集約します。人の上に立つ者の資格を、能力ではなく「私心のなさ」に置く視点です。判断や配分に私情が混じっていないか——リーダーの公正さがあらゆる場面で問われる現代に、仁の核心は「公」だと突く一条です。
この章句が説くこと
仁公と私物我一体公正
関連する章句
-
伝習録・陸澄録問う、「程子云う、『仁者は天地万物を以て一体と為す』と。何ぞ墨氏の兼愛は、反りて之を仁と謂うを得ざるか」と。先生曰く、「此れ亦た甚だ言い難し。須らく是れ諸君、自ら体認し出だし来たりて始めて得べし。仁は是れ造化生生不息の理なり。瀰漫周遍し、処として是ならざる無しと雖も、然れども其の流行発生も、亦た只だ個の漸有り。所以に生生不息なり。冬至に一陽生ずるが如きは、必ず一陽生ずるより而る後に漸漸として六陽に至る。若し一陽の生ずる無くんば、豈に六陽有らんや。陰も亦た然り。惟だ其れ漸なり。所以に便ち個の発端の処有り。惟だ其れ個の発端の処有り。所以に生ず。惟だ其れ生ず。所以に息(や)まず。之を木に譬うれば、其の始め芽を抽(ぬ)くは、便ち是れ木の生意の発端の処なり。芽を抽きて然る後に幹を発し、幹を発して然る後に枝を生じ葉を生ず。然る後に是れ生生不息なり。若し芽無くんば、何を以て幹有り枝葉有らんや。能く芽を抽くは、必ず是れ下面に個の根の在る有り。根有りて方に生ず。根無くんば便ち死す。根無くんば何より芽を抽かん。父子・兄弟の愛は、便ち是れ人心の生意の発端の処なり。木の芽を抽くが如し。此より而して民を仁し、而して物を愛するは、便ち是れ幹を発し枝を生じ葉を生ずるなり。墨氏の兼愛は差等無し。自家の父子・兄弟を将(もっ)て途人と一般に看做す。便ち自ら発端の処を没し了る。芽を抽かざれば便ち他に根無きを知り得たり。便ち是れ生生不息に非ず。安くんぞ之を仁と謂うを得んや。孝・弟は仁を為すの本なりとは、却って是れ仁の理、裏面より発生し出づるなり」と。
-
説苑・說叢命を知る者は天を怨みず、己を知る者は人を怨みず。人にして愛せざれば則ち仁なる能わず、佞にして巧ならざれば則ち信なる能わず。善を言うに身に及ぶ毋かれ、惡を言うに人に及ぶ毋かれ。上清くして欲無ければ、則ち下正しくして民樸なり。來事は追うべきなり、往事は及ぶべからず。思慮の心無ければ則ち達せず、談說の辭無ければ則ち樂しからず。
-
『近思録』巻1 道体医書に「手足の痿痺を不仁と為す」と言う。この言、最も善く状を名づく。仁者は天地万物を以て一体と為し、己に非ざるは莫し。認め得て己と為さば、何の至らざる所あらん。もし諸れを己に有たざれば、自ら己と相い干せず。手足の不仁なるが如く、気すでに貫かざれば、皆な己に属せず。故に博く施し衆を済うは、乃ち聖の功用なり。仁は至って言い難し。故にただ「己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬を取る、仁の方と謂うべきのみ」と曰う。
-
論語・雍也篇宰我問いて曰く、「仁者は之に告げて『井に仁有り』と曰うと雖も、其れ之に従わんか。」子曰く、「何為れぞ其れ然らんや。君子は逝かしむ可きも、陥る可からず。欺く可きも、罔う可からず。」
-
論語・里仁篇子曰わく、不仁者は久しく約に処るべからず、長く楽に処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。
-
論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。