南洲翁遺訓 / 第二十七条
過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し。過を悔しく思ひ、取り繕はんとて心配するは、譬へば茶碗を割り、其の欠けを集め合せ見るも同にて、詮もなきこと也。
書き下し
過ちを改むるに、自ら過つたとさへ思ひ付かば、夫れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直に一歩踏み出す可し。過を悔しく思ひ、取り繕はんとて心配するは、譬へば茶碗を割り、其の欠けを集め合せ見るも同にて、詮もなきこと也。
現代語訳
過ちを改めるのに、自分が過ったとさえ思いついたなら、それでよい。その事は棄てて顧みず、すぐに一歩踏み出すべきである。過ちを悔しく思い、取り繕おうとして心配するのは、たとえば茶碗を割って、その欠けらを集め合わせてみるのと同じで、詮ないことである。
解説
割れた茶碗の比喩が見事である。欠けらを拾い集めて合わせてみても、茶碗は戻らない。過ちを悔やんで取り繕おうとすることを、それと同じだと言う。示される手順は簡潔だ。過ったと気づく。それでよい。その事は棄てて顧みない。すぐ一歩踏み出す。反省を深めよ、とは一言も言わない。むしろ深く悔やむことを、時間の無駄として退けている。ここで西郷が禁じているのは反省ではなく「取り繕はんとて心配する」ことだ。割れた事実を無かったことにしようとする動きである。第二十六条で「過を改むることの出来ぬも、皆自ら愛するが為」と言われていたことと合わせると、取り繕いの動機がはっきりする。自分がかわいいから、割れていないことにしたい。だから前へ進めない。
この章句が説くこと
過ちを改む茶碗の欠け取り繕う一歩踏み出す