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荀子 / 天論篇

萬物為道一偏,一物為萬物一偏。愚者為一物一偏,而自以為知道,無知也。慎子有見於後,無見於先。老子有見於詘,無見於信。墨子有見於齊,無見於畸。宋子有見於少,無見於多。有後而無先,則群眾無門。有詘而無信,則貴賤不分。有齊而無畸,則政令不施,有少而無多,則群眾不化。《書》曰:「無有作好,遵王之道;無有作惡,遵王之路。」此之謂也。

新字:万物為道一偏,一物為万物一偏。愚者為一物一偏,而自以為知道,無知也。慎子有見於後,無見於先。老子有見於詘,無見於信。墨子有見於斉,無見於畸。宋子有見於少,無見於多。有後而無先,則群眾無門。有詘而無信,則貴賤不分。有斉而無畸,則政令不施,有少而無多,則群眾不化。《書》曰:「無有作好,遵王之道;無有作悪,遵王之路。」此之謂也。

書き下し

萬物は道の一偏(いっぺん)たり、一物は萬物の一偏たり。愚者は一物の一偏を為して、而して自ら以て道を知れりと為すは、無知なるなり。慎子(しんし)は後(こう)に見(けん)有るも、先(せん)に見無し。老子は詘(くつ)に見有るも、信(しん)に見無し。墨子は齊(せい)に見有るも、畸(き)に見無し。宋子(そうし)は少(しょう)に見有るも、多に見無し。後有りて先無ければ、則ち群眾に門無し。詘有りて信無ければ、則ち貴賤分かれず。齊有りて畸無ければ、則ち政令施されず。少有りて多無ければ、則ち群眾化せず。書に曰く、「好(こう)を作(な)す有る無く、王の道に遵(したが)え。惡(お)を作す有る無く、王の路に遵え」と。此れ之れの謂いなり。

現代語訳

万物は道の一部分にすぎず、個々の物は万物の一部分にすぎない。愚者は一つの物の、そのまた一部分だけを取り上げて、自分は道を知っていると思い込む。これは無知である。慎子は「後に従うこと」は見えていたが、「先に立つこと」が見えていなかった。老子は「屈すること」は見えていたが、「伸びること」が見えていなかった。墨子は「等しくすること」は見えていたが、「差をつけること」が見えていなかった。宋子は「欲を少なくすること」は見えていたが、「欲が多いこと」が見えていなかった。後に従うだけで先に立つことがなければ、民衆には進むべき門がなくなる。屈するだけで伸びることがなければ、貴賤の区別がつかなくなる。等しくするだけで差をつけることがなければ、政令は行きわたらない。少なくするだけで多いことを認めなければ、民衆は感化されない。『書経』に「勝手な好みを作らず、王の道に従え。勝手な憎しみを作らず、王の道に従え」とある。まさにこのことを言っているのだ。

解説

天論篇の締めくくりで、荀子は思想の偏りを批判します。まず前提。万物は道の一部にすぎず、個々の物はさらにその一部にすぎない。ところが愚者は、ほんの一断片をつかんで「道が分かった」と思い込む。これを無知だと切り捨てます。そのうえで、慎子・老子・墨子・宋子という当時の代表的思想家を一人ずつ、同じ型で評します。それぞれ一面はよく見えていたが、その反対側が見えていなかった、と。後に従うことしか見えなければ人々に進む道がなくなり、屈することしか見えなければ序列が立たず、平等しか見えなければ政令が通らず、寡欲しか見えなければ人は動かない。要は、片側だけを極端に握ると社会が回らないということです。私たちも一つの正しさに強く傾いたとき、その裏側で何が失われるかを問う必要があります。優れた原則ほど、単独で振り回すと凶器になります。

この一句を、あなたの毎日に。

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