史記 / 老子韓非列伝
或曰、老萊子亦楚人也、著書十五篇、言道家之用、與孔子同時云。蓋老子百有六十餘歲、或言二百餘歲、以其修道而養壽也。自孔子死之後百二十九年、而史記周太史儋見秦獻公曰、始秦與周合、合五百歲而離、離七十歲而霸王者出焉。或曰儋即老子、或曰非也、世莫知其然否。老子、隱君子也。老子之子名宗、宗為魏將、封於段干。宗子注、注子宮、宮玄孫假、假仕於漢孝文帝。而假之子解為膠西王卬太傅、因家于齊焉。
新字:或曰、老萊子亦楚人也、著書十五篇、言道家之用、与孔子同時云。蓋老子百有六十余歲、或言二百余歲、以其修道而養寿也。自孔子死之後百二十九年、而史記周太史儋見秦献公曰、始秦与周合、合五百歲而離、離七十歲而覇王者出焉。或曰儋即老子、或曰非也、世莫知其然否。老子、隠君子也。老子之子名宗、宗為魏将、封於段干。宗子注、注子宮、宮玄孫仮、仮仕於漢孝文帝。而仮之子解為膠西王卬太傅、因家于斉焉。
書き下し
或いは曰く、「老萊子も亦た楚人なり。書十五篇を著し、道家の用を言ふ、孔子と時を同じくす」と。蓋し老子は百有六十余歳、或いは言ふ、二百余歳と、其の道を修めて壽を養ふを以てなり。孔子死して自りの後百二十九年にして、史、周の太史儋の秦の献公に見えて曰くを記す、「始め、秦と周とは合ひ、合ひて五百歳にして離れ、離れて七十歳にして覇王たる者出づ」と。或いは曰く、「儋は即ち老子なり」と。或いは曰く、「非なり」と。世に其の然るか否かを知る莫し。老子は隠君子なり。老子の子の名は宗、宗、魏の将為りて段干に封ぜらる。宗の子は注、注の子は宮、宮の玄孫は假、假、漢の孝文帝に仕ふ。而して假の子解は膠西王卬の太傅と為り、因りて斉に家す。
現代語訳
ある説では、「老萊子もまた楚の人で、十五篇の書を著して道家の実践を説き、孔子と同時代の人だ」ともいう。老子は百六十歳あまり、あるいは二百歳を超えたともいわれるが、それは道を修め養生に努めたからだという。孔子の死後百二十九年、記録によれば、周の太史儋が秦の献公に会って「初め秦と周は一体であり、五百年で分かれ、分かれて七十年後に覇王が現れる」と予言した。この儋こそ老子だという者もいれば、違うという者もいて、真偽は誰にもわからない。老子は世を避けた隠者であった。老子の子は宗といい、魏の将軍となって段干に封ぜられた。宗の子は注、注の子は宮、宮の玄孫は假といって漢の文帝に仕え、假の子の解は膠西王卬の太傅となり、その縁で一族は斉に住みついた。