近思録 / 巻1 道体
性即理也。天下之理、原其所自、未有不善。喜怒哀樂未發、何嘗不善?發而中節、則無往而不善。凡言善惡、皆先善而後惡。言吉凶、皆先吉而後凶。言是非、皆先是而後非。
新字:性即理也。天下之理、原其所自、未有不善。喜怒哀楽未発、何嘗不善?発而中節、則無往而不善。凡言善悪、皆先善而後悪。言吉凶、皆先吉而後凶。言是非、皆先是而後非。
書き下し
性は即ち理なり。天下の理、その自る所を原ぬれば、未だ不善有らず。喜怒哀楽の未だ発せざる、何ぞ嘗て不善ならん。発して節に中れば、則ち往くとして善ならざる無し。凡そ善悪を言うは、皆な善を先にして悪を後にす。吉凶を言うは、皆な吉を先にして凶を後にす。是非を言うは、皆な是を先にして非を後にす。
現代語訳
性はすなわち理である。天下の理は、その出どころを尋ねれば、不善であったためしがない。喜怒哀楽がまだ発していないとき、どうして不善であろうか。発して節度にかなえば、どこへ行っても善でないことはない。およそ善悪と言うときは、いつも善が先で悪が後である。吉凶と言うときも吉が先、是非と言うときも是が先である。
解説
「性即理」は程頤の言葉で、朱子学の中心概念になった。人の本性はそのまま理であり、理の出どころに不善はない。では悪はどこから来るのか。感情そのものではなく、発したときに節度を外れることから来る、という説明である。最後の三句が効いている。善悪・吉凶・是非——どの言い方も善・吉・是が先に来る。言葉の順序そのものが、善が本で悪が後から来るものだという証拠だ、と。語の並びを根拠にするのは強引にも見えるが、日常の言葉づかいに宿った前提を掘り起こす手つきとして面白い。
この章句が説くこと
性即理未発と已発発して節に中る善を先にし悪を後にす
関連する章句
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伝習録・陸澄録或るひと問う、「晦庵先生曰く、『人の学を為す所以の者は、心と理とのみ』と。此の語は如何」と。曰く、「心は即ち性、性は即ち理なり。一の『与(と)』の字を下せば、恐らくは二と為るを免れず。此れ学者の善く之を観るに在り」と。
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伝習録・陳九川録問う、「先生、嘗て善・悪は只だ是れ一物と謂う。善・悪の両端は、冰・炭の相い反するが如し。如何ぞ只だ一物と謂わんや」と。先生曰く、「至善なる者は、心の本体なり。本体の上、才かに過当すること些子あらば、便ち是れ悪なり。是れ一個の善有りて、却って又た一個の悪有りて相い対するに非ざるなり。故に善・悪は只だ是れ一物なり」と。直、先生の説を聞くに因りて、則ち程子の所謂る「善は固より性なり。悪も亦た之を性と謂わざるべからず」を知る。又た曰く、「善・悪は皆な天理なり。之を悪と謂う者は、本と悪に非ず。但だ本性の上に於ける過と不及との間なるのみ」と。其の説、皆な疑うべき無し。
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伝習録・答周道通書来書に云う、「程子の『人生まれて静なる以上は説くを容れず。才かに性を説かば、便ち已に是れ性に非ず』を引く有り。何の故に説くを容れざるか。何の故に是れ性に非ざるか。晦庵、答えて云う、『説くを容れざる者は、未だ性の言うべき有らず。是れ性に非ざる者は、已に気質の雑わり無き能わざるなり』と。二先生の言、皆な未だ暁る能わず。毎に書を看て此に至れば、輒ち一惑と為る。請い問う」と。「生を之れ性と謂う」の「生」の字は即ち是れ「気」の字なり。猶お「気は即ち是れ性なり」と言うがごときなり。気は即ち是れ性なれば、「人生まれて静なる以上は説くを容れず」。才かに「気は即ち是れ性」と説かば、即ち已に一辺に落在す。是れ性の本原に非ざるなり。孟子の「性善」は、是れ本原の上より説く。然れども性善の端は、須らく気の上に在りて始めて見得べし。若し気無くんば、亦た見るべき無し。惻隠・羞悪・辞譲・是非は即ち是れ気なり。程子謂う、「性を論じて気を論ぜざれば、備わらず。気を論じて性を論ぜざれば、明らかならず」と。亦た是れ学者の各々一辺を認むるが為に、只だ此くの如く説くを得たり。若し自性を見得て明白なる時は、気は即ち是れ性、性は即ち是れ気なり。原と性・気の分かつべき無きなり。
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伝習録・黄省曾録問う、「古人、性を論ずるに、各々異同有り。何者か乃ち定論と為す」と。先生曰く、「性に定体無し。論も亦た定体無し。本体の上より説く者有り、発用の上より説く者有り、源頭の上より説く者有り、流弊の処より説く者有り。総じて之を言えば、只だ是れ一個の性なり。但だ見る所に浅深有るのみ。若し一辺に執定せば、便ち是ならず。性の本体は、原と是れ善無く・悪無き的なり。発用の上も也(また)原と是れ以て善と為すべく、以て不善と為すべき的なり。其の流弊も也た原と是れ一定の善、一定の悪なり。譬えば眼の如し。喜ぶ時の眼有り、怒る時の眼有り、直視すれば就ち是れ看るの眼、微視すれば就ち是れ覷(うかが)うの眼なり。総じて之を言えば、只だ是れ這個の眼なり。若し怒る時の眼を見得て、就ち未だ嘗て喜ぶの眼有らずと説き、看る時の眼を見得て、就ち未だ嘗て覷うの眼有らずと説かば、皆な是れ執定なり。就ち是れ錯(あやま)りなるを知る。孟子の性を説くは、直だ源頭の上より説き来たる。亦た是れ個の大概、此くの如しと説く。荀子の性悪の説は、是れ流弊の上より説き来たる。也た未だ尽くは他を是ならずと説くべからず。只だ是れ見得ること未だ精ならざるのみ」と。
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荀子・性悪篇人の性は悪にして、其の善なる者は偽(ぎ)なり。今(いま)人の性、生まれながらにして利を好むこと有り、是(これ)に順(したが)う、故に争奪生じて辞讓(じじょう)亡(ほろ)ぶ。生まれながらにして疾悪(しつお)すること有り、是に順う、故に残賊(ざんぞく)生じて忠信亡ぶ。生まれながらにして耳目の欲有り、声色(せいしょく)を好むこと有り、是に順う、故に淫乱(いんらん)生じて礼義文理(ぶんり)亡ぶ。然らば則ち人の性に從(したが)い、人の情に順わば、必ず争奪に出で、犯分乱理(はんぶんらんり)に合して、暴に帰す。故に必ず將(まさ)に師法(しほう)の化、礼義の道(みちび)き有りて、然る後に辞讓に出で、文理に合して、治に帰す。此れを用(もっ)て之を観れば、人の性の悪なるは明らかなり、其の善なる者は偽なり。
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伝習録・黄省曾録又た曰く、「孟子の病源は、性に善無く不善無しの上より見来たる。性に善無く不善無しとは、此くの如く説くと雖も、亦た大差無し。但だ告子は執定して看了り、便ち個の善無く不善無きの性の内に在る有り。善有り悪有るは又た物感の上に在りて看れば、便ち個の物の外に在る有りて、却って両辺に做して看了る。便ち差うを会(よ)くせん。善無く不善無きは、性は原と是れ此くの如し。悟り得て時に及ばば、只だ此の一句にて便ち尽き了る。更に内外の間有る無し。告子は一個の性の内に在るを見、一個の物の外に在るを見る。便ち他の性に於て未だ透徹せざる処有るを見る」と。