松下幸之助、五島慶太、田中角栄、吉川英治、川上哲治、野村克也。
この人たちの愛読書に、共通して一冊の中国古典が挙がります。『菜根譚(さいこんたん)』。
四百年前の明代に書かれた、短い箴言を並べただけの本です。物語もなければ、体系だった理論もありません。数行の断章が、三百五十ほど並んでいるだけ。
それが、なぜこれほど日本の経営者に読まれてきたのか。
理由の一つは、たぶんこの本の扱っている題材にあります。『論語』は理想の人間像を語り、『孫子』は勝ち方を説きます。『菜根譚』が扱うのは、もっと手前のことです。うまくいかない時期に、どう心を保つか。人とどう距離を取るか。うまくいった時期に、どこで手を離すか。
もう一つの理由は、言い方です。この本は、説教をしません。「風が竹林を吹き抜けても、過ぎたあとに音は残らない」というふうに、景色を置いて終わります。押しつけがましさがない。だから何度でも読み返せる。
この記事では、『菜根譚』の名言を十四句、白文(原文)・書き下し文・現代語訳と解説つきで読んでいきます。並べる順番は、この本の構成に沿っています——世間との付き合い方を説く前集から、退いた場所の楽しみを説く後集へ。
『菜根譚』とは何か ― 書名は「野菜の根」
先に、本そのものを紹介しておきます。
著者は洪自誠(こうじせい)。本名は洪応明、還初道人と号しました。明の万暦年間(一五七三〜一六二〇年)の人ですが、経歴はほとんど分かっていません。官職に就いたのかどうかも、はっきりしない。これほど読まれている本の著者について、これほど分からないのは珍しいことです。
構成は二部。前集二二二条、後集一三五条、合わせて三五七条とされます(校本によって条の切り方に差があり、数が一つ二つ違うこともあります)。
前集は、世間や人と交わる道。 上司や部下との間合い、名誉と失敗の扱い、欲との付き合い方。
後集は、山林自然の趣きと、退いて閑居する楽しみ。 静けさ、季節、老いの味わい。
思想の土台は、儒・仏・道の三教合一です。儒教の実践倫理、仏教の空、道教の無為。この三つが、区別なく溶け合っている。ふつう思想書は立場を明らかにするものですが、この本はそれをしません。立場より、効き目を優先しているという感じがあります。
なぜ「菜根」なのか
書名が独特です。菜根——野菜の根。
由来は、宋の汪信民(おうしんみん)の言葉です。
「人、能く菜根を咬み得ば、則ち百事做(な)すべし」。
人が野菜の根を噛みしめることができるなら、どんなことでも成し遂げられる——。この言葉は、朱熹の編んだ『小学』に収められています。
菜根は堅く、筋が多く、味が薄い。ごちそうではありません。その薄い味を味わえる人こそ、物事の本当の味が分かる人だ、という含みです。
つまり書名そのものが、濃い味より淡い味を上に置くという、この本の思想の宣言になっています。最初の一句で、そこを確認します。
中国よりも、日本で読まれた
もう一つ、この本には変わった経歴があります。
『菜根譚』は、本国の中国ではさほど読まれませんでした。 日本に伝わったのは江戸時代の末期。それから明治・大正・昭和にかけて、日本で国民的な教養書になっていきます。冒頭に挙げた顔ぶれ——経営者、政治家、作家、野球監督——は、その受容の厚みを示しています。
なぜ日本で受けたのか。これは推測ですが、組織のなかで長く働く人の本だからではないかと思います。前集の主題は、ほとんどが人間関係と自分の位置取りです。個人の才能で突破する話ではなく、大勢のなかで、消耗せずに長く保つ方法が書かれている。
では、中身に入ります。
一、「真味は只だ是れ淡なり」 ― 書名の思想そのもの
【白文】醲肥辛甘非真味,真味只是淡;神奇卓異非至人,至人只是常。
【書き下し】醲肥辛甘は真味に非ず。真味は只だ是れ淡なり。神奇卓異は至人に非ず。至人は只だ是れ常なり。
濃厚で脂っこく、辛く甘い味は、本当の味ではない。本当の味は、ただ淡いだけである。神秘的で並外れたものは、至高の人ではない。至高の人は、ただ普通なだけである——。
前集の早い段に置かれた一句で、書名「菜根」の意味をそのまま説明しています。
前半は味の話です。「醲肥辛甘(じょうひしんかん)」——濃い酒、脂の乗った肉、辛いもの、甘いもの。どれも強い刺激があります。ですが、毎日は食べられません。三日で飽きます。
「真味は只だ是れ淡なり」。 本当の味は、淡い。飽きないもの、毎日食べられるもの。米や、湯や、野菜の根。
後半で、その話が人に移ります。「神奇卓異は至人に非ず」。 神秘的な力や、並外れた奇矯さを持つ人が、最高の人物ではない。「至人は只だ是れ常なり」——最高の人物は、ただ普通なだけである。
これは、実務の目で読むと、かなり厳しいことを言っています。
「普通である」ことは、能力が足りないことではありません。 派手さを削ぎ落としても残るものがある、という状態です。奇抜な戦略や強烈な個性は、目を引きますが、組織を毎日動かすのは、飽きられない普通さのほうです。
同じ判断を、同じ基準で、何年も繰り返せる。機嫌によって言うことが変わらない。危機のときも平時と同じ顔でいる。これらは能力として語られにくい。手柄話にならないからです。 けれども、一緒に働く側から見れば、これほど頼りになるものはありません。
濃い味は、最初の一口で分かります。淡い味が分かるには、時間がかかる。この本の題名が「菜根」であることの意味は、そこにあります。
出典:菜根譚 前集
二、「耳中に常に逆耳の言を聞く」 ― 耳に痛い言葉が砥石になる
【白文】耳中常聞逆耳之言,心中常有拂心之事,纔是進德修行的砥石。若言言悅耳,事事快心,便把此生埋在鴆毒中矣。
【書き下し】耳中に常に逆耳の言を聞き、心中に常に拂心の事有り。纔(はじ)めて是れ徳を進め行を修むるの砥石なり。若し言言耳を悦ばしめ、事事心を快くせば、便ち此の生を把(と)りて鴆毒の中に埋(うず)むるならん。
耳に常に逆らう言葉を聞き、心に常に思いどおりにならない事がある。それでこそ、徳を進め行いを修める砥石となる。もし言葉がすべて耳に心地よく、事がすべて心に快ければ、この人生を毒の中に埋めることになる——。
言い方が強烈です。快適な環境を、「鴆毒(ちんどく)」——猛毒に喩えている。
「鴆」とは、中国の伝説上の毒鳥です。その羽を酒に浸すだけで人を殺す毒になるとされました。気づかないうちに効く毒、というところが要点です。
耳障りな言葉を聞かずに済む環境は、苦しくありません。むしろ快適です。だからこそ危ない、と洪自誠は言っています。苦しみは自覚できますが、快適さは自覚できない。
これは、ある程度の立場になった人ほど深刻になります。役職が上がるにつれて、耳に痛いことを言ってくれる人は自然に減っていきます。怒鳴ったこともないのに、いつのまにか誰も反対しなくなる。部下が黙るのは、納得したからではなく、言う価値がないと判断したからです。
対策として、この一句は「砥石」という比喩を出しています。砥石は、刃を削ります。 削られなければ切れ味は戻らない。痛いことと、有害なことは違う。
実務で使うなら、こう問い直すのがよいと思います。この三か月で、自分の考えが変わるような指摘を、誰かから受けただろうか。 一度も受けていないなら、それは自分が正しかったからではなく、指摘が届かない場所に立っているという可能性が高い。
出典:菜根譚 前集
三、「径路の窄き処は、一歩を留めて人と行かしむ」 ― 譲ることは、安楽の技術
【白文】徑路窄處,留一步與人行;滋味濃的,減三分讓人嗜。此是涉世一極安樂法。
【書き下し】径路の窄き処は、一歩を留めて人と行かしむ。滋味の濃きは、三分を減じて人に譲りて嗜ましむ。此れ是れ世を渉るの一極安楽の法なり。
小道の狭いところでは、一歩譲って人を通らせる。味の濃いものは、三分減らして人に譲って味わわせる。これが、世を渡るうえでこの上なく安楽な方法である——。
有名な一句ですが、注目したいのは末尾の言葉です。
「一極安楽法」。 譲ることを、道徳ではなく、安楽の技術として説明しています。
ふつう「譲りなさい」は、徳の話として語られます。この一句は違う。譲ったほうが、自分が楽だと言っている。理由は書かれていませんが、想像はつきます。
狭い道で譲らなければ、押し合いになります。押し合いには時間と体力がかかり、しかも勝っても得るものは「先に通れた」だけです。争いのコストが、争って得るものより大きい。 その計算をした結果が「一歩を留める」だという話です。
「三分を減じて」という数字も、よく効いています。全部譲れとは言っていません。 三割。これなら実行できます。全部譲るのは美談ですが、続きません。続かない方法は、技術として役に立たない。
現代の仕事で、この一句が効く場面は多い。予算の配分、案件の取り合い、会議での発言時間、成果の帰属。どれも、限られたものを分ける場面です。
そこで毎回きっちり取りにいく人は、たいてい取ったもの以上の何かを失っています。 次に頼みごとをするときの通りやすさ、情報が回ってくる速度、困ったときに手を貸してもらえるかどうか。これらは帳簿に載りません。載らないものが減っていく。
三割を譲るというのは、その見えない口座への入金なのだと思います。
出典:菜根譚 前集
四、「水の清き者は常に魚無し」 ― 汚れを受け入れる度量
【白文】地之穢者多生物,水之清者常無魚。故君子當存含垢納污之量,不可持好潔獨行之操。
【書き下し】地の穢れたる者は多く物を生ず。水の清き者は常に魚無し。故に君子は当に垢を含み汚を納るるの量を存すべく、好潔独行の操を持すべからず。
汚れた土地には、多くの物が生じる。清らかな水には、常に魚がいない。だから君子は、垢を含み濁りを受け入れる度量を持つべきで、清潔を好んで独り行く節操を持つべきではない——。
「水清ければ魚棲まず」として知られる考え方です。
前半は観察です。肥沃な土は、汚れています。 落ち葉が腐り、虫や微生物がいて、匂いもある。逆に、無菌の土からは何も生えません。澄み切った水も同じで、栄養がないから魚が棲めない。
そこから引き出される結論が、「含垢納汚(がんこうのうお)の量」です。垢を含み、汚れを納れる。「量」とは度量、器の大きさのことです。
そして後半で、はっきり否定されているものがあります。「好潔独行の操」——清潔を好んで、独りで行く節操。
これは、なかなか痛いところを突いています。潔癖は、たいてい正しいのです。 曖昧を許さない、妥協しない、筋を通す。どれも間違ってはいない。ただ、正しさを保ったまま独りになるという結果を招きやすい。
組織で言えば、こういう景色になります。基準の高い人のところに、人が寄りつかなくなる。悪い報告が上がってこなくなる。「あの人に言うと詰められるから」と、問題が別のルートを流れ始める。本人は基準を守っているだけなのに、情報が枯れていく。
もちろん、何でも許せという話ではありません。この一句が言っているのは、許容の幅を持つこと自体が能力である、ということです。完璧を求めれば、集まる情報も、集まる人も減る。多少の濁りを抱えられる器のほうが、結果的に多くを生む。
清らかさは、それ自体が目的ではありません。
出典:菜根譚 前集
五、「人の小過を責めず」 ― 三つの「しない」
【白文】不責人小過,不發人陰私,不念人舊惡。三者可以養德,亦可以遠害。
【書き下し】人の小過を責めず、人の陰私を発かず、人の旧悪を念わず。三者は以て徳を養うべく、亦た以て害を遠ざくべし。
人の小さな過ちを責めない。人の隠し事を暴かない。人の古い悪を思い出さない。この三つは、徳を養うことができ、また害を遠ざけることもできる——。
短い一句ですが、構造がよくできています。
まず、三つとも「しない」ことです。 何かを積極的にやれ、という教えではない。人の徳について語るとき、たいていは「こうしなさい」の形をとりますが、ここでは全部「するな」で統一されている。
そして、効能が二つ挙げられています。「徳を養う」と、「害を遠ざける」。
この二つ目が、この本らしいところです。徳が高まるだけでなく、自分の身が安全になると言っている。実利です。
三つを、一つずつ見ます。
人の小過を責めず。 小さなミスをいちいち指摘しない。これができないと、部下は失敗を隠すようになります。隠された失敗は、大きくなってから出てきます。
人の陰私を発かず。 私生活や、言いにくい事情を暴かない。知ってしまっても、使わない。握った弱みは、使わないほうが強い。
人の旧悪を念わず。 昔の過ちを、いつまでも覚えていない。これがいちばん難しい。人は、他人の失敗をよく覚えています。そして、議論が行き詰まったときに持ち出す。一度でもそれをやると、その相手はもう本音を言わなくなります。
三つに共通しているのは、どれも「やればできてしまう」ことです。責めることも、暴くことも、思い出すことも、努力は要りません。むしろ自然にやってしまう。だから、あえてしないという意志が要る。
積極的に善いことをするより、余計なことをしないほうが難しい場面がある。この一句は、そこを衝いています。
出典:菜根譚 前集
六、「完名美節は、独り任ずるに宜しからず」 ― 手柄は分け、汚名は引き受ける
【白文】完名美節,不宜獨任,分些與人,可以遠害全身;辱行污名,不宜全推,引些歸己,可以韜光養德。
【書き下し】完名美節は、独り任ずるに宜しからず。些かを分かちて人に与えば、以て害を遠ざけ身を全うすべし。辱行汚名は、全くは推すに宜しからず。些かを引きて己に帰せば、以て光を韜(つつ)み徳を養うべし。
完全な名声と美しい節操は、独り占めするのはよくない。少し分けて人に与えれば、害を遠ざけ、身を全うできる。恥ずべき行いと汚名は、すべて人に押しつけるのはよくない。少し引き受けて自分に帰せば、光を韜(つつ)み、徳を養える——。
リーダーに向けた一句としては、これがいちばん実用的かもしれません。
成功したら、手柄を分ける。失敗したら、責任を少し引き受ける。
言われてみれば当たり前ですが、実行されていない場面をよく見ます。そして興味深いのは、洪自誠が挙げている理由です。
手柄を分ける理由は、「害を遠ざけ身を全うすべし」。徳のためではなく、身の安全のためだと言っている。
これは冷徹な観察です。手柄を独り占めした人は、その瞬間から周囲の敵意を集めます。称賛は一度きりですが、恨みは残る。しかも、次に失敗したときに誰も庇ってくれません。独り占めは、収支が合わない。
汚名を引き受ける理由は、「光を韜み徳を養うべし」。「韜光(とうこう)」とは、自分の光を包み隠すことです。
ここも面白い。責任を取ることを、謙虚さではなく「隠す技術」として語っている。 全部を部下のせいにすれば、自分は無傷に見えます。ですが、無傷に見える上司は、誰からも信用されません。少し傷を負ってみせることが、光を適切な明るさに調整する、という発想です。
そして両方に共通するのが、「些か」——少しでいい、という点です。全部分けろとも、全部かぶれとも言っていない。現実に実行できる分量が指定されているところが、この本の親切さだと思います。
出典:菜根譚 前集
七、「十語九つ中るも、未だ必ずしも奇と称せられず」 ― 評価は非対称である
【白文】十語九中,未必稱奇,一語不中,則愆尤駢集;十謀九成,未必歸功,一謀不成,則訾議叢興。君子所以寧默毋躁,寧拙毋巧。
【書き下し】十語九つ中(あた)るも、未だ必ずしも奇と称せられず。一語中らずんば、則ち愆尤駢集す。十謀九つ成るも、未だ必ずしも功に帰せられず。一謀成らずんば、則ち訾議叢興す。君子の寧ろ黙して躁なる毋く、寧ろ拙にして巧なる毋き所以なり。
十のうち九つ言い当てても、必ずしも見事だとは言われない。一つ外せば、非難が集まる。 十のうち九つ策が成っても、必ずしも功とはされない。一つ成らなければ、そしりが湧き起こる。だから君子は、むしろ黙って騒がず、むしろ不器用で巧みでない——。
これは、現代の職場でそのまま起きていることです。
洪自誠が指摘しているのは、評価の非対称性です。九割の成功は「当然」として処理され、一割の失敗だけが記憶される。しかも失敗のほうは、名前つきで残ります。
四百年前に書かれたとは思えないほど、正確な観察だと思います。そして彼が引き出す結論が、少し意外です。
「寧ろ黙して躁なる毋く、寧ろ拙にして巧なる毋し」。 むしろ黙って騒がず、むしろ不器用でいろ。
つまり、評価の非対称性を是正しようとしていません。 世間はそういうものだと受け入れたうえで、露出を減らせと言っている。
これは諦めでしょうか。実務的には、そうでもないと思います。
予測を声高に言う人は、外れたときに全部返ってきます。十回のうち九回当てても、覚えられているのは外した一回です。発言の量に比例して、評価は下がりうる。 一方、黙って結果だけ出している人は、外した回が記憶に残りません。
「寧ろ拙にして巧なる毋し」も同じ構造です。巧みさは、期待値を上げます。 上がった期待値は、次の基準になる。器用に見える人ほど、少しのつまずきが目立つ。
もちろん、黙っていればいいという話ではありません。騒ぐことと、伝えることは違う。 この一句が戒めているのは「躁」——落ち着きなく騒ぐこと、必要以上に自分を売り込むことです。
出典:菜根譚 前集
八、「事を謝するは当に正に盛んなるの時に謝すべし」 ― 引き際は絶頂で
【白文】謝事當謝於正盛之時,居身宜居於獨後之地。謹德須謹於至微之事,施恩務施於不報之人。
【書き下し】事を謝するは当に正に盛んなるの時に謝すべし。身を居くは宜しく独り後るるの地に居くべし。徳を謹むは須らく至微の事に謹むべし。恩を施すは務めて報いざるの人に施すべし。
事を退くのは、まさに盛んな時に退くべきだ。身を置くのは、独り後れた場所に置くべきだ。徳を慎むのは、ごく微細な事に慎むべきだ。恩を施すのは、努めて報いてこない人に施すべきだ——。
四つ並んでいます。そして四つとも、人の本能に逆らっています。
事を謝するは、正に盛んなるの時に。 引き際は、絶頂で。これがいちばん難しい。人が身を引くのは、たいてい下り坂に入ってからです。まだ行けると思えるうちは、離せない。
けれども、下り坂で退けば「限界だった」と見られます。絶頂で退けば、組織はその人がいなくても回ることを、余力のあるうちに証明できる。
身を居くは、独り後るるの地に。 目立つ場所ではなく、後ろに位置を取る。
徳を謹むは、至微の事に。 大きな場面ではなく、誰も見ていない細部で慎む。大舞台で立派に振る舞うのは、誰でもできます。難しいのは、どうでもいい場面で手を抜かないことです。
恩を施すは、報いざるの人に。 見返りが期待できる人ではなく、返ってこない人に。
四つを並べてみると、共通点が見えます。どれも、見返りが最も少ないタイミングを選べと言っている。
これは損得を無視しろという意味ではないと思います。むしろ逆で、見返りを計算した行動は、相手にも見えるということです。絶頂で退いた人は覚えられ、下り坂で退いた人は忘れられる。返ってこない相手に施した恩だけが、恩として残る。
計算が見えない行動だけが、長い信用になる。 そういう計算です。
出典:菜根譚 前集
九、「小人と仇讎する休かれ」 ― 戦わなくてよい相手がいる
【白文】休與小人仇讎,小人自有對頭;休向君子諂媚,君子原無私惠。
【書き下し】小人と仇讎する休(な)かれ。小人は自ら対頭有り。君子に諂媚する休かれ。君子は原より私恵無し。
小人と敵対してはならない。小人には、自ずと敵がいる。 君子にへつらってはならない。君子には、もともと私的な恩恵はない——。
二つの禁止が、対になっています。そして、それぞれに理由がついている。ここが親切です。
小人と争うな。理由は「小人自ら対頭有り」。 品行のよくない人には、放っておいても敵ができる。あなたが手を下すまでもない。
これは、道徳的な理由ではありません。時間とエネルギーの配分の話です。 不誠実な相手と正面から戦えば、こちらも消耗します。しかも、そういう相手は争いに慣れている。慣れている土俵で戦うのは、不利です。
君子にへつらうな。理由は「君子原より私恵無し」。 立派な人は公正だから、媚びても私的な便宜は返ってこない。
これも冷静です。へつらいが効く相手は、そもそも公正でない人だけです。公正な人に媚びるのは、効かない上に自分の格を下げるという、二重に損な行動になる。
二つ合わせると、こういうことになります。小人と争うのも、君子に媚びるのも、どちらも空振りする。 前者は相手の土俵で消耗し、後者は原理的に成立しない。
では、力をどこに使えばいいのか。この一句は答えを書いていませんが、消去法で残るものは決まっています。自分の仕事です。
嫌な相手のことを考えている時間、機嫌を取ることに使っている労力。それを引き算したときに残る時間が、実際に成果を生む時間です。四百年前の人が、そこを見ていたというのが面白い。
出典:菜根譚 前集
十、「天、我を薄くするに福を以てせば」 ― 天に対する宣言
【白文】天薄我以福,吾厚吾德以迓之;天勞我以形,吾逸吾心以補之;天阨我以遇,吾亨吾道以通之。天且奈我何哉。
【書き下し】天、我を薄くするに福を以てせば、吾は吾が徳を厚くして以て之を迓(むか)う。天、我を労するに形を以てせば、吾は吾が心を逸にして以て之を補う。天、我を阨(やく)するに遇を以てせば、吾は吾が道を亨(とお)して以て之に通ず。天も且つ我を奈何せんや。
天が私に薄い福しか与えないなら、私は徳を厚くしてこれを迎える。天が私の体を苦しめるなら、私は心を安らかにしてこれを補う。天が私の巡り合わせを塞ぐなら、私は自分の道を通してこれに通じる。天も、私をどうすることもできまい——。
『菜根譚』のなかで、最も気迫のある一句だと思います。
構造は単純です。天が三つの仕打ちをする。それに対して、こちらが三つの手を打つ。そして最後に一行、「天且奈我何哉」——天も、私をどうすることもできまい。
この最後の一行が、すごい。天に向かって、勝利宣言をしています。
三つの対応を見ると、共通点があります。すべて、天が触れない領域で応じている。
福が薄い——これは外側の話です。それに対して「徳を厚く」する。徳は、内側にあります。
体が苦しい——これも外側です。それに対して「心を逸に」する。心も内側です。
巡り合わせが塞がれている——外側。それに対して「吾が道を通す」。道も、自分の側です。
天が支配するのは境遇であって、こちらの手持ちではない。 だから、天がどんな手を打っても、こちらには必ず対応する手がある。天は詰ませられない。
この考え方には、東洋思想の系譜があります。荀子は「君子は其の己に在る者を敬して、其の天に在る者を慕わず」と言い、明代の袁了凡は『陰隲録』で、運命は決まったものではなく自分で立て直せると説きました。洪自誠と袁了凡は、同じ明代の人です。
→ 運命・宿命・立命の違い — 陰隲録(袁了凡)が教えるもの
実務に引き寄せるなら、こうなります。環境のせいにしたくなる場面は必ず来ます。 景気、業界、タイミング、生まれた場所。どれも自分では動かせない。そのとき、動かせるものが何かを数え直せるかどうか。
この一句は、悲観の否定ではありません。天が意地悪であることは認めたうえで、それでも打つ手はある、と言っている。だから強い。
出典:菜根譚 前集
十一、「風、疎竹に来たる」 ― 過ぎたら、留めない
【白文】風來疏竹,風過而竹不留聲;雁度寒潭,雁去而潭不留影。故君子事來而心始現,事去而心隨空。
【書き下し】風、疎竹に来たる。風過ぎて竹は声を留めず。雁、寒潭を度(わた)る。雁去りて潭は影を留めず。故に君子は事来たりて心始めて現れ、事去りて心随いて空し。
風が、まばらな竹林に吹く。風が過ぎれば、竹は音を留めない。雁が、冷たい淵を渡る。雁が去れば、淵は影を留めない。だから君子は、事が来れば心が初めて現れ、事が去れば心もそれに従って空になる——。
『菜根譚』でいちばん美しい一句として挙げられることが多い段です。
前半は、ただの景色です。竹林を風が抜けるとき、竹は鳴ります。風が止めば、音は消える。水面を雁が渡るとき、影が映ります。雁が飛び去れば、影は消える。当たり前のことしか書いていません。
その当たり前を、後半で人の心に重ねます。
「事来たりて心始めて現れ、事去りて心随いて空し」。
注目すべきは、「事来たりて心始めて現れ」のほうです。この句は、無感動を勧めていません。竹は、風が吹けばちゃんと鳴る。事が来たときには、心を全部出す。
問題は、そのあとです。風が止んだあとも鳴り続ける竹は、おかしい。
私たちの心は、たいてい鳴り続けます。終わった会議の一言を、家に帰ってから思い返す。もう決まった案件の判断を、何度も検算する。言われた批判を、何年も覚えている。エネルギーは、事そのものより、事のあとに多く使われています。
この一句が言っているのは、「気にするな」ではありません。気にする時間の置き場所を変えろ、ということだと思います。事が起きているあいだに全部使う。終わったら、次のために空けておく。
そして、空でいることには実務的な意味があります。次に風が来たとき、鳴れるからです。 前の音が残っている竹は、新しい風に正しく応じられません。
出典:菜根譚 前集
十二、「足るを知る者は仙境」 ― 同じ景色が、二通りに見える
【白文】都來眼前事,知足者仙境,不知足者凡境。縂出世上因,善用者生機,不善用者殺機。
【書き下し】都(すべ)て眼前の事に来たる。足るを知る者は仙境、足るを知らざる者は凡境なり。総て世上の因に出づ。善く用うる者は生機、善く用いざる者は殺機なり。
すべては、目の前の事に帰する。足るを知る者には仙境であり、足るを知らない者には凡境である。 すべては世の因縁から出る。善く用いる者には生きる働きとなり、善く用いない者には殺す働きとなる——。
ここから後集に入ります。後集は、退いた場所の楽しみを説く部です。
この一句の構造は、二つの対句が同じ形をしています。同じものが、受け手によって正反対になる。
同じ目の前の光景が、足るを知る人には仙境(仙人の住む理想郷)に見え、知らない人には凡境(平凡でつまらない場所)に見える。同じ世の因縁が、善く用いる人には生きる働きになり、そうでない人には殺す働きになる。
変わっているのは、対象ではなく、受け手のほうです。
「足るを知る」は、老子の「足るを知る者は富む」でよく知られた考え方です。菜根譚のこの句は、それを知覚の話として言い直しています。満足は、量の問題ではなく、見え方の問題だ、と。
→ 足るを知るとは — 老子の原文と本当の意味、向上心との両立
後半の「生機」「殺機」も鋭い。同じ出来事が、活かす人には生きる力になり、活かせない人には自分を殺す力になる。出来事そのものに、善悪はついていない。
誤解を避けるために書いておくと、これは「考え方次第で何でも幸せになれる」という話ではありません。そういう読み方をすると、この本は急に薄っぺらくなります。
言われているのは、もっと限定的なことです。同じ材料から、二通りの結果が出る余地がある。 その余地の中でだけ、こちらに選択権がある。境遇そのものは選べません。ただ、そこから生機を取り出すか殺機を取り出すかは、選べる。
前の章の「天も且つ我を奈何せんや」と、同じ思想です。
出典:菜根譚 後集
十三、「寵辱に驚かず」 ― 庭の花が咲いて散るのを、閑かに看る
【白文】寵辱不驚,閑看庭前花開花落。去留無意,漫隨天外雲卷雲舒。
【書き下し】寵辱に驚かず、閑かに庭前の花開き花落つるを看る。去留に意無く、漫(そぞ)ろに天外の雲巻き雲舒(の)ぶるに随う。
寵愛にも屈辱にも驚かず、閑かに庭先の花が咲き、花が散るのを看る。去るも留まるも意にとめず、そぞろに天の外の雲が巻き、雲が広がるのに従う——。
後集を代表する一句で、書としても掛け軸としても、繰り返し書かれてきました。中国でも「寵辱不驚」の四字は、単独でよく使われます。
まず、「寵辱」という対比の置き方が巧みです。寵愛と屈辱。ふつう、これは正反対のものとして扱われます。ところがこの句は、両方まとめて「驚かない」対象にしている。
褒められても驚かない、というのが要点です。批判に動じないことは、心構えとして語られやすい。ですが、称賛に動じないほうが、実はずっと難しい。 昇進、受賞、良い評判。これらは受け取りたいものです。受け取りたいものほど、心を持っていかれます。
そして、その両方を庭の花と同じ扱いにしている。花が咲くのも、散るのも、こちらが決めたことではありません。自分の手柄でも、自分のせいでもない。
後半の「去留に意無く」も同じです。去るものも、留まるものも、追わない。人も、機会も、地位も。天の雲が巻いたり広がったりするのに、逆らわない。
ここで一つ、注意しておきたいことがあります。この一句は、無関心の勧めではありません。
キーワードは「閑看」——閑かに看る、です。看ています。目を逸らしてはいない。花が咲いたことも、散ったことも、ちゃんと見ている。ただ、そこに自分の感情を巻き込んでいないだけです。
現代の言葉に置き換えるなら、評価と自己を切り離すということになります。良い評価も悪い評価も、自分の一部ではなく、庭で起きている出来事として見る。そうしないと、評価のたびに自分が上下してしまう。
これは、長く働く人にとって現実的な技術です。上下し続ける人は、続きません。
出典:菜根譚 後集
十四、「日既に暮れて猶お烟霞絢爛たり」 ― 終わり際こそ、精神百倍
【白文】日既暮而猶煙霞絢爛,歲將晚而更橙橘芳馨。故末路晚年,君子更宜精神百倍。
【書き下し】日既に暮れて猶お烟霞絢爛たり。歳将に晩れんとして更に橙橘芳馨たり。故に末路晩年、君子は更に宜しく精神百倍すべし。
日はすでに暮れても、なお夕焼けは絢爛としている。年が暮れようとして、なお橙や橘は香り高い。だから終わりの道、晩年において、君子はいっそう精神を百倍にすべきである——。
最後にこの一句を置きます。
前半は、二つの景色です。日が暮れる頃に、空はいちばん美しい。 昼間の空は、ただ明るいだけです。夕焼けが絢爛としているのは、日が沈もうとしているからです。
年が暮れる頃に、柑橘はいちばん香る。 橙も橘も、冬に実り、冬に香ります。
どちらも、終わり際に最も濃くなるものの例です。
そして結論。「末路晩年、君子は更に宜しく精神百倍すべし」。 終わりの局面でこそ、精神を百倍にせよ。
「精神百倍」という言い方が、この本には珍しく、勢いがあります。淡いことを良しとし、譲ることを勧め、寵辱に驚くなと説いてきた本が、最後に「百倍」と言う。
なぜ終わり際なのか。理由は書かれていませんが、実務で考えると、はっきりしています。終わり方が、全体の記憶を決めるからです。
長く続いたプロジェクトも、最後の一か月が雑なら、そういうものとして覚えられます。何十年勤めた人も、辞め方が悪ければ、それだけが語られる。終わりは、それまでの全部に遡って効きます。
そしてこの一句は、人生の話としても読めます。「末路晩年」 ——もう先が短いという局面。ふつうなら、力を抜くところです。そこで抜かないことを、洪自誠は君子の条件に挙げました。
日が暮れかけているから、空は美しい。残りが少ないことは、濃くなる理由になる。 そういう読み方ができる一句だと思います。
出典:菜根譚 前集
まとめ ― なぜ、この本が日本の経営者に読まれてきたのか
十四句を並べてきました。通して見えるものを、最後にまとめます。
この本は、勝ち方を教えません。 十四句のどこにも、成功する方法は書かれていませんでした。書かれていたのは、こういうことです。
濃い味より淡い味を選べ。耳に痛い言葉を砥石にせよ。狭い道では三割譲れ。清らかすぎる水に魚は棲まない。責めず、暴かず、思い出すな。手柄は分け、汚名は少し引き受けよ。黙って、不器用でいろ。退くなら絶頂で。小人と争うな。天が塞ぐなら、自分の道を通せ。事が去ったら心を空けよ。同じ景色が二通りに見える。褒められても驚くな。終わり際こそ、精神百倍。
どれも、消耗しない方法です。
これが、日本の経営者に長く読まれてきた理由なのだと思います。事業を続けるということは、勝ち続けることではありません。続けられる状態を保つことです。そして人が事業をやめる理由は、たいてい負けたからではなく、消耗しきったからです。
『菜根譚』は、その消耗のポイントを一つずつ潰していきます。争いで消耗しない。評価で消耗しない。過ぎたことで消耗しない。境遇で消耗しない。
そして、この本には力みがありません。
「こうあるべきだ」ではなく、「風が過ぎれば竹は鳴らない」と書く。読む側に解釈の余地を残したまま終わる。だから、読むたびに違う句が引っかかります。順調なときに響く句と、行き詰まったときに響く句が、同じ本のなかにある。
濃い味の本は、一度で覚えられます。淡い味の本は、何度も戻ってこられる。
書名が「菜根」であることの意味は、たぶんそこにもあります。
師導では『菜根譚』全三百五十六句を、白文・書き下し文・現代語訳・解説つきで収録しています。この記事で触れられなかった句も、前集・後集の順に読めます。
→ 菜根譚の名句一覧