法句経 / 第一 双叙の部 三〜五
三 彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執する人の怒は息むことなし。 四 彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執せざる人の怒は止息に歸す。 五 世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。
新字:三 彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執する人の怒は息むことなし。 四 彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執せざる人の怒は止息に帰す。 五 世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。
書き下し
三 彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執する人の怒は息むことなし。 四 彼れ我を罵り、我を打ち、我を破り、我を掠めたりと堅く執せざる人の怒は止息に帰す。 五 世の中に怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし。
現代語訳
「あの人は私を罵った、私を打った、私を破った、私を奪った」と固く思い続ける人の怒りは、やむことがない。「あの人は私を罵った、私を打った、私を破った、私を奪った」と固く思い続けない人の怒りは、おさまるところへ帰する。この世において、怨みが怨みによってやむということは決してない。怨みなきことによってやむ。この理は変わることがない。
解説
「怨は怨にて息むべきやう無し。無怨にて息む、此の法易はることなし」——法句経でもっともよく知られた一句である。第二次大戦後の講和会議でセイロン代表がこの句を引き、日本への賠償請求を放棄したことでも知られる。三と四の対句が構造を示している。同じ被害の記憶を「堅く執する」か「堅く執せざる」か。出来事そのものは同じで、違うのは握り続けるかどうかだけだ。しかも罵られ打たれた事実を否定してはいない。事実は事実として置いたうえで、握るのをやめるという一点だけを言う。最後に「此の法易はることなし」と念を押しているのは、それが実感に反するからだろう。やり返したい心のほうが自然なのである。
この章句が説くこと
怨は怨にて息まず無怨堅く執する赦し
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