運命、宿命、立命。どれも「命」の字を使いますが、指しているものは違います。この三つの違いを教えるのに安岡正篤が引いたのが、袁了凡の『陰隲録』でした。自分の一生は決まっていると信じた少年が、それを覆されるまでの話です。言葉の意味を確かめたうえで、その物語を読んでいきます。

運命・宿命・立命の違い

共通する「命」の字

三つの言葉に共通する「命」は、いのち。それ自体は、何かが生きているという存在そのものを指します。違いは、その上に乗っている一字のほうにあります。

運命とは

運命の「運」には、運ぶ、めぐる、創造や進化してやまない、という意味があります。したがって運命という言葉は、本来「動いてやまない」という含みを持ちます。

「これも運命だ」と言うとき、私たちはたいてい、固定的で、すでに決まっているものとして使っています。しかし字の意味からすれば、逆です。運命とは、動き続けているもののことです。

宿命とは

宿命の「宿」には、宿るというように、止まる、固定される、という意味があります。だから宿命は、決まった道を指します。安岡正篤の説明を借りると、こうなります。

人間は母の体内から出て、呱々の声をあげた瞬間に一生のことがきまっておるのだ、その後の人生、すなわち次第に成長して、花を開き、実を結ぶ、あるいは嵐にあって全うできず、中途で滅びるなどのことが、きまりきっているというふうに考えるのが宿命であります。

生まれた瞬間にすべてが決まっている、という考え方。それが宿命です。

立命とは

立命は、宿命とは違います。自然の法則、理法を知ったうえで、自分の人生をそれに従って意志で開拓していくこと、自主的に創造していくことを指します。

三つの関係を整理すると、こうなります。運命という大きな動きのなかに、動かせない部分(宿命)と、自分で立てていける部分(立命)がある。運命全部が宿命なのではありません。

「立命」の出典は孟子

立命という言葉は、日本では「立命館」くらいでしか目にしないかもしれません。しかし、れっきとした古典の言葉です。出典は『孟子』尽心章句上です。

殀寿貳せず、身を修めて以て之を俟つ

孟子曰、盡其心者、知其性也。知其性、則知天矣。存其心、養其性、所以事天也。殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也。

書き下し: 孟子曰く、「其の心を盡くせば、其の性を知るなり。其の性を知れば、則ち天を知る。其の心を存し、其の性を養うは、天に事うる所以なり。殀壽貳せず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり。

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殀寿貳せず——早死にするか長生きするかで心を二つにしない。それを気に病まず、ひたすら身を修めて待つ。それが「命を立つる」ことだ、と孟子は言います。

ここが立命という言葉の核心です。立命とは、寿命や境遇を思いどおりにすることではありません。決まっている部分に心を奪われず、自分の手が届く部分を尽くすことを指しています。

正命と、正命でない死

同じ尽心章句上には、こう続く一節もあります。

孟子曰:「莫非命也,順受其正。是故知命者,不立乎巖牆之下。盡其道而死者,正命也。桎梏死者,非正命也。」

書き下し: 孟子曰く、「命に非ざる莫きなり。其の正を順受す。是の故に命を知る者は、巖牆の下に立たず。其の道を盡くして死する者は、正命なり。桎梏して死する者は、正命に非ざるなり。」

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すべては天命である。しかし、その正しいものを受け取れ、と。だから命を知る者は、崩れかけた石垣の下には立たない。道を尽くして死ぬのは正命だが、罪を犯して刑死するのは正命ではない。

これは重要な線引きです。すべてが天命だからといって、何をしても同じではない。危ない場所に立たない判断は自分の側にある。孟子の運命論は、宿命論とはまったく別のところに立っています。

陰隲録(袁了凡)とは

袁了凡という人物

袁了凡(えん・りょうぼん、本名は袁黄)は明代の人です。代々学者の家に生まれ、のちに科挙に及第して官に就きました。晩年、自分の一生のいきさつを子への教訓として書き残しました。それが『陰隲録』です。

書名について

日本では、安岡正篤がこの書を『陰隲録』の名で紹介したことにより知られるようになりました。中国では『了凡四訓』の名で広く読まれています。「陰隲(いんしつ)」とは、天が人知れず人を助け定めること。人目につかないところで積む善行、という含みで使われます。

陰隲録のあらすじ — 宿命を悟る

老人の予言

袁了凡は幼名を学海といい、父を早く亡くして家が貧しかったため、母と相談して医者になろうと勉強していました。

あるとき、立派な風貌の老人(孔という人物)が現れ、少年の彼にこう尋ねます。

「何を勉強しておるのか」

事情を話すと、老人は言いました。

「いや、お前は立派な役人になって出世をする。進士の試験にも及第する。だからその勉強をやめて、進士の試験の準備をしなさい」

そのうえ、こう予言します。私の教えどおりに勉強すれば、何年、何歳のときに予備試験を何番で合格し、本試験は何番くらいで合格する。そしてこういう出世をして、何歳で寿命が尽きる。たいへん気の毒だが、子供には恵まれない、と。

予言は当たった

袁了凡は驚き、それまでの勉強をやめて進士の試験に向かいました。受けてみると、老人の予言したとおりの成績で合格したのです。

そして彼はこう考えるようになりました。

なるほど人間には運命というものがあって自分の一生は決っておる。くだらぬことに煩悶したり、考えたり、野心をもったりすることは愚かだ。神様がちゃんと進むべき途を予定してくれておるので、下手にもがいてくだらんことを考えても何にもならん

少年にして、自分の宿命を悟った——そう思ったわけです。

立命に至る — 雲谷禅師の一喝

「人物ができている」

宿命を悟った袁了凡は、若いのに老成した風格を身につけました。あるとき南京の寺に滞在していると、雲谷という禅師に出会います。禅師はその風格を感じ取って尋ねました。

「お前さんは、見うけたところ若いのに似合わず人物ができとるようだが、どういう学問をしたのか、どういう修業をしたのか」

袁了凡はこう答えます。特別な勉強も修養もしていない。ただ少年時代に不思議な老易者が予言をしてくれて、それが恐ろしいほど的確に当たる。だから人間には運命があって決まりきっている、くだらぬことを考えても仕方がないと気づき、世間の青年のように煩悶するのをやめた。そのせいでお目に留まったのかもしれません、と。

一喝

すると雲谷は、こう言いました。

何だ、そんなことか、それじゃ昔から偉人、聖人などが何のために学問修業をしたのか全く意義がないではないか。自分の運命は自分でつくっていくのであって、学問修業というものは、それによって人間が人間をつくっていくことなのだ。そういう風に人間をつくっていくのが大自然、道の妙理、極意なのだ。お前の理窟では、聖人などの学問修業は何にもならぬことではないか。馬鹿な悟りを持ったものだ

馬鹿な悟り、と切って捨てられました。

驚いた袁了凡は、それまでの宿命論を考え直します。そして出世の道を歩み、かつて老人に「恵まれない」と言われた子供も生まれました。晩年、自分のいきさつを子への教訓として書き残したのが『陰隲録』です。

静かな悟りは、たいてい早すぎる

この物語で見逃せないのは、少年の袁了凡が間違っていたのではなく、早すぎたという点でしょう。予言は実際に当たっており、彼の推論には根拠がありました。

問題は、その悟りが手を動かさなくてよい理由として働いたことです。煩悶をやめられたのは結構ですが、同時に、学び修めることの意味も失っていた。落ち着いて見える人が、実は何も賭けていないだけ、ということは起こります。雲谷が見抜いたのはそこでした。

運命は宿命ではない

経営者が占いに傾くとき

経営をしていれば、うまくいかない時期が必ず来ます。手を尽くして届かないとき、人は説明を求めます。そこで自分の運命は決まっているのだと考え、占いの言うとおりに動く人もいます。

気持ちは分かります。決まっていると思えたほうが、いまの苦しさに説明がつくからです。少年の袁了凡が煩悶をやめられたのと、同じ働きです。

しかし、運命は宿命ではない

決まっている部分はあるでしょう。生まれた家、時代、体、出会う人の多く。それらは選べません。

しかし、そこで何を積むかは選べます。孟子の言い方を借りれば、崩れかけた石垣の下に立つか立たないかは、天ではなくこちらが決めています。殀寿貳せず、身を修めて以て之を俟つ。決まっている部分に心を奪われず、手が届く部分を尽くす。それが立命です。

経営者として、自分の人生と会社を自分の意志で切り開いていく。心がけるべきは、運命でも宿命でもなく、立命のほうでしょう。

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