都鄙問答 / 卷之一・都鄙問答ノ段
答、替タル敎ニ非ズ、汝不審ノ所ヲ語ルベシ、我何方ヲ師家トモ定メズ、一年或ハ半季、聞巡トイヘドモ、我初心ト愚昧ノ病ヨリ、此ゾト心定ラズ、心ニ合ル所モナク、年月コレヲ歎シニ、或所ニ隱遁ノ學者アリ、此人ニ出會、物語ノ上、心ノ沙汰ニ及シ所、一言ノ上ニテ、先ニハ早速聞取テ、汝ハ心ヲ知リト思ラメド、未知、學ビシ所雲泥ノ違アリ、心ヲ知ラズシテ、聖人ノ書ヲ見ルナラバ、毫釐ノ差、千里ノ謬ト成ルベシト云ヘリ、然レドモ我云コト、先方ヘ聞ヘザルユヘニ、斯申サルヽト心得テ、幾度モ論議ニ及トイヘドモ、肯フ氣色見ヘズ、我益ガテンユカズ、或時彼人ノ云、汝何ノ爲ニ學問致シ候ヤ、答テ云、五倫五常ノ道ヲ以テ、我ヨリ以下ノ人ニ、
新字:答、替タル教ニ非ズ、汝不審ノ所ヲ語ルベシ、我何方ヲ師家トモ定メズ、一年或ハ半季、聞巡トイヘドモ、我初心ト愚昧ノ病ヨリ、此ゾト心定ラズ、心ニ合ル所モナク、年月コレヲ嘆シニ、或所ニ隠遁ノ学者アリ、此人ニ出会、物語ノ上、心ノ沙汰ニ及シ所、一言ノ上ニテ、先ニハ早速聞取テ、汝ハ心ヲ知リト思ラメド、未知、学ビシ所雲泥ノ違アリ、心ヲ知ラズシテ、聖人ノ書ヲ見ルナラバ、毫釐ノ差、千里ノ謬ト成ルベシト云ヘリ、然レドモ我云コト、先方ヘ聞ヘザルユヘニ、斯申サルヽト心得テ、幾度モ論議ニ及トイヘドモ、肯フ気色見ヘズ、我益ガテンユカズ、或時彼人ノ云、汝何ノ為ニ学問致シ候ヤ、答テ云、五倫五常ノ道ヲ以テ、我ヨリ以下ノ人ニ、
書き下し
答ふ、替はりたる教へに非ず。汝不審の所を語るべし。我何方を師家とも定めず、一年或いは半季、聞き巡るといへども、我が初心と愚昧の病より、此ぞと心定まらず、心に合へる所もなく、年月これを歎きしに、或る所に隠遁の学者あり。此の人に出会ひ、物語の上、心の沙汰に及びし所、一言の上にて、先には早速聞き取りて、汝は心を知りたりと思ふらめど、未だ知らず。学びし所雲泥の違ひあり。心を知らずして、聖人の書を見るならば、毫釐の差、千里の謬りと成るべしと云へり。然れども我が云ふこと、先方へ聞こえざるゆへに、斯く申さるると心得て、幾度も論議に及ぶといへども、肯ふ気色見えず。我益々合点ゆかず。或る時彼の人の云ふ、汝何の為に学問致し候や。答へて云ふ、五倫五常の道を以て、我より以下の人に、
現代語訳
梅岩は答えました。「変わった教えではありません。あなたの不審なところをお話ししましょう。私はどこの先生とも決めず、一年、半年と講釈を聞いて回りましたが、初心と愚かさのせいで、これだと心が定まらず、心にかなうところもなく、年月を嘆いていました。そのころ、ある所に隠遁している学者がいました。この人に出会って話をするうち、心のことに話が及ぶと、先方はひと言ですぐに聞き取って『あなたは心を知ったと思っているようだが、まだ知らない。学んだところは雲泥の違いだ。心を知らずに聖人の書を読むなら、ほんのわずかの差が千里の誤りになる』と言いました。けれども私は、自分の言うことが先方に伝わっていないからそう言われるのだと思い、何度も議論しましたが、先方はうなずく様子を見せません。私はますます納得がいきませんでした。ある時その人が『あなたは何のために学問をしているのか』と言うので、私は『五倫五常の道によって、自分より下の人々に、」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段答ふ、厚き志し過分の至りなり。先づ今日教へをなす志しを語らん。孟子曰く、人の道有るや、飽食煖衣、逸居して教へ無ければ、則ち禽獣に近し。聖人之を憂ふること有り、契をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り、と。此の五つの者を能くするを学問の功とす。これにて古人の学と云ふ者を知るべし。論語学而の篇にも、大抵皆本を務むることを多くせり。人倫の大原は天に出でて、仁義礼智の良心よりなす。孟子又曰く、学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ、と。此の心を知りて後に、聖人の行ひを見て法を取るべし。君の道を尽くし玉ふは堯にあり、孝の道を尽くし玉ふは舜にあり、臣の道を尽くし玉ふは周公にあり、学問の道を尽くし玉ふは大聖孔子なり。此れ皆孟子の所謂性のままにして、上下天地と流れを同じくす。
-
『都鄙問答』卷之一・都鄙問答ノ段多しと雖も亦奚を以て為さん、と。専対するは心なり。詩三百を誦するは文なり。和漢ともに小事を見て、大事を見る者少なし。陋しいかな文学に伐る。文芸も道の助けとなれば、舎つることにはあらず。愚、文学拙きを以て悔ゆといへども、民間に産まれ、家貧しくして学ぶべき暇なく、四十余の比より此の道に志す。如何して文学までに至るべき。只恥づべきは、何方へ一簡の饋るとも、文字に於いて誤ることぞ多かるべし。見る人これを用捨有らんことを願ふ。
-
『洗心洞箚記』卷下・第百條小程子曰く、学なる者は、人をして内に求めしむるなり。内に求めずして外に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか外と謂ふ、文を以て主と為す者、是れなり。学なる者は、人をして本に求めしむるなり。本に求めずして末に求むるは、聖人の学に非ざるなり。何をか末と謂ふ、詳略を考へ、同異を採る者、是れなり。是の二者は、皆身に益無し、君子は学ばず、と。程子の此等の説は、陽明先生の精一の学と異なること無し。学者宜しく心を平らかにして以て之を見るべきなり。
-
『洗心洞箚記』卷上・第百十三條程朱没してより陽明先生に至るまで、其の間の学者は詞章文句の中に沈溺して、未だ嘗て能く頭を出さず、誠に憫むべし。先生起るに及びて、学者始めて天日を見るを得たり。故に顧端文公曰く、程朱没して記誦辞章の習熾んなり、天下をして自心自性の当に反りて求むべき有るを知らしむる所以の者は王文成なり、と。誠なるかな此の言や。
-
『洗心洞箚記』卷下・第百三十二條陸子曰く、学者は須らく是れ田地を打畳して浄潔ならしめ、然る後に他をして奮発植立せしむべし。若し田地浄潔ならずんば、則ち奮発植立し得ず。古人の学を為すは即ち書を読む、然る後に学を為すこと見るべし。然れども田地浄潔ならずんば、亦書を読み得ず。若し書を読まば則ち是れ寇に兵を仮し、盗に糧を資するなり、と。又曰く、書を読むには固より文義を暁らざるべからず。然れども只だ文義を暁るを以て是と為さば、只だ是れ児童の学なり。須らく意旨の在る所を看るべし、と。
-
『洗心洞箚記』卷上・第十一條人の厄難を救ふ時、吾が霊淵の一波動くや否やを験す。一波纔かに動けば、則ち既に情慾焉に在り。天体に非ざるなり。天体に非ずんば、則ち救はざるの愈れりと為すに如かず。之を潤すに風雨を以てす。故に品物其の潤沢に資りて生長す。然れども人壁を撤し屋を去りて、露坐露寝せば、則ち必ず之が為に傷つけられて、病みて死せざる者鮮し。読書も亦然り。書は固より道に入るの具なり。然れども要を知らずして泛観博覧せば、則ち徳壊れて悪殖ゆ。吁、亦己を敗り世を乱す。慎まざるべけんや。