社員の顔色は見ているつもりでも、実際に見ているのは数字のほうだった——そう気づく瞬間があります。「民のかまど」は、千六百年前の為政者が、報告書ではなく町の煙を自分の目で数え、六年間の減収を引き受けたという話です。逸話としてはよく知られていますが、出典を確かめて読むと、印象がだいぶ変わります。原典にさかのぼって読み直してみましょう。

「民のかまど」とは — 三行のあらすじ

民のかまど」は、第十六代・仁徳天皇にまつわる逸話です。天皇が高台に登って国を見渡したところ、家々から炊事の煙が立っていない。民が貧しく、飯も炊けずにいると察して、三年間すべての課役(税と労役)を免除した。三年後に再び登ると、煙は国じゅうに満ちていた——という筋です。

要点は三つあります。煙という現場の兆候から民の困窮を読み取ったこと気づいたその年のうちに、収入をまるごと止めたこと。そしてその間、自分の宮殿の修繕を後回しにしたこと。この三つが揃っているところに、この話が千数百年読み継がれてきた理由があります。

「民の竈」「たみのかまど」——表記について

この逸話は、民のかまどたみのかまど民の竈と、三つの表記で書かれます。どれも同じものを指します。「竈」は「かまど」と読み、煮炊きをする炉のことです。当時の家には必ずあり、そこから煙が立っているかどうかが、その家に食べる物があるかどうかの、もっとも分かりやすい外からの目印でした。

現代語の文章では「民のかまど」と書かれることが多く、原典の漢文では「烟氣(えんき)」——つまり煙そのもので表現されています。この記事でも三つの表記を必要に応じて使い分けます。

『日本書紀』が伝える民のかまど

この逸話のもっとも詳しい原典は、『日本書紀』巻第十一・仁徳天皇紀です。物語は四年と七年の二回に分かれています。

四年、煙が立たない

仁徳天皇四年(伝承年代)の春二月、天皇は高台に登って遠くを望み、こう言います。

朕登高臺以遠望之、烟氣不起於域中、以爲、百姓既貧而家無炊者。

書き下し: 朕(われ)高臺(たかどの)に登りて以て之を遠望するに、烟氣(えんき)域中(くにのうち)に起たず。以爲(おも)へらく、百姓(おほみたから)既に貧しくして、家に炊(かし)ぐ者無しと。

現代語訳: 高台に登って遠くを見渡すと、国じゅうに煙が立っていない。民はすでに貧しく、家で飯を炊く者がいないのだろう。

ここで注目したいのは、天皇が報告を受けて知ったのではないという点です。自分で高いところに登り、自分の目で見て、そこから推論しています。「煙が立たない」という観察と、「だから炊く物がない」という判断は別のものです。逸話は、その二段構えをきちんと書き分けています。

三年間の課役免除と、雨漏りする宮殿

同じ年の三月、天皇は詔を出します。

自今以後至于三年、悉除課役、以息百姓之苦。

書き下し: 今より以後、三年に至るまで、悉(ことごと)く課役を除(ゆる)し、以て百姓の苦(くるしみ)を息(やす)めよ。

三年間、税も労役もすべて止める。国家財政の全面停止です。当然、宮殿の維持もできなくなります。『日本書紀』はその状態をこう書いています。

宮垣崩而不造、茅茨壞以不葺。風雨入隙而沾衣被、星辰漏壞而露床蓐。

書き下し: 宮垣(みかき)崩れて造らず、茅茨(ぼうし)壞れて葺かず。風雨隙(ひま)に入りて衣被(きぬ)を沾(うるほ)し、星辰(ほし)壞(やぶれ)より漏りて床蓐(しょうじょく)を露(あらは)す。

垣は崩れたまま、屋根の茅は破れたまま。すきま風と雨が着物を濡らし、屋根の穴から星が見え、寝床に露が降りる。これは「倹約に努めた」という程度の話ではありません。修繕という支出項目そのものを、優先順位の下に落としたという記述です。

七年、煙は満ちた

そして七年の夏四月。天皇は再び高台に登ります。

烟氣多起。是日、語皇后曰「朕既富矣、更無愁焉。」

書き下し: 烟氣多く起つ。是の日、皇后に語りて曰く、「朕(われ)既に富めり。更に愁ふること無し」と。

煙が盛んに立っている。天皇は皇后に「私はもう富んだ。憂いはない」と言います。皇后が、宮殿は破れ、衣も裂けているのになぜ富んだと言うのかと問うと、天皇は「烟氣國に滿つ。百姓自づから富めるか」——煙が国に満ちている、民が自ずから富んだのだ、と答えます。

民が富んだことを、自分が富んだと言う。この言い換えが、逸話の核心です。そして同じ年の九月、天皇はさらに三年、免除を延長しました。合計六年です。

『古事記』が伝える「聖帝の世」

同じ話は『古事記』下巻の仁徳天皇の段にもあります。こちらはずっと短く、要点だけです。

於是天皇、登高山見四方之國、詔之、於國中烟不發。國皆貧窮。故、自今至三年、悉除人民之課役。

書き下し: 是に天皇、高山に登りて四方(よも)の國を見て詔(の)りたまひしく、「國の中に烟(けぶり)發(た)たず。國皆貧窮(まづ)し。故(かれ)、今より三年に至るまで、悉(ことごと)く人民(おほみたから)の課役(えつき)を除(ゆる)せ」とのりたまひき。

そして三年後、煙が国に満ちたのを見て課役を再開し、民は栄えた。『古事記』はこの治世を「聖帝(ひじりのみかど)の世」と呼びます。仁徳天皇が「聖帝」と称されるのは、この一段によります。

『日本書紀』と『古事記』で細部は異なりますが、高いところから煙を見た/三年の課役免除/煙が満ちたという骨格は共通しています。八世紀初頭に成った二つの書が、それぞれ独立にこの形で伝えているという事実が、この逸話の古さを示しています。

「高き屋にのぼりて見れば」の歌はどこから来たか

この逸話には、必ずと言っていいほど一首の和歌が添えられます。

高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり

「たかきやに のぼりてみれば けぶりたつ たみのかまどは にぎはひにけり」。逸話の情景をそのまま歌にしたような一首で、仁徳天皇の御製として広く知られています。ただし、出典を確かめると、少し慎重に書く必要があります

記紀に、この歌はない

まず押さえておきたいのは、この歌は『日本書紀』にも『古事記』にも載っていないということです。記紀の仁徳天皇紀・仁徳天皇段には、右に引いた散文の記述はあっても、この和歌そのものは現れません。

『新古今和歌集』巻第七・賀歌

この歌が確認できるのは、鎌倉時代初期に編まれた勅撰集『新古今和歌集』です。巻第七「賀歌」の七〇七番に、詞書「貢物ゆるされて國富めるを御覧じて」、作者名「仁徳天皇御歌」として収められています。

つまりこの歌は、逸話の成立からおよそ五百年後の勅撰集に、仁徳天皇の作という伝えとともに載ったものです。記紀に見えない以上、仁徳天皇本人の作と断定することはできません。後世に仁徳天皇御製として伝えられた歌、というのが原典から言える限界です。この記事でもそう書いておきます。逸話の主題が「事実を見る」ことである以上、逸話の出典についても事実を見ておきたいからです。

『神皇正統記』が引いた

日本側でこの歌と逸話をセットにして語った古い例として、南北朝期の北畠親房『神皇正統記』があります。親房は幼い後村上天皇のために書いたこの史論のなかで、仁徳天皇の段をこう記しました。

民間の貧きことをおぼして、三年の御調を止められき。高殿にのぼりてみ給へば、にぎはゝしくみえけるによりて、/高屋にのぼりてみれば煙立民のかまどはにぎはひにけり/とぞよませ給ける。さて猶三年を許されければ、宮の中破て雨露もたまらず。宮人の衣壊て其よそほひ全からず。御門は是をたのしみとなむおぼしける。

三年の免除、歌、さらに三年の延長、破れた宮殿、そして六年めに民が自分から集まって宮を造ったという結びまで、『日本書紀』の筋をきちんとたどっています。親房はこれを「ありがたかりし御政なるべし」と評しました。

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親房は同じ書の別の箇所で、逆側からも書いています。

民の賦斂をあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。

民からの取り立てを重くして自分の思いどおりにするのは、乱世乱国のもとである、と。「民のかまど」を称賛する言葉と、この一文は表裏です。

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六年間、収入を止められるか

逸話をきれいな美談として読むと、いちばん重いところを読み落とします。六年間、歳入がゼロだったという部分です。

三年でも長い。それを、煙が戻ったのを確認したうえで、さらに三年延ばしている。しかもその間、自分の住まいの屋根も直していません。ここには、はっきりした順序があります。支出を削る対象として、まず自分を置いたという順序です。

似た問答が、唐の太宗と魏徴のあいだにもあります。『貞観政要』倹約篇。

宮宇を崇飾し、池台に遊賞するは、帝王の欲する所、百姓の欲せざる所なり。帝王の欲する所の者は放逸、百姓の欲せざる所の者は労弊なり。

宮殿を飾り立て、庭園で遊ぶのは、上に立つ者が欲しがり、民が望まないことだ。太宗はこれに孔子の「己の欲せざる所、人に施す勿かれ」を重ねて、自ら節すると言います。魏徴はさらに踏み込んで、「上の好む所は、下必ず甚だしき有り」——上が好めば下ではもっと極端になる、と釘を刺しました。

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仁徳天皇の宮殿と太宗の宮殿は、同じことを別の角度から言っています。上に立つ者の支出は、それ自体がメッセージとして下に伝わるということです。

「民が富めば、君が富む」——逸話を支える思想

「朕既に富めり」という言い換えは、思いつきではありません。東アジアの古典には、同じ構造の言葉が繰り返し現れます。

民が足りていれば、君は足りる

『論語』顔淵篇。魯の哀公が「凶作で国庫が足りない、どうすればよいか」と有若に尋ねると、有若は「税率を十分の一に戻してはいかがですか」と答えます。哀公が「十分の二でも足りないのに」と言うと、有若はこう返しました。

百姓足らば、君孰(たれ)と与(とも)にか足らざらん。百姓足らずんば、君孰と与にか足らん。

民が足りていれば、君主が誰とともに不足するというのか。民が足りていなければ、君主は誰とともに足りるというのか。財政難のときこそ税を下げよという、逆説的な答えです。仁徳天皇の判断と、そっくり同じ形をしています。

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王の国は民を富ませ、亡びる国は倉を富ませる

『説苑』政理篇には、文王と太公望(呂望)の問答が残っています。

王國は民を富ませ、霸國は士を富ませ、僅かに存する國は大夫を富ませ、道亡き國は倉府を富ませる。是を上溢れて下漏ると謂う。

王者の国は民を富ませ、覇者の国は役人を富ませ、かろうじて保っている国は高官を富ませ、道を失った国は国庫だけを富ませる。これを「上が溢れて下が漏れている」という——組織の財がどこに溜まっているかで、その組織の段階が分かる、という診断です。しかもこの問答には後日談があり、文王は「よい話だ」と言ったその日のうちに倉を開いて配りました。太公望が「善いと分かっていながら先延ばしにするのは不吉です」と言い添えたからです。

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同じ『説苑』には、孔子が魯の哀公に「賦斂を薄くすれば則ち民富み」と説き、哀公が「それでは私が貧しくなる」と返した場面もあります。孔子の答えは、「子が富んでいて父母が貧しいという例を、私は見たことがありません」でした。

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まず富ませ、そのうえで治める

より即物的なのが『管子』治国篇です。

凡そ國を治むるの道は、必ず先ず民を富ます。民富めば則ち治め易きなり。民貧しければ則ち治め難きなり。

民が富めば、住む土地に落ち着き、家を大事にし、上を敬い、罪を畏れる。だから治めやすい。民が貧しければその逆で、土地を捨て家を軽んじ、上をしのいで禁を犯す。道徳ではなく統治コストの話として、富ませることを先に置いているところが管子らしい筆致です。

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為政者の心得として、どう受け継がれたか

「民のかまど」は、日本の為政者の心得の系譜のなかに置くと、より輪郭がはっきりします。

十七条憲法』第十二条は、地方官による勝手な徴税を正面から禁じました。

国司国造、百姓に斂(おさ)めとること勿かれ。国に二君無く、民に両主無し。

続く第十六条は、民を使う「時期」を定めます。

民を導くには時を以てするは、古の良典なり。……春より秋に至るまでは、農桑の節なり、民を使うべからず。それ農らずば何をか食わん。桑とらずば何をか服ん。

農繁期に民を動員するな。働かせなければ食えなくなるのは民のほうだ、と。仁徳天皇の課役免除と、発想は地続きです。

▶ 第十二条の全文と解説を読む ▶ 第十六条の全文と解説を読む

さらに遡れば、中国最古の史書『尚書』五子之歌に、この系譜の原型と言える一句があります。

民は近づく可し、下す可からず。民は惟れ邦の本、本固ければ邦寧し。

民は根本であり、根本が固まってこそ国は安らかである。民本という言葉のもとになった一句です。

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経営者にとっての「かまどの煙」

ここまでを踏まえて、現代の組織に置き換えてみます。

煙は、報告書には載らない

仁徳天皇が見たのは、税収の推移でも、地方からの奏上でもありません。煙という、誰も報告しない兆候でした。会社でいえば、離職率や残業時間の集計ではなく、朝の挨拶の声量、雑談が起きるかどうか、誰かが辞めるときの他の社員の反応にあたります。数字になる前の兆候は、たいてい高いところに登らないと見えず、しかも登れば誰にでも見えます。

一つだけ注意したいのは、天皇は煙を見た「だけ」ではないことです。煙が立たないという観察から、飯を炊く物がないという状態を推論し、課役という原因に手を打っています。観察・解釈・処置がひと続きになっている。ここを分けずに真似ると、ただ現場を見て回るだけの巡回になります。

「もう富んだ」と言えるか

破れた屋根の下で「朕既に富めり」と言えるかどうかは、その人が何を自分の資産と数えているかの問題です。自社の内部留保だけを富と数えるなら、社員の待遇改善は減算です。社員と取引先の状態まで含めて富と数えるなら、同じ支出が加算になります。

これは精神論ではありません。『説苑』が「上溢れて下漏る」と診断したのは、財の総量ではなくどこに溜まっているかでした。同じ利益額でも、溜まる場所が違えば組織の段階が違う。決算書からは見えにくく、しかし社員には見えている差です。

六年は待てないが、一期なら待てる

現代の経営で六年間の無収入は成り立ちません。ただし、逸話の骨は期間の長さではなく、回復の兆候を自分の目で確認するまで、引いた手を戻さなかったことにあります。処遇を改善し、負荷を下げ、三か月で効果を測って元に戻すなら、それは施策ではなく揺り戻しです。仁徳天皇は三年待ち、煙を確認し、それでもなお三年延ばしました。

結び——高いところに登る仕事

「民のかまど」「たみのかまど」「民の竈」——どの表記で書かれていても、話の中身は変わりません。上に立つ者が、自分で高いところに登り、報告されない兆候を見て、自分の取り分から先に削る。それだけの話です。

千六百年前の逸話が、『新古今和歌集』の一首になり、北畠親房の史論に引かれ、いまも語られているのは、この「それだけ」がいつの時代も難しいからでしょう。高いところに登る時間は、たいてい予定表の最初に削られます。自分の取り分は、たいてい最後に削られます。仁徳天皇の逸話は、その順序を逆にした記録として読むことができます。

歌の作者が本当に仁徳天皇だったかは、原典からは分かりません。分からないと書いておきます。それでも、煙を数えた為政者がいたという記述は、記紀という日本最古の二つの書に、どちらにも残っています。

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