徒然草 / 第238段
御隨身近友が自讚とて、七箇條かきとゞめたる事あり。みな馬藝させることなき事どもなり。その例をおもひて、自讚のこと七つあり。 一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の邊にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて落つべし、しばし見給へ。」とて立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乘れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。 一、當代いまだ坊におはしまししころ、萬里小路殿御所なりしに、堀河大納言殿伺候し給ひし御曹司へ、用ありて參りたりしに、論語の四五六の卷をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱うばふ事を惡むといふ文を、御覽ぜられたき事ありて、御本を御覽ずれども、御覽じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて、求むるなり。」と仰せらるゝに、「九の卷のそこそこの程に侍る。」と申したりしかば、「あなうれし。」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、兒どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讚したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなむや。」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、 秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむ と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌を覺悟す、道の冥加なり、高運なり。」など、ことごとしく記しおかれ侍るなり。九條相國伊通公の款状にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讚せられたり。 一、常在光院の撞鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鑄型にうつさせむとせしに、奉行の入道かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば聲百里に聞ゆ。」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか。」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり。」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。數行となほさるべし。」と返り事はべりき。「數行。」もいかなるべきにか、もし「數歩」の意か、おぼつかなし。 一、人あまた伴ひて、三塔巡禮の事侍りしに、横川の常行堂の中、龍華院と書けるふるき額あり。「佐理・行成の間うたがひありて、いまだ決せずと申し傳へたり。」と堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず。」といひたりしに、裏は塵つもり、蟲の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おのおの見侍りしに、行成位署名字年號さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。 一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ。」といひしを、所化みな覺えざりしに、局のうちより、「これこれにや。」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。 一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「おなじさまなる大衆多くて、えもとめあはず。」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それもとめておはせよ。」といはれしに、かへり入りて、やがて具していでぬ。 一、二月十五日、月あかき夜、うち更けて千本の寺にまうでて、後より入りて、一人顔深くかくして聽聞し侍りしに、優なる女の、すがた匂ひ人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あしと思ひてすり退きたるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと言はれし序に、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなむありし。情なしと恨み奉る人なむある。」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね。」と申して止みぬ。この事後に聞き侍りしは、かの聽聞の夜、御局のうちより、人の御覽じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てて、出し給ひて、「便よくばことばなどかけむものぞ。そのありさま參りて申せ、興あらむ。」とてはかり給ひけるとぞ。
新字:御随身近友が自讃とて、七箇条かきとゞめたる事あり。みな馬芸させることなき事どもなり。その例をおもひて、自讃のこと七つあり。 一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて落つべし、しばし見給へ。」とて立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乗れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。 一、当代いまだ坊におはしまししころ、万里小路殿御所なりしに、堀河大納言殿伺候し給ひし御曹司へ、用ありて参りたりしに、論語の四五六の巻をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱うばふ事を悪むといふ文を、御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて、求むるなり。」と仰せらるゝに、「九の巻のそこそこの程に侍る。」と申したりしかば、「あなうれし。」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、児どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讃したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなむや。」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、 秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむ と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌を覚悟す、道の冥加なり、高運なり。」など、ことごとしく記しおかれ侍るなり。九条相国伊通公の款状にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讃せられたり。 一、常在光院の撞鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鋳型にうつさせむとせしに、奉行の入道かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば声百里に聞ゆ。」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか。」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり。」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。数行となほさるべし。」と返り事はべりき。「数行。」もいかなるべきにか、もし「数歩」の意か、おぼつかなし。 一、人あまた伴ひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行堂の中、竜華院と書けるふるき額あり。「佐理・行成の間うたがひありて、いまだ決せずと申し伝へたり。」と堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず。」といひたりしに、裏は塵つもり、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おのおの見侍りしに、行成位署名字年号さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。 一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ。」といひしを、所化みな覚えざりしに、局のうちより、「これこれにや。」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。 一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「おなじさまなる大衆多くて、えもとめあはず。」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それもとめておはせよ。」といはれしに、かへり入りて、やがて具していでぬ。 一、二月十五日、月あかき夜、うち更けて千本の寺にまうでて、後より入りて、一人顔深くかくして聴聞し侍りしに、優なる女の、すがた匂ひ人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あしと思ひてすり退きたるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと言はれし序に、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなむありし。情なしと恨み奉る人なむある。」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね。」と申して止みぬ。この事後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局のうちより、人の御覧じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てて、出し給ひて、「便よくばことばなどかけむものぞ。そのありさま参りて申せ、興あらむ。」とてはかり給ひけるとぞ。
書き下し
御随身近友が自讃とて、七箇条かきとゞめたる事あり。みな馬芸させることなき事どもなり。その例をおもひて、自讃のこと七つあり。 一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて落つべし、しばし見給へ。」とて立ちどまりたるに、また馬を馳す。とゞむる所にて、馬を引きたふして、乗れる人泥土の中にころび入る。その詞のあやまらざることを、人みな感ず。 一、当代いまだ坊におはしまししころ、万里小路殿御所なりしに、堀河大納言殿伺候し給ひし御曹司へ、用ありて参りたりしに、論語の四五六の巻をくりひろげ給ひて、「たゞ今御所にて、紫の朱うばふ事を悪むといふ文を、御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。なほよくひき見よと仰せ事にて、求むるなり。」と仰せらるゝに、「九の巻のそこそこの程に侍る。」と申したりしかば、「あなうれし。」とて、もてまゐらせ給ひき。かほどの事は、児どもも常のことなれど、昔の人は、いさゝかの事をもいみじく自讃したるなり。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂と一首の中にあしかりなむや。」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、 秋の野の草のたもとか花すゝきほに出でて招く袖と見ゆらむ と侍れば、何事かさふらふべきと申されたることも、「時にあたりて本歌を覚悟す、道の冥加なり、高運なり。」など、ことごとしく記しおかれ侍るなり。九条相国伊通公の款状にも、ことなる事なき題目をも書きのせて、自讃せられたり。 一、常在光院の撞鐘の銘は、在兼卿の草なり。行房朝臣清書して、鋳型にうつさせむとせしに、奉行の入道かの草をとり出でて見せ侍りしに、「花の外に夕をおくれば声百里に聞ゆ。」といふ句あり。「陽唐の韻と見ゆるに、百里あやまりか。」と申したりしを、「よくぞ見せ奉りける。おのれが高名なり。」とて、筆者の許へいひやりたるに、「あやまり侍りけり。数行となほさるべし。」と返り事はべりき。「数行。」もいかなるべきにか、もし「数歩」の意か、おぼつかなし。 一、人あまた伴ひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行堂の中、竜華院と書けるふるき額あり。「佐理・行成の間うたがひありて、いまだ決せずと申し伝へたり。」と堂僧ことごとしく申し侍りしを、「行成ならば裏書あるべし。佐理ならば裏書あるべからず。」といひたりしに、裏は塵つもり、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、おのおの見侍りしに、行成位署名字年号さだかに見え侍りしかば、人みな興に入る。 一、那蘭陀寺にて、道眼ひじり談義せしに、八災といふ事を忘れて、「誰かおぼえ給ふ。」といひしを、所化みな覚えざりしに、局のうちより、「これこれにや。」といひ出したれば、いみじく感じ侍りき。 一、賢助僧正に伴ひて、加持香水を見はべりしに、いまだ果てぬほどに、僧正かへりて侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもをかへして求めさするに、「おなじさまなる大衆多くて、えもとめあはず。」といひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それもとめておはせよ。」といはれしに、かへり入りて、やがて具していでぬ。 一、二月十五日、月あかき夜、うち更けて千本の寺にまうでて、後より入りて、一人顔深くかくして聴聞し侍りしに、優なる女の、すがた匂ひ人よりことなるが、わけ入りて膝にゐかかれば、にほひなどもうつるばかりなれば、敏あしと思ひてすり退きたるに、なほ居寄りて、おなじさまなれば立ちぬ。その後、ある御所ざまのふるき女房の、そゞろごと言はれし序に、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉ることなむありし。情なしと恨み奉る人なむある。」と宣ひ出したるに、「更にこそ心得はべらね。」と申して止みぬ。この事後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局のうちより、人の御覧じ知りて、さぶらふ女房をつくり立てて、出し給ひて、「便よくばことばなどかけむものぞ。そのありさま参りて申せ、興あらむ。」とてはかり給ひけるとぞ。
現代語訳
御随身近友が自賛として、七箇条書き留めたことがある。皆たいしたことのないことばかりである。その例にならって、自賛のことが七つある。 一、大勢連れて花見に出歩いていた時、最勝光院の辺りで、男が馬を走らせるのを見て、「もう一度馬を馳せたら、馬は倒れて落ちるだろう、しばらく見ていなさい」と言って立ち止まっていたところ、また馬を馳せた。止まる所で馬を引き倒し、乗っていた人が泥の中に転げ込んだ。その言葉が誤っていなかったことに、皆が感心した。 一、今上天皇がまだ東宮でいらっしゃった頃、万里小路殿の御所であった折、堀河大納言殿が伺候なさっていた御部屋へ、用があって参上したところ、論語の四五六の巻を繰り広げなさって、「ただ今御所で『紫の朱を奪うことを憎む』という文章をご覧になりたいことがあって、御本をご覧になるが見つけられない。なおよく探せとの仰せで、探しているのだ」とおっしゃるので、「九の巻のそのあたりにございます」と申し上げたところ、「ああ嬉しい」と言って、持って参上なさった。これくらいのことは子供でも普通のことだが、昔の人は些細なことでも大変自賛したものだ。後鳥羽院の御歌に、「袖と袂とを一首の中に使ってはよくないだろうか」と定家卿にお尋ねになったところ、「秋の野の草のたもとか花すすきほに出でて招く袖と見ゆらむ」とありますので、何の差し支えがございましょうかと申し上げたことも、「時にあたって本歌を思い出す、歌道の冥加である、高運である」などと仰々しく記し置かれている。九条相国伊通公の款状にも、特にどうということもない事柄まで書き載せて、自賛なさっている。 一、常在光院の撞鐘の銘は、在兼卿の草稿である。行房朝臣が清書して鋳型に写させようとしたところ、奉行の入道がその草稿を取り出して見せたので、「花の外に夕を送れば声百里に聞こゆ」という句がある。「陽唐の韻と見えるのに、百里は誤りではないか」と申したところ、「よくぞ見せてくださった。あなたの手柄だ」と言って、筆者の所へ言ってやったところ、「誤りでございました。数行と直されるべきです」と返事があった。「数行」もどうであるべきか、もしや「数歩」の意味か、はっきりしない。 一、大勢を伴って三塔巡礼をした折、横川の常行堂の中に、龍華院と書いた古い額がある。「佐理・行成のどちらか疑いがあって、まだ決まっていないと言い伝えている」と堂僧が仰々しく申したのを、「行成なら裏書があるはずだ。佐理なら裏書はないはずだ」と言ったところ、裏は塵が積もり虫の巣で薄気味悪かったのを、よく掃き拭って皆で見たところ、行成の位署名字年号がはっきり見えたので、皆興に入った。 一、那蘭陀寺で道眼上人が談義した時、八災ということを忘れて、「誰か覚えていますか」と言ったが、弟子たちは皆覚えていなかったところ、局の中から「これこれではないですか」と言い出したので、大変感心された。 一、賢助僧正に伴って加持香水を見た時、まだ終わらないうちに僧正が帰ってしまったので、陣の外まで僧都の姿が見えない。法師たちを帰らせて捜させたところ、「同じような大勢の人がいて、見つけられません」と言って、大変長くかかって出てきたので、「ああ困ったことだ。それを捜していらっしゃい」と言われたところ、また入って行き、すぐに連れて出てきた。 一、二月十五日、月の明るい夜、夜更けに千本の寺に参詣し、後ろから入って一人顔を深く隠して聴聞していたところ、優美な女性で姿と匂いが人と違う者が、分け入って膝に寄りかかってきたので、匂いなどが移るほどだったのでまずいと思ってすり退いたが、なお寄り添ってきて同じ様子だったので立ち去った。その後、ある御所方の古株の女房が、雑談のついでに、「まったく色気のない人でいらっしゃったと、見下し申し上げたことがありました。情けないと恨み申し上げる人がいます」とおっしゃったので、「まったく心当たりがございません」と申して終わった。この事を後で聞いたところ、あの聴聞の夜、御局の中から人がご覧になって、お仕えする女房を装わせて出しなさり、「都合が良ければ言葉などかけよう、その様子を参って申せ、面白かろう」と企てなさったのだそうだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『玉勝間』六の巻 鳥羽殿にて逐日看花歌を講ぜらるる事同じ記に云う、嘉保三年三月一日、午の時ばかり、鳥羽殿に参る、云云。秉燭の後、御遊有り、云云。この間人々、且つ和歌を進む(題者は江中納言、申の時以後出さるるなり、逐日看花)。常に祗候する殿上人十余人、ただ別に召さるる者は、皇大后宮権大夫と下官とばかりなりと聞く。時に庭の桜紛々、岸の柳依々、歌笛の声、誠に幽興に入る。御遊の後、下官を召して講師と為す。序者は院の蔵人縫殿助藤実光(秀才)。春日鳥羽院に侍りて、逐日看花の応製和歌一首を詠む、臣上の字は皆共にするなり。但し他人はただ和歌ばかりを詠み、臣上の字を書かず。中宮大夫読師と為る。漸く和歌を講ずるの処、中宮大夫の歌と、顕季朝臣の歌と、一字も誤らず相合う。また女房の歌三首、色の薄様に書く。講じ了りて、座を立たんと欲する処、勅有りて仰せられて云う、近日毎日、この和歌の興有り、御製の講師、他人を用いるべからず、汝同じく勤仕すべし、と。則ち仰せを奉り、また座に復す。御製を披見し、講ずるの処、已に愚歌に合う。天気咲わしめ御し、満座の人奇と為す。一つには面目なり、愚慮を以て高情に及ぶ。一つには恐畏なり、拙詞を以て御製に叶う。進退これ谷まり、身心度を失う。已に深更に及びて事了る。人々退出す。治部卿と同車して帰洛す(下官の歌に云う、ふくかぜにちりくるはなもみるひとのひかずもともにつもるはるかな。御製に叶うに依りて、書き留めらるるなり)。御製に云う(さきしよりちるまでみればこのもとにはなもひかずもつもるなりけり)。
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徒然草・第137段花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。歌の詞書にも、「花見に罷りけるにはやく散り過ぎにければ。」とも、「さはることありて罷らで。」なども書けるは、「花を見て。」といへるに劣れる事かは。花の散り月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊に頑なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし。」などはいふめる。万の事も始め終りこそをかしけれ。男女の情も、偏に逢ひ見るをばいふものかは。逢はでやみにし憂さをおもひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔を忍ぶこそ、色好むとはいはめ。望月の隈なきを、千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて待ちいでたるが、いと心ふかう、青みたる様にて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲がくれのほど、またなくあはれなり。椎柴白樫などの濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都こひしう覚ゆれ。すべて月花をばさのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いと頼もしうをかしけれ。よき人は、偏にすける様にも見えず、興ずる様もなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢより立ちより、あからめもせずまもりて、酒飮み、連歌して、はては大きなる枝心なく折り取りぬ。泉には手足さしひたして、雪にはおりたちて跡つけなど、万の物、よそながら見る事なし。さやうの人の祭見しさま、いとめづらかなりき。「見ごといとおそし。そのほどは棧敷不用なり。」とて、奥なる屋にて、酒飮みもの食ひ、囲棊双六など遊びて、棧敷には人をおきたれば、「わたり候。」といふときに、おのおの肝つぶるやうに争ひ走りあがりて、落ちぬべきまで、簾張りいでて、押しあひつゝ、一事も見洩らさじとまもりて、とありかゝりと物事にいひて、渡り過ぎぬれば、「又渡らむまで。」といひて降りぬ。唯物をのみ見むとするなるべし。都の人のゆゝしげなるは、眠りていとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後にさぶらふは、さまあしくも及びかゝらず、わりなく見むとする人もなし。何となく葵かけ渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、其か彼かなどおもひよすれば、牛飼下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行きかふ、見るもつれづれならず。暮るゝ程には、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらむ、程なく稀になりて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾畳も取り払ひ、目の前に寂しげになり行くこそ、世のためしも思ひ知られて哀れなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ、かの棧敷の前をこゝら行きかふ人の、見知れるが数多あるにて知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなむ後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、程なく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き孔をあけたらむに、滴る事少しと云ふとも、怠る間なく漏りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人二人のみならむや。鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数おほかる日はあれど、送らぬ日はなし。されば柩を鬻ぐもの、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思ひかけぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかに思ひなむや。まゝ子立といふものを、双六の石にてつくりて、立て並べたる程は、取られむ事いづれの石とも知らねども、数へ当ててひとつを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまたかぞふれば、かれこれ間抜き行くほどに、いづれも、遁れざるに似たり。兵の軍にいづるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ身をも忘る。世をそむける草の庵には、しづかに水石をもてあそびて、これを他所に聞くと思へるは、いとはかなし。しづかなる山の奥、無常の敵きほひ来らざらむや。その死に臨めること、軍の陣に進めるにおなじ。
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徒然草・第134段高倉院の法華堂の三昧僧何某の律師とかやいふ者、ある時鏡を取りて顔をつくづくと見て、我が貌の醜くあさましき事を、余りに心憂く覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後長く鏡を恐れて、手にだに取らず、更に人に交はる事なし。御堂の勤め許りにあひて、籠り居たりと聞き伝へしこそ、あり難く覚えしか。かしこげなる人も人の上をのみ計りて、己をば知らざるなり。我を知らずして外を知るといふ理あるべからず。されば、己を知るを、物知れる人といふべし。貌醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず、身の上の非をも知らねば、まして外の譏りを知らず。たゞし貌は鏡に見ゆ、年は数へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべき方のなければ、知らぬに似たりとぞいはまし。貌を改め齢を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞやがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ閑に身をやすくせざる。行ひ愚かなりと知らば、何ぞこれを思ふ事これにあらざる。すべて人に愛楽せられずして衆に交はるは恥なり。貌みにくく心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪の芸をもちて堪能の座に連なり、雪の頭を戴きて壮りなる人にならび、況んや及ばざることを望み、叶はぬことを憂へ、来らざる事を待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥しむるなり。貪ることのやまざるは、命を終ふる大事今こゝに来れりと、たしかに知らざればなり。
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『玉勝間』四の巻 兼好法師が詞のあげつらひけんこう法師がつれづれ草に、花は盛りに、月はくまなきをのみ見る物かはとか云えるは、いかにぞや。古えの歌どもに、花はさかりなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには、風をかこち、月の夜は、雲をいとい、あるは待ち惜しむ心づくしを詠めるぞ多くて、心深きも、ことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのどかに見まほしく、月はくまなからむ事を思う心のせちなるからこそ、さもえあらぬを歎きたるなれ、いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲をねがいたるは有らん。さるをかの法師が云えるごとくなるは、人の心にさかいたる、後の世のさかしら心の、つくり風流にして、まことのみやび心には有らず。かの法師が云える言ども、このたぐい多し。皆同じ事なり。すべてなべての人のねがう心にたがえるを、雅とするは、つくり事ぞ多かりける。恋に、あえるをよろこぶ歌は、心深からで、あわぬをなげく歌のみ多くして、心深きも逢い見む事をねがうからなり。
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『玉勝間』五の巻 鳥羽殿八月十五夜月見御歌御遊女院の御方(東面)に於て和歌を講ぜらる。題に云う、池上の月を翫ぶ、序題題、予講師を勤め、左大臣読師たり。大納言の歌を講じ了りて後、しばらくして頗る遅々たり、これ左大臣と関白殿との歌の次第の事なり。大殿の命に依りて、先ず関白殿の歌を講じ、次に左大臣、次に大殿。この間女房簾中より、三首の歌を出ださる、薄様三重に書き、扇の上に置かる(扇は銀の骨、画図殊に例なり)、同じくこれを講ず、皆以て秀歌なり。人々感歎す。ここに簾中より、御製を関白に給う、関白大殿に伝え献ず、便宜なり。大殿気色せしめ、講師座を起ちて、臣下の歌に擬す。新中納言通俊卿を召して、御製を講ぜらる、誠に以て優妙なり、感歎に堪えず、満座諷詠し、暁更に及びて各分散す。予今日殿上人の布衣の中に直衣を著く、これ弁官の人一人臣として直衣冠を著けらるる時、便無かるべきの故なり。加之、講師の役を勤むる間、数刻御前に候う、尤も善しと為すのみ、愚意の案、已に礼法に叶う。両殿下(烏帽子直衣)、左大臣公卿(冠直衣)、但しこの中藤中納言(基)・左宰相中将(伊実)・右兵衛督(雅俊)・新宰相中将(宗通)は布衣なり。皇太后宮権大夫(公定)は衣冠、上皇は御烏帽子直衣、と見えたり。これは堀河の天皇の御世にて、鳥羽殿におわしまししは、白川の上皇におわします。大殿と有るは、京極の前の関白師実公、左大臣は、源の俊房公、関白は、京極殿の御子後二条の師通公なり。この時内大臣にて、関白ながら、左大臣の次に立ち給えりき。
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『玉勝間』七の巻 ある人の言桜の花ざかりに、歌詠む友だち、これかれかい連ねて、そこかしこと、見ありきける、帰るさに、見し花どもの事、語りつつ来るに、ひとりが云うよう、まろは、歌詠まむと、思いめぐらしける程に、きょうの花は、いかに有りけむ、こまやかにも見ずなりぬと云えるは、おこがましきようなれど、まことは誰れも然も有る事と、おかしくぞ聞きし。

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