「易姓革命」という言葉は、世界史や倫理の教科書で一度は目にします。王朝の姓(易)が易わり、天の命(命)が革まる。徳を失った君主から天命が離れ、徳のある者に移る。中国の王朝交代を説明する考え方として知られています。

けれども、この言葉を「昔の中国の政治理論」として片づけるには惜しいところがあります。問われているのは、地位にある者は、何によってその地位にいられるのかという問いだからです。血筋か、肩書きか、実力か、それとも下からの支持か。これは王朝だけでなく、会社の経営者にも、組織の管理職にも、そのまま向けられる問いです。

しかも古典は、易姓革命を一方的に称えてはいません。天命は移ると説く書があり、それを正面から批判する人物がいて、正当性をめぐって朝廷で激論が交わされ、日本では易姓そのものを拒む思想が生まれました。

この記事では、尚書・易経・孟子・史記・長短経・神皇正統記から八つの章句を選び、易姓革命という考え方の骨組みと、それに対する異論を順にたどります。

天は、特定の家を贔屓しない

皇天は親しむ無く、惟れ德を是れ輔く。民心は常無く、惟れ惠を之れ懷く。

易姓革命の出発点は、この一句にあります。天には身内がいない。ただ徳のある者を助ける。民の心は一定ではない。恵みを施す者に寄っていく。

周の人々は、自分たちが殷を倒したことを、この考え方で説明しました。殷の王家は天に選ばれていた。けれども徳を失ったので、天は殷を見放し、周に命を移した。天命は一度与えられたら永久に続くものではなく、徳によって更新され続けなければ失われるものだ、というわけです。

これは権力を持つ側にとって、都合のよい理屈であると同時に、恐ろしい理屈でもあります。前の王朝を倒した根拠が「徳を失ったから」であるなら、自分たちも徳を失えば同じように倒されてよいことになるからです。天命の論理は、勝者の正当化であると同時に、勝者自身への警告として働きます。

組織に置き換えれば、創業家であること、前任者に指名されたこと、過去に成果を上げたこと。どれも地位を保証し続けるものではありません。信頼は、日々の振る舞いによって更新され続けるものです。

なお、この篇は後の時代に編まれたとする説が有力な古文尚書に属します。ただ、「天は徳ある者を輔く」という考え方そのものは、周の初めの文献から一貫して見られます。

出典:尚書 蔡仲之命

天の目は、民の目である

天の視るは我が民の視るに自り、天の聴くは我が民の聴くに自る。

では、天が誰に徳があると判断しているのか。それはどうやってわかるのか。この問いに答えるのが、この一句です。天が見るのは民が見ることを通してであり、天が聴くのは民が聴くことを通してである。

孟子は弟子の萬章に、堯が舜に天下を譲った経緯を説明するとき、この言葉を引きました。天はものを言わない。だから天の意思は、人々がその人物を受け入れるかどうか、その人物のもとで事がうまく治まるかどうかという形で現れる、というのです。

ここで天命という神秘的な概念が、きわめて現実的なものに置き換わります。天命とは、要するに民の支持である。天を持ち出すことで、支持を失った君主に対して「あなたにはもう天命がない」と言える根拠ができるのです。

経営者にとっての「民」は、顧客であり、従業員であり、取引先です。自分の判断が正しいかどうかを、自分の頭の中だけで確かめることはできません。周りの人が実際に何を見て、何を感じているか。それが、経営者にとっての天の声です。

出典:尚書 泰誓中

「革命」という言葉の出どころ

天地革まりて四時成り、湯武命を革むるは、天に順いて人に応ずるなり。革の時、大なるかな。

「革命」という言葉は、易経の革の卦を解いた彖伝に出てきます。天地が改まって四季が巡る。殷の湯王、周の武王が天命を改めたのは、天に従い、人に応じたからである。革という時の意味は、まことに大きい。

明治の日本人は、英語の revolution にこの「革命」の字を当てました。そのため今では民衆が体制を倒すことを指しますが、もとの意味は「天命が改まること」です。

注目したいのは、「天に順いて人に応ず」と、天と人の両方が並べられていることです。天の理にかなっていても、人がついてこなければ革命は成らない。人がついてきても、天の理にかなっていなければ、ただの反乱にすぎない。

彖伝は冒頭で、改革はすぐには信じてもらえないとも言っています。「已日にして乃ち孚とせらる」。日を経て成果が現れて、はじめて人は信じる。改めることそのものより、改めた後に信を得られるかどうかが革の成否を決めます。組織の改革でも、変えた直後の反発は避けられません。問われるのは、時間がたったあとに、変えてよかったと思われるかどうかです。

出典:易経 彖伝(革)

仁義を失った者は、もう君主ではない

曰く、「臣其の君を弑す、可ならんや。」曰く、「仁を賊ふ者之を『賊』と謂ひ、義を賊ふ者之を『残』と謂ふ。残賊の人之を『一夫』と謂ふ。一夫紂を誅するを聞くも、未だ君を弑するを聞かざるなり。」

易姓革命論のもっとも鋭い言葉が、孟子のこの問答です。斉の宣王が尋ねました。湯王は桀王を追放し、武王は紂王を討った。臣下がその君主を殺してよいのか。

孟子の答えは、問いの前提を崩すものでした。仁をそこなう者を「賊」といい、義をそこなう者を「残」という。残賊の者は、ただの「一夫」、ひとりの男にすぎない。一夫の紂を誅したとは聞いているが、君主を殺したとは聞いていない。

つまり、君主が君主であるのは、その位にいるからではなく、仁義を行っているからだというのです。仁義を捨てた時点で、その人はもう君主ではない。だから討っても「弑逆」にはならない。

これは、面と向かって王に言った言葉です。宣王にとっては、「あなたも仁義を失えば一夫になる」と告げられたに等しい。後の時代には、君主に対して危険な思想として警戒されもしました。

肩書きではなく、中身で立場が問われる。会社でいえば、社長という役職が人を社長にするのではありません。社長としての務めを果たしているから社長でいられる。役職と中身が離れたとき、組織はその人を実質的には長として扱わなくなります。

出典:孟子 梁恵王章句下

民が最も貴く、君主は最も軽い

民を貴しと為し、社稷之に次ぎ、君を輕しと為す。是の故に丘民に得られて天子と為り……諸侯、社稷を危うくすれば、則ち變置す。

孟子はさらに踏み込みます。国にとって民がもっとも貴く、次が社稷(土地と穀物の神、つまり国家)であり、君主はもっとも軽い。だから民の心を得た者が天子になる。諸侯が国を危うくすれば、その諸侯を替える。

そして、祭祀をきちんと行っているのに干ばつや洪水が起これば、社稷さえ替えてよい、とまで言います。君主どころか、国家の神ですら、役目を果たさなければ替えられる。

ここでの順序は明快です。上に立つ者は、下にいる者のためにある。君主は民を治めるための手段であって、目的ではない。目的が果たせないなら、手段は取り替えればよい。

この考え方は、経営の言葉に置き換えると、すぐに身近になります。会社は顧客と従業員のためにあり、経営者はそのための役割にすぎない。経営者が会社を私物化し、顧客や従業員を犠牲にし始めたとき、交代は起こるべくして起こります。取締役会による解任も、株主による否決も、いわば小さな易姓革命です。

出典:孟子 尽心章句下

暴を以て暴に易う――討った側への問い

伯夷・叔斉、馬を叩へて諫めて曰く、「父死して葬らず、爰に干戈に及ぶは、孝と謂ふ可きか。臣を以て君を弑するは、仁と謂ふ可きか」と。……暴を以て暴に易へ、其の非を知らず。

易姓革命には、はじめから異議がありました。その代表が、史記の列伝の冒頭に置かれた伯夷と叔斉です。

武王が紂王を討とうと出陣したとき、二人は武王の馬の手綱を押さえて諫めました。父の文王の葬儀も済まないうちに戦を起こすのは孝と言えるか。臣下の身で君主を討つのは仁と言えるか。武王が殷を倒して天下を取ると、二人はそれを恥じて周の穀物を食べず、首陽山でわらびを採って暮らし、やがて餓死します。死の間際の歌に、「暴を以て暴に易へ、其の非を知らず」とあります。暴虐を暴虐で置き換えて、その非に気づいていない。

この一句は、革命の正当性に対する根本的な問いです。悪い君主を倒したとしても、その手段が武力である以上、新しい権力もまた力によって立っている。倒した側が、倒された側と同じ論理に乗っていないか。

司馬遷はこの二人を列伝の最初に置き、天は善人に報いるのかと問いかけました。組織の刷新でも、前の体制の問題を正すという名目で、同じ強引さを繰り返すことがあります。改める側こそ、自分のやり方が前任者と違うのかを問われます。

出典:史記 伯夷列伝

破れた冠でも、頭にかぶる

黄生曰く「湯・武は受命に非ず、乃ち殺なり」と。……黄生曰く「冠は敝ると雖も必ず首に加え、履は新しと雖も必ず足に貫く。何となれば、上下の分なり。

漢の景帝の前で、儒者の轅固と、道家系の学者の黄生が論争しました。黄生は言います。湯王と武王は天命を受けたのではない。殺したのだ。

轅固は反論します。桀と紂が乱れ、天下の心はみな湯武に帰した。湯武は天下の心とともに桀紂を誅した。やむを得ず立ったのだから、天命を受けたのでなくて何だろう。

これに対する黄生の比喩が見事です。冠は破れていても必ず頭にかぶり、履物は新しくても必ず足に履く。上下の分があるからだ。君主に過ちがあるなら、臣下は正しく諫めて過ちを正すべきであって、過ちを理由に殺して自分が位に就くのは、殺人でなくて何か。

轅固は民心という結果から、黄生は上下の秩序から論じています。どちらにも理があります。そして史記によれば、景帝はこの論争を途中で打ち切りました。黄生が勝てば、漢の高祖が秦を倒して即位したことも「殺」になってしまう。轅固が勝てば、漢を倒す者が現れても正当化されてしまう。どちらに決着しても、自分の足元が揺らぐからです。

正当性の問題は、突き詰めると、答えを出すこと自体が危うい問いです。組織の中でも、「前の体制を倒したことは正しかったのか」という問いは、今の体制の正当性に直結するため、しばしば曖昧なまま置かれます。

出典:長短経 是非

日本は、易姓を拒んだ

震旦又ことさらみだりがはしき国なり。……乱世になるまゝに、力をもちて国をあらそふ。……或は累世の臣として其君をしのぎ、つひに譲をえたるもあり。伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。

易姓革命は、日本ではまったく違う受け止め方をされました。南北朝の争いのさなか、北畠親房は『神皇正統記』の序論でこう書きます。震旦(中国)はとりわけ乱れた国だ。聖代でさえ賢者を選んで位を授けたので、一つの血統が定まらない。乱世になれば、力で国を争い、民間の者も、異民族も、代々の臣も位を奪った。伏犠氏以来、天子の姓が変わること三十六度。乱れのはなはだしさは言うまでもない。

これに対して日本は、天祖以来「たゞ一種」、ただ一つの血統が続いてきた。だから神国なのだ、と親房は論じます。書き出しの一句が「大日本者神国也」です。易姓こそが、親房にとっては乱れの証だったのです。

ただし、親房は血統を誇って終わりにはしていません。同じ書の別の段では、堯が子の丹朱に譲らず舜に授けた禅譲を「器にあらざれば伝ことなし」と称えています。血統の一貫を誇りながら、器量で選ぶことの正しさも手放していません。

出典:神皇正統記 巻一 序

結び――王家が易わらなくても、責任は易わらない

八つの章句を並べると、易姓革命をめぐる議論の輪郭が見えてきます。

天は特定の家を贔屓せず、徳ある者を助ける(尚書)。その天の意思は民の目を通して現れる(尚書)。天と人の両方にかなって、はじめて天命は改まる(易経)。仁義を失った君主は「一夫」にすぎない(孟子)。民が最も貴く、君主は最も軽い(孟子)。けれども、力で倒すことは暴を暴で置き換えることではないのか(史記)。破れた冠でも頭にかぶるのが上下の分ではないのか(長短経)。そして日本は、易姓そのものを乱れとして退けた(神皇正統記)。

興味深いのは、易姓を拒んだ親房が、責任まで手放したわけではないことです。同じ書で親房はこう書いています。「我国は王種のかはることはなけれども、政みだれぬれば、暦数ひさしからず」。わが国では王の血統は変わらないが、政治が乱れれば、その運は長く続かない。

王家が易わらないからこそ、天命が別の家に移るという逃げ道がない。すべての責任が、いま位にいる者の側に残り続ける。易姓革命を認める中国の思想と、それを拒んだ親房の思想は、正反対に見えて、「地位は徳によって支えられなければ保たない」という一点で重なっています。

経営者が交代しない組織は、それだけで安定しているわけではありません。替わらないのなら、替わらないなりに、自らを改め続ける責任を負う。易姓革命の議論が今も読まれる理由は、そこにあります。