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神皇正統記 / 巻三 器にあらざれば

仁徳さしも聖徳まし〳〵しに、此皇胤こゝにたえにき。「聖徳は必百代にまつらる。」とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅すべき先蹤甚おほし。されば上古の聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器にあらざれば伝ことなし。堯の子丹朱不肖なりしかば、舜にさづけ、舜の子商均又不肖にして夏禹に譲られしが如し。

書き下し

仁徳さしも聖徳ましまししに、此皇胤こゝにたえにき。「聖徳は必百代にまつらる。」とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅すべき先蹤甚おほし。されば上古の聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器にあらざれば伝ことなし。堯の子丹朱不肖なりしかば、舜にさづけ、舜の子商均又不肖にして夏禹に譲られしが如し。

現代語訳

仁徳天皇はあれほど聖なる徳をお持ちだったのに、その血筋はここで絶えてしまった。「聖なる徳は必ず百代にわたって祀られる」とは言うけれども、徳のない子孫があれば、その家を滅ぼしてしまった先例はきわめて多い。だから上古の聖賢は、我が子であっても慈愛におぼれず、器でなければ伝えることをしなかった。堯の子の丹朱が愚かだったので舜に授け、舜の子の商均もまた愚かだったので夏の禹に譲られたようにである。

解説

武烈天皇で仁徳の血筋が絶えたことを述べたあと、親房が急に一般論へ踏み込む箇所である。「上古の聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器にあらざれば伝ことなし」——我が子であっても、器でなければ渡さない。血統の連続を主題にした書物の中に、この一句が置かれていることの意味は大きい。親房は血筋そのものを絶対視していない。堯が丹朱に渡さず舜に授け、舜が商均に渡さず禹に譲ったという中国の禅譲説話を、日本の皇統を論じる文脈に持ち込んでいる。事業承継の場面で、これほど身も蓋もなく言い切った古典は多くない。慈愛は美徳だが、それに溺れて器でない者に渡すことは、家を滅ぼす行為として数えられている。

この章句が説くこと

器にあらざれば伝ふことなし丹朱と商均禅譲事業承継

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