後継者をどう決めるか。長男に継がせるのか、いちばん能力のある人に継がせるのか。事業承継の相談で、必ずと言っていいほど出てくる問いです。
中国の帝王学では、唐の太宗が皇太子選びに失敗した経緯が『貞観政要』に詳しく残っています(後継者をどう決めるか)。では、日本の古い書は後継者の決め方をどう語っているでしょうか。
『古事記』を通して読むと、目につくことがあります。兄が弟に位を譲る話が、何度も出てくるのです。しかも理由は、兄が劣っていたからとは限りません。弟のほうが事を成し遂げた、父がそう望んだ、弟の功績が大きかった――理由はさまざまですが、「年の順に継ぐ」が当然の前提にはなっていません。
この記事では、『古事記』の中から承継の場面を五つ選んで、原文で読みます。「長男か、能力か」の二択とは違う、日本の帝王学の承継の型が見えてきます。統治の芯にある「しらす」については日本の帝王学とはで扱いました。
兄が「上と為るべからず」と言った――神八井耳命
最初の天皇とされる神武天皇が亡くなったあと、異母兄の当芸志美美命が、天皇の后を妻にし、三人の弟を殺そうとたくらみます。母の伊須気余理比売は、歌に託して息子たちに危険を知らせました。兄の神八井耳命は武器を持って討ちに入りますが、手足が震えて果たせません。代わって弟の神沼河耳命が討ち取ります。そのあと、兄はこう言いました。
「吾は仇を殺すこと能はず。汝命は既に仇を殺すことを得たまへり。かれ吾は兄なりと雖も、上と為るべからず。ここを以て、汝命上と為りて天の下を治らしめせ。僕は汝命を扶けて、忌人と為りて仕へ奉らむ」
「私は敵を討てなかった。あなたは討つことができた。だから私は兄だが、上に立つべきではない。あなたが上に立って天下を治めてほしい。私はあなたを助け、神を祭る忌人となってお仕えしよう」。
この場面で大事なのは、譲った兄がどこへ行ったかです。兄は退いて消えたのではありません。祭祀を担う側に回って、弟を支えたのです。弟が政を執り、兄が祭りを執る。上に立つ者と、それを支える者の役割がここで分かれています。
事業承継の言葉で言えば、創業家の長男が経営の執行を弟に任せ、自分は理念と伝統を守る側に回る、という形です。権威と権力を分けて持つ、日本の統治のいちばん古い型の一つが、建国の直後に書かれていることになります。
問いで器を測る――応神天皇の「孰れか愛しき」
時代は下って、応神天皇には二十六人の子がありました。天皇は末子の宇遅能和紀郎子に位を継がせたいと考えていましたが、それを口にする前に、年長の二人の皇子にこう尋ねます。
「汝たちは、兄の子と弟の子と、孰れか愛しき」とのりたまひき。(天皇のこの問ひを発したまひし所以は、宇遅能和紀郎子に天の下を治めしめむ心有りければなり。)ここに大山守命は白さく、「兄の子を愛しとおもふ」とまをしき。次に大雀命、天皇の問ひ賜へる御情を知りて白さく、「兄の子は既に人と成りぬ。これ悒しきこと無し。弟の子は未だ人と成らず。これ愛し」とまをしき。ここに天皇詔りたまはく、「佐邪岐阿芸(さざきあぎ)の言、我が思ふ所の如し」とのりたまひ、すなはち詔り別けたまはく、「大山守命は、山・海の政を為よ。大雀命は、食国の政を執りて白し賜へ。宇遅能和紀郎子は、天津日継を知らせ」とのりたまひき。故、大雀命は、天皇の命に違ふこと勿かりき。
「兄の子と弟の子と、どちらがいとおしいか」。大山守命は字面どおり「兄の子です」と答えました。大雀命(のちの仁徳天皇)は父の心を読み取って、「兄の子はもう大人で心配がありません。弟の子はまだ幼いので、いとおしく思います」と答えます。天皇は「大雀の言うことは、私の思いと同じだ」と喜び、大山守命には山と海の政、大雀命には国の政を執って報告すること、宇遅能和紀郎子には皇位を継ぐことを、それぞれ命じました。
この場面には、承継の手順が二つ入っています。
一つは、問いで器を測ることです。「誰に継がせたいか」を正面から聞けば、誰もが自分に都合のよい答えをします。応神天皇は、答え方に人柄が出る問いを投げました。言葉の裏にある意図を読めるか、全体の和を考えて答えられるか。後継者の候補を見るとき、正面からの面談だけでは見えないものがあります。
もう一つは、後継者を決めると同時に、選ばれなかった者の役を決めたことです。後継者を発表するだけで、ほかの候補者の処遇を曖昧にしておくと、そこから不満が芽を出します。応神天皇は三人それぞれに持ち場を与えました。
それでも兄は兵を挙げた――宇治川の戦い
ところが、役を与えても、すべてが収まったわけではありませんでした。応神天皇が亡くなると、大山守命は天下を取ろうとして兵を集めます。大雀命からその企てを知らされた宇遅能和紀郎子は、宇治川で兄を待ち受けました。
その王子(宇遅)は、布の衣褌を服て、既に賤しき人の形と為り、楫を執りて船に立ちたまひき。
弟の皇子は粗末な布の衣を着て、身分の低い船頭の姿になり、楫を持って船に立っていた。兄は飾り立てた座に弟がいるものと思い込み、船頭が弟だとは気づかない。川の中ほどで船は傾けられ、兄は水に落ち、岸に伏せていた兵に射られて沈みました。
役を与えれば、不満が消えるわけではない。承継の場面では、選ばれなかった側の思いが、先代がいなくなったとたんに噴き出すことがあります。承継を決めた人が生きているうちに、どこまで地ならしをしておけるか。応神天皇の周到さをもってしても、それは防ぎきれませんでした。
一方で、弟の皇子は勝ったあと、兄の亡骸を引き上げながら、兄を討てずに迷った心を歌に詠んでいます。勝った側が負けた側を悼む。そのことが、のちの世に争いの恨みを残さないための、もう一つの地ならしになっています。
譲り合いの代償――海人はなぜ泣いたか
大山守命が倒れたあと、残った大雀命と宇遅能和紀郎子は、今度は互いに位を譲り合います。美しい話のはずですが、『古事記』はその裏側も書き留めています。
ここに大雀命と宇遅能和紀郎子と二柱、各天の下を譲りたまふ間に、海人、大贄を貢りき。ここに兄は辞びて弟に貢らしめ、弟は辞びて兄に貢らしむ。相譲りたまふ間に、既に多日を経き。かく相譲りたまふこと、一二たびに非ず。故、海人、既に往還に疲れて泣きき。故、諺に曰く、「海人なれや、己が物によりて泣く」。
二人が天下を譲り合っているあいだに、海人が献上の魚を持ってきた。兄は辞退して弟へ、弟は辞退して兄へ回させる。そうして何日もたち、それが一度や二度ではなかったので、海人は行き来に疲れて泣いた。そこから「海人なれや、己が物によりて泣く」という諺ができた――。
譲り合いは礼にかなっています。しかし、誰も決めない状態が続けば、いちばん疲れるのは現場です。社長の座が空いたまま、後継の二人がどちらも「あなたが」と譲り続ければ、決裁は止まり、取引先は誰に話を通せばいいか分からず、社員は板挟みになります。謙譲は美徳ですが、決めることを遅らせる謙譲は、下で働く人の負担として跳ね返ってきます。
結局、宇遅能和紀郎子が早くに亡くなり、大雀命が位に就きました。仁徳天皇です。民のかまどの逸話で知られる「聖帝」は、この譲り合いの末に生まれた天皇でした(民のかまどとは)。
功のある者を先に――顕宗・仁賢の兄弟
下巻には、もう一組の譲り合う兄弟が出てきます。父の市辺の押歯王を雄略天皇に殺され、播磨に逃れて身を隠していた意富祁命(兄)と袁祁命(弟)です。二人は宴の席で弟が名乗りを上げたことで見出され、都に迎えられます。やがて位を前にして、兄はこう言いました。
針間の志自牟の家に住みし時、汝命、名を顕さずは、更に天下に臨む君に非ず。これ既に汝命の功なり。
「播磨の志自牟の家にいたとき、あなたが名を明かさなかったら、私たちが天下に臨むことはなかった。これはもうあなたの功績だ」。そして兄は「故、吾、兄なりと雖も、猶し汝命、先づ天下を治めよ」と言って固く譲り、弟が先に即位しました。顕宗天皇です。
ここで位を決めたのは、年の順でも、能力の比べ合いでもありません。事を動かしたのは誰かという、具体的な功績です。しかも兄はそれを自分から言い出しています。神八井耳命の場面と同じく、兄が自分の側の不足を認め、弟の働きを正しく名指したことで、争いにならずに済みました。
承継で揉める家の多くは、誰の功績で今があるのかについて、家族のあいだで認識がずれています。功を正しく認めることは、位を託す根拠になり、同時に譲る側の面目も保ちます。
継いだあとの諫め――前の代を壊しすぎない
即位した顕宗天皇は、父の仇である雄略天皇の陵を壊そうとします。その役を引き受けた兄の意富祁命は、陵のそばを少し掘っただけで戻ってきました。なぜすべて壊さなかったのかと問う弟に、兄はこう答えます。
今、単に父の仇といふ志のみを取りて、悉に天下を治めし天皇の陵を破らば、後の人必ず誹謗らむ。
雄略天皇は父の仇ではあるが、私たちの叔父であり、しかも天下を治めた天皇である。ただ父の仇だという思いだけで、天下を治めた天皇の陵をすべて壊せば、後の人は必ず非難するだろう――。少し掘ったことで恥を示すには十分だ、と兄は言い、天皇も「それもまた大きな道理だ」と認めました。
後継者が位に就いたあと、前の代のやり方を全否定したくなる場面は、どの会社にもあります。先代の失敗や、自分が受けた仕打ちを、正したくなる気持ちは当然です。しかし、前の代もまた、組織を治めてきた代です。それを跡形もなく壊せば、壊した人自身が、のちの人から同じ目で見られます。正すべきことは正し、壊しすぎない。意富祁命の諫めは、継いだあとの節度を教えています。
家を継ぐ者へ――竹馬抄の一言
室町幕府の管領を務めた斯波義将は、子孫に向けて書いた家訓『竹馬抄』の冒頭近くで、こう書いています。
弓箭とりと云は、わが身のヿは申におよばず子孫の名をおもひて振舞べきなり、かぎりある命をおしみて永代うき名をとるべからず
武士というものは、自分の身のことは言うまでもなく、子孫の名を思って振る舞うべきだ。限りある命を惜しんで、永く不名誉な名を取ってはならない――。
位を継ぐ人も、譲る人も、自分の代だけを見て振る舞えば、判断を誤ります。神八井耳命も、意富祁命も、自分の取り分より、家と国のその後を見て身を引き、また諫めました。継ぐ・譲るの判断の物差しを「次の代、その次の代にどう語られるか」に置くと、二択の迷いはだいぶ小さくなります。
結び――古事記の承継の型
『古事記』の承継の場面を並べると、いくつかの型が見えてきます。
- 年の順は前提にしない。事を成し遂げた人、功のある人を先に立てる。
- 譲った側は消えずに、支える役に回る(政を執る者と、祭りを執る者を分ける)。
- 後継者を決めるときは、選ばれなかった者の役も同時に決める。
- それでも不満は残るので、先代が生きているうちに地ならしをする。
- 譲り合いで決めることを遅らせない。待たされるのは現場である。
- 継いだあとは、前の代を壊しすぎない。
「長男か、能力か」という問いの立て方そのものが、少し狭いのかもしれません。古事記の兄弟たちが見ていたのは、誰が継ぐかより、継いだあと、家と国がどう続くかでした。
日本の帝王学のシリーズは、このあと古事記の序文、つまり「なぜこの書が作られたか」を読んで締めくくります。
