古事記 / 中巻・宇治川の戦いと大山守の死
其王子(宇遲)者。服布衣褌。既爲賤人之形。執檝立船。於是。其兄王。隱伏兵士。衣中服鎧。到於河邊。將乘船時。望其嚴餝之處。以爲弟王坐其吳床。都不知執檝而立船。即問其執檝者曰。傳聞茲山有忿怒之大猪。吾欲取其猪。若獲其猪乎。爾執檝者答曰。不能也。亦問曰。何由。答曰。時時也往往也。雖爲取而不得。是以白不能也。渡到河中之時。令傾其船。墮入水中。爾乃浮出。隨水流下。即流歌曰。知波夜夫流。宇遲能和多理邇。佐袁寻理邇。波夜祁牟比登斯。和賀毛古邇許牟。於是。伏隱河邊之兵。彼廂此廂。一時共興。矢刺而流。故到訶和羅之前而沈入。(訶和羅三字以音)故以鈎探其沈處者。繫其衣中甲而。訶和羅鳴。故號其地謂訶和羅前也。爾掛出其骨之時。弟王歌曰。知波夜比登。宇遲能和多理邇。和多理是邇。多豆流。阿豆佐由美。麻由美。伊岐良牟登。許許呂波母閇杼。伊寻良牟登。許許呂波母閇杼。母登幣波。岐美袁淤母比傳。須惠幣波。伊毛袁淤母比傳。伊良那祁久。曾許爾淤母比傳。加那志祁久。許許爾淤母比傳。伊岐良受曾久流。阿豆佐由美。麻由美。
新字:其王子(宇遅)者。服布衣褌。既為賤人之形。執檝立船。於是。其兄王。隠伏兵士。衣中服鎧。到於河辺。将乗船時。望其厳餝之処。以為弟王坐其呉床。都不知執檝而立船。即問其執檝者曰。伝聞茲山有忿怒之大猪。吾欲取其猪。若獲其猪乎。爾執檝者答曰。不能也。亦問曰。何由。答曰。時時也往往也。雖為取而不得。是以白不能也。渡到河中之時。令傾其船。堕入水中。爾乃浮出。随水流下。即流歌曰。知波夜夫流。宇遅能和多理邇。佐袁寻理邇。波夜祁牟比登斯。和賀毛古邇許牟。於是。伏隠河辺之兵。彼廂此廂。一時共興。矢刺而流。故到訶和羅之前而沈入。(訶和羅三字以音)故以鈎探其沈処者。繋其衣中甲而。訶和羅鳴。故号其地謂訶和羅前也。爾掛出其骨之時。弟王歌曰。知波夜比登。宇遅能和多理邇。和多理是邇。多豆流。阿豆佐由美。麻由美。伊岐良牟登。許許呂波母閇杼。伊寻良牟登。許許呂波母閇杼。母登幣波。岐美袁淤母比伝。須恵幣波。伊毛袁淤母比伝。伊良那祁久。曽許爾淤母比伝。加那志祁久。許許爾淤母比伝。伊岐良受曽久流。阿豆佐由美。麻由美。
書き下し
その王子(宇遅)は、布の衣褌を服て、既に賤しき人の形と為り、楫を執りて船に立ちたまひき。ここにその兄王、兵士を隠し伏せ、衣の中に鎧を服て、河辺に到り、船に乗らむとする時、その厳餝れる処を望みて、弟王の、その呉床に坐すと以為ひて、楫を執りて船に立てるを都て知らず。すなはちその楫を執れる者に問ひて曰く、「伝へ聞く、この山に忿怒れる大猪有りと。吾その猪を取らむと欲ふ。若しその猪を獲むかも」といへば、楫を執れる者答へて曰く、「能はじ」といふ。また問ひて曰く、「何由ぞ」といへば、答へて曰く、「時々や往々や、取らむとすれども得ず。ここを以ちて能はじと白す」といふ。渡りて河中に到る時、その船を傾けしめて、水に堕し入れたまひき。ここにすなはち浮き出で、水の流れのまにまに下りき。すなはち流れつつ歌ひて曰く、「ちはやぶる 宇治の渡に 棹執りに 速けむ人し 我が仲間に来む」。ここに河辺に伏せ隠れたる兵、彼方此方、一時に共に興りて、矢刺して流しき。故、訶和羅の前に到りて沈み入りき。故、鉤を以ちてその沈みし処を探れば、その衣の中の甲に繋かりて、訶和羅と鳴りき。故、その地を号けて訶和羅前と謂ふ。ここにその骨を掛け出す時、弟王歌ひて曰く、「ちはやひと 宇治の渡に 渡り瀬に 立てる 梓弓 檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末方は 妹を思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 悲しけく ここに思ひ出 い伐らずぞ来る 梓弓 檀」。
現代語訳
その王子(宇遅能和紀郎子)は、布の衣と袴を着て、すっかり身分の低い人の姿になり、楫を持って船に立っていました。そこへ兄王が、兵士を隠し、衣の下に鎧を着て、河辺に着きました。船に乗ろうとするとき、飾り立てた場所を見て、弟王がその呉床に座っていると思い込み、楫を持って船に立っている者がその弟だとは少しも気づきません。そこで楫を持つ者に尋ねました。「聞くところでは、この山に怒り狂った大猪がいるという。私はその猪を捕りたい。もしかして捕れるだろうか」。楫を持つ者は「できないでしょう」と答えました。「なぜか」と問うと、「時々、あちこちで捕ろうとしても、捕れないのです。だからできないと申します」と答えました。船が河の中ほどまで来たとき、船を傾けて、兄を水に落としました。兄は浮かび上がって、水の流れのままに下っていき、流れながら歌いました。「ちはやぶる宇治の渡し場で、棹を取るのが速い人は、私の仲間に来い」。すると河辺に潜んでいた兵が、あちこちから一斉に立ち上がり、矢を射かけて流しました。大山守は訶和羅の前で沈みました。鉤で沈んだ所を探ると、衣の下の鎧に引っかかって、訶和羅と鳴りました。そこでその地を訶和羅前といいます。骨を引き上げるとき、弟王は歌いました。「宇治の渡し場の渡り瀬に立っている梓弓の檀。伐ろうと心は思うけれど、取ろうと心は思うけれど、根元では君を思い出し、枝先では妻を思い出し、胸が痛む。そこに思い出し、悲しく、ここに思い出し、伐らずに来た、梓弓の檀」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・謀攻篇故に上兵は謀を伐つ。その次は交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む。
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『春秋左氏伝』桓公六年 鬬伯比、隨を驕らす策六年春、曹より來朝す。書して「寔(こ)れ來たる」と曰ふは、其の國に復らざればなり。楚の武王隨を侵し、薳章をして成を求めしめ、瑕に軍して以て之を待つ。隨人少師をして成を董さしむ。鬬伯比楚子に言ひて曰く、「吾の志を漢東に得ざるや、我則ち然らしむ。我吾が三軍を張りて吾が甲兵を被り、武を以て之に臨む。彼則ち懼れて協して以て我を謀る、故に間し難きなり。漢東の國、隨を大と為す。隨張らば、必ず小國を棄てん。小國離るるは、楚の利なり。少師は侈る、請ふ師を羸(よわ)くして以て之を張らしめん」と。熊率且比曰く、「季梁在り、何の益かあらん」と。鬬伯比曰く、「以て後圖と為す。少師其の君を得ん」と。王軍を毀りて少師を納る。
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『春秋左氏伝』定公十年 駟赤、郈を取る克たず。秋、二子、齊の師と復た郈を圍む。克たず。叔孫、郈の工師駟赤に謂ひて曰く、「郈は唯だ叔孫氏の憂ひのみに非ず、社稷の患ひなり。將に之を若何せんとす」と。對へて曰く、「臣の業は、揚水の卒章の四言に在り」と。叔孫、稽首す。駟赤、侯犯に謂ひて曰く、「齊・魯の際に居りて事ふる無きは、必ず不可なり。子、盍ぞ事を齊に求めて以て民に臨まざる。然らずんば、將に叛かれんとす」と。侯犯、之に從ふ。齊の使至る。駟赤、郈人と之が為に郈中に宣言して曰く、「侯犯、將に郈を以て齊に易へんとす。齊人、將に郈の民を遷さんとす」と。眾、兇懼す。駟赤、侯犯に謂ひて曰く、「眾の言異なれり。子、齊に易ふるに如かず。其の死せんよりは、猶ほ是れ郈なり、而して紓ぶるを得ん。何ぞ必ずしも此ならん。齊人は此を以て魯に偪らんと欲す。必ず倍して子に地を與へん。且つ盍ぞ多く甲を子の門に舍きて、以て不虞に備へざる」と。侯犯曰く、「諾」と。乃ち多く甲を焉に舍く。侯犯、齊に易へんことを請ふ。齊の有司、郈を觀て將に至らんとす。駟赤、人をして周く走りて呼ばしめて曰く、「齊の師至れり」と。郈人大いに駭き、侯犯の門の甲を介して、以て侯犯を圍む。
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『春秋左氏伝』昭公十一年 幣重くして言甘し十一年、春、王の二月、叔弓宋に如く。平公を葬るなり。景王萇弘に問ひて曰く、「今茲諸侯、何か實に吉にして、何か實に凶なる」と。對へて曰く、「蔡凶なり。此れ蔡侯般其の君を弒するの歲なり。歲豕韋に在り。此を過ぎず。楚將に之を有たんとす。然れども壅むるなり。歲大梁に及びて、蔡復し楚凶ならん。天の道なり」と。楚子申に在り。蔡の靈侯を召す。靈侯將に往かんとす。蔡の大夫曰く、「王は貪にして信無し。唯だ蔡に於いて感む。今幣重くして言甘し。我を誘ふなり。往く無きに如かず」と。蔡侯可かず。五月、丙申、楚子甲を伏せて蔡侯に申に饗す。醉はしめて之を執ふ。
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