古事記 / 中巻・弟が上に立ち兄は支える
故爾其弟神沼河耳命。乞取其兄所持之兵。入殺當藝志美美。故亦稱其御名。謂建沼河耳命。爾神八井耳命。讓弟建沼河耳命曰。吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故吾雖兄。不宜爲上。是以。汝命爲上治天下。僕者扶汝命。爲忌人而。仕奉也。故其日子八井命者。(茨田(河內)連。手島連之祖。)神八井耳命者。(意富臣。小子部連。坂合部連。火君。大分(豐後)君。阿蘇(肥後)君。筑紫三家連。雀部臣。雀部造。小長谷造。都祁直。伊余國造。科野(信濃)國造。道奧石城國造。常道仲(常陸)國造。長狹(安房)國造。伊勢船木直。尾張丹羽臣。島田臣等之祖也。)神沼河耳命者。治天下也。凡此神倭伊波禮毘古天皇。御年壹佰參拾漆歲。御陵在畝火山之北方白檮尾上也。
新字:故爾其弟神沼河耳命。乞取其兄所持之兵。入殺当芸志美美。故亦称其御名。謂建沼河耳命。爾神八井耳命。譲弟建沼河耳命曰。吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故吾雖兄。不宜為上。是以。汝命為上治天下。僕者扶汝命。為忌人而。仕奉也。故其日子八井命者。(茨田(河内)連。手島連之祖。)神八井耳命者。(意富臣。小子部連。坂合部連。火君。大分(豊後)君。阿蘇(肥後)君。筑紫三家連。雀部臣。雀部造。小長谷造。都祁直。伊余国造。科野(信濃)国造。道奥石城国造。常道仲(常陸)国造。長狭(安房)国造。伊勢船木直。尾張丹羽臣。島田臣等之祖也。)神沼河耳命者。治天下也。凡此神倭伊波礼毘古天皇。御年壱佰参拾漆歳。御陵在畝火山之北方白檮尾上也。
書き下し
かれここにその弟神沼河耳命、その兄の持てる兵を乞ひ取りて、入りて当芸志美美を殺したまひき。かれまたその御名を称へて、建沼河耳命と謂ふ。ここに神八井耳命、弟建沼河耳命に譲りて曰く、「吾は仇を殺すこと能はず。汝命は既に仇を殺すことを得たまへり。かれ吾は兄なりと雖も、上と為るべからず。ここを以て、汝命上と為りて天の下を治らしめせ。僕は汝命を扶けて、忌人と為りて仕へ奉らむ」と。かれその日子八井命は、(茨田(河内)連、手島連の祖なり。)神八井耳命は、(意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分(豊後)君、阿蘇(肥後)君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野(信濃)国造、道奥石城国造、常道仲(常陸)国造、長狭(安房)国造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、島田臣らの祖なり。)神沼河耳命は、天の下を治らしめしき。おほよそこの神倭伊波礼毘古天皇、御年一百三十七歳。御陵は畝火山の北の方、白檮尾の上にあり。
現代語訳
そこで弟の神沼河耳命は、兄が持っていた武器を求めて受け取り、入って当芸志美美を殺しました。このため、その名をたたえて建沼河耳命と呼びます。すると神八井耳命は、弟の建沼河耳命に譲って言いました。「私は敵を殺すことができなかった。あなたはすでに敵を殺すことができた。だから私は兄だが、上に立つべきではない。どうかあなたが上に立って天下をお治めください。私はあなたを助けて、神を祭る忌人となってお仕えしましょう」。そこで、日子八井命は茨田連・手島連の祖先です。神八井耳命は意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥石城国造、常道仲国造、長狭国造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、島田臣などの祖先です。神沼河耳命は天下をお治めになりました。この神倭伊波礼毘古天皇は、御年百三十七歳で、御陵は畝傍山の北、白檮尾の上にあります。
解説
この章句が説くこと
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人生を、一行の式にしてみた。
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