暦をめくると「土用」があり、年が明ければ干支が話題になり、六十歳は還暦と呼ばれます。曜日の名前にまで、木・火・土・金・水が並んでいます。私たちはふだん意識しないまま、陰陽五行説の上で暮らしています。

それでいて、陰陽五行と聞くと、占いや迷信の類だと受け流す人が大半でしょう。たしかに後の時代には、吉凶を当てる術として広まりました。けれども原典を順にたどると、見えてくるのは別の顔です。世界を「もの」の集まりとしてではなく、「はたらき」と「関係」の組み合わせとして捉える。季節が移り、王朝が交代し、身体の調子が崩れる。そうした変化を、一つの筋道で説明しようとした思考法です。

この記事では、易経から隋の『五行大義』まで七つの原典を読みながら、陰陽五行説がどこから来て、何に使われ、どこで行き過ぎたのかを見ていきます。

陰陽――「どちらか」ではなく、交代するリズム

一陰一陽、之を道と謂う。之を継ぐ者は善なり、之を成す者は性なり。……百姓は日々用いて知らず、故に君子の道は鮮(すく)なし。……生生、之を易と謂い、……陰陽測られざる、之を神と謂う。

易経の繋辞伝にある、陰陽を語るうえでいちばん有名な一句です。一たび陰となり、一たび陽となる。そのはたらきを「道」と呼ぶ。道とは、陰か陽のどちらか一方ではありません。陰になり陽になりと、交代してやまないリズムそのものです。

ここで押さえておきたいのは、陰陽が善悪の区別ではないことです。昼と夜、夏と冬、満ちる月と欠ける月。どちらか一方だけでは成り立たず、極まればもう一方へ移っていきます。固定した正解ではなく、動きのほうに本体がある。易が「生み、また生んでやまないことを易という」と重ねるのは、そのためです。

もう一つ鋭いのは、人々は日々これを用いていながら気づかない、という指摘でしょう。仁の人は道を仁と呼び、知の人は知と呼ぶ。誰もが自分の立場から全体の一部を見ているにすぎません。

仕事に引きつけるなら、好調も不調も局面の交代です。好調が永遠に続く前提で組んだ計画は、陰に転じた瞬間に崩れます。陰陽とは、いまがどちらの局面かを見て、次の局面を前提に手を打つための見方でした。

出典:易経 繋辞上

五行の初出は、治水の失敗談だった

我聞く、在昔、鯀洪水を陻(ふさ)ぎ、其の五行を汩陳(こつちん)す。帝乃ち震怒し、洪范九疇を畀(あた)へず、彝倫の斁(やぶ)るる攸なり。

一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。水を潤下と曰ひ、火を炎上と曰ひ、木を曲直と曰ひ、金を従革と曰ひ、土は爰に稼穡す。

五行という言葉が最も古くまとまって現れるのは、『尚書』の洪範篇です。殷を滅ぼした周の武王が、殷の賢者・箕子を訪ねて天下を治める道を問う。その答えとして語られる九つの大法(洪範九疇)の、第一に置かれたのが五行でした。

注目したいのは定義の仕方です。水は「下を潤すもの」、火は「燃え上がるもの」、木は「曲がりまた真っ直ぐになるもの」、金は「人の手に従って形を変えるもの」、土は「種をまき収穫するもの」。五行は物質の名前ではなく、動きの名前として定義されています。しかも、それぞれが塩辛さ・苦さ・酸っぱさ・辛さ・甘さという味と結びつけられ、最初から暮らしの側に降りてきています。

そして、その前置きとして語られるのが、鯀の失敗です。禹の父である鯀は、洪水を土で塞いで防ごうとし、五行の秩序を乱した。天帝は怒って大法を授けず、世の秩序は壊れた。下へ流れるという水の性質に逆らったことが、統治の失敗として語られているわけです。

五行説は、自然の分類表として生まれたのではありません。ものの性質を見誤った政治は壊れる、という統治論の第一条として出てきたのです。現場の性質を無視して制度だけを押し付ける組織が、どこかで決壊する。その構図は、三千年近く前の治水の話とほとんど変わりません。

出典:尚書 洪範

季節が政治を決める――月令の天子

立春に先だつこと三日、大史(たいし)之を天子に謁(つ)げて曰く、「某日立春なり、盛徳は木に在り」と。天子乃ち斉(さい)す。立春の日、天子親ら三公・九卿・諸侯・大夫を帥(ひき)いて以て春を東郊に迎う。

五行を暦に組み込んだのが、『礼記』の月令篇です。春は木、夏は火、秋は金、冬は水。季節に五行を配し、さらに方角・色・音・味までを一つの表に並べました。

立春の三日前、暦をつかさどる大史が天子に告げます。「某日が立春です。盛んな徳は木にあります」。天子は身を清め、立春の日には百官を率いて都の東の郊外へ春を迎えに出る。春のあいだ天子は宮殿の東の堂に住み、青い車に乗り、青い衣を着て、青い玉を帯びます。春は木、木は東、東の色は青。天子自身が季節の気と一体になることで、天下の巡りを正しく導く、という考え方です。

月令には、その月にしてよいこと、してはならないことが月ごとに並びます。春の月には木を伐ることを禁じる、といった具合です。暦は単なる日付の表ではなく、政策の年間計画表でした。

四季は四つなのに、五行は五つあります。月令は余った土を夏の終わりに置きましたが、のちには四つの季節それぞれの終わりに土を配する考え方が広まります(『五行大義』も、土は四時の終わりに盛んになると書いています)。季節の変わり目のおよそ十八日を土の気が盛んな時期とする、日本の「土用」はここから来ています。

季節の節目を、ただ日付として通り過ぎない。前もって知らせ、身を改めて迎える。年度の始まりや新しい仕事の初日をどう迎えるかという問いに、月令はいまも一つの型を示しています。

出典:礼記 月令

王朝の交代を説明する理論へ

黄帝の時、天先づ大螾大螻を見わす。黄帝曰く、「土氣勝つ。」土氣勝つ、故に其の色は黄を尚び、其の事は土に則る。……文王の時に及び、天先づ赤烏の丹書を銜えて、周社に集まるを見わす。文王曰く、「火氣勝つ。」

戦国時代の終わり、五行は季節から歴史へと適用範囲を広げます。その立役者が、斉の騶衍(すうえん)でした。『史記』は、彼が陰陽の盛衰を深く観察し、天地が分かれて以来、五つの徳が移り変わって王朝が交代してきたと論じた、と伝えています(史記 孟子荀卿列伝)。

その考え方を具体的に書き留めたのが、秦の宰相・呂不韋が編ませた『呂氏春秋』の応同篇です。黄帝は土、夏の禹は木、殷の湯王は金、周の文王は火。それぞれの王朝が興る前には、天がその気の兆しを見せたといいます。並びを見ると、木は土に、金は木に、火は金に勝つ。前の王朝の徳に「勝つ」徳の者が、次の天下を取るという筋書きです。これを五徳終始説と呼びます。

そして応同篇は、この先を予言します。火に代わるのは必ず水である、と。周は火徳でした。次に天下を取るのは水の徳を持つ者だ、という主張が、秦の宰相のもとで書かれていたことになります。

歴史の変化を一定の法則で説明しようとする発想は、いまの循環論や景気の波の議論にも通じます。ただし、法則が「次は誰が勝つか」を語り始めたとき、それは観察ではなく、特定の勢力を正当化する道具にもなります。次の節で見るのは、その実例です。

出典:呂氏春秋 応同

理論が国家を設計した――秦の水徳

始皇終始五徳の伝を推し、以為へらく周は火徳を得たり、秦周の徳に代はる、勝たざる所に従ふと。方今水徳の始めなり。……衣服・旄旌・節旗は皆黒を上ぶ。数は六を以て紀と為し、……剛毅戾深にして、事は皆法に決し、刻削して仁恩和義毋く、然る後に五徳の数に合ふ。

天下を統一した始皇帝は、この理論をそのまま国家の設計図にしました。周は火の徳、秦はそれに勝つ水の徳。そこで年の始まりを十月に改め、衣服や旗は水の色である黒を尊び、数は六を基準にして、冠の寸法から車の幅、馬車の頭数までを六にそろえました。黄河は「徳水」と改名されます。

見逃せないのは、その後に続く一文です。厳しく容赦なく、事はすべて法で決め、仁愛や恩恵を顧みなかった。そうしてこそ五行の徳の数理に合う、とされた。水は冷たく、陰の気です。苛烈な法治が、宇宙の法則にかなうものとして正当化されたわけです。

秦は統一からわずか十五年ほどで滅びます。後の漢でも、自分たちの王朝が五行のどの徳にあたるのかは、長く論争の的になりました。理論は、それを使う者の都合に合わせて、いくらでも解釈を変えられたのです。

よくできた枠組みほど、使う人の判断を代行してしまいます。「フレームワークに照らせばこうなる」という言い方で、本来は人が引き受けるべき判断の重さが消えていく。秦の水徳は、理論を信じすぎた組織が何を失うかの、最初の大きな実例でした。

出典:史記 秦始皇本紀

相生と相剋――抑える関係があるから回る

剋とは、制罰を義と為す。其の力強くして能く弱きを制するを以て、故に木は土を剋し、土は水を剋し、水は火を剋し、火は金を剋し、金は木を剋す。

五行説の理論面を網羅的にまとめたのが、隋の蕭吉による『五行大義』です。そこでは、五行の関係が二つに整理されています。

一つは相生(そうしょう)。木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生む。『五行大義』は後漢の『白虎通』を引いて、その理由を具体的に説明します。木をこすれば火が出る。燃えれば灰、つまり土になる。山の石の中に金がある。金属の表面には露が結ぶ。水が木を育てる(五行大義 論相生)。

もう一つが相剋(そうこく)です。木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木に勝つ。剋とは「制して罰すること」だと蕭吉は定義します。さらに前漢の董仲舒の『春秋繁露』を引き、相剋を朝廷の官職に当てはめます。農の官が乱れれば司徒が誅し、法を執る者がえこひいきすれば司寇が誅する。相剋は、監察と牽制の仕組みとして語られているのです。

大事なのは、生む関係と抑える関係が、どちらも欠かせないことです。相生だけでは、ある要素が膨らみ続けて全体の均衡が崩れます。相剋だけでは、すべてが痩せ細ります。育てる線と抑える線が同時に張られているから、全体は止まらずに回り続ける。西洋の四元素説が、要素がそれぞれ何であるかに重心を置いたのに対し、五行説は要素どうしがどう関わるかに重心を置いた、とよく言われます。

もっとも、同じ段で蕭吉は、上が下を剋すのは道理に従い、下が上を剋すのは道理に背く、とも書いています。関係の理論は、身分秩序を正当化する論理にもなり得ました。それでも、どこに抑えが利いていて、どこが野放しになっているかを見るという発想は、組織の仕組みを点検するときにそのまま使えます。

出典:五行大義 論相剋

身体という小さな宇宙

五蔵とは、肝・心・脾・肺・腎なり。……肝は以て木に配し、心は以て火に配し、脾は以て土に配し、肺は以て金に配し、腎は以て水に配す。……肝は仁、肺は義、心は礼、腎は智、脾は信。

五行の網は、人の身体にも掛けられました。『五行大義』は、五臓が五行から、六腑が六つの気から成ると説きます。肝は木、心は火、脾は土、肺は金、腎は水。さらに肝は仁、肺は義、心は礼、腎は智、脾は信と、儒教の五つの徳目にまで対応させていきます。

根拠として引かれるのが、『春秋左氏伝』に見える春秋時代の名医・医和の言葉です。陰が過ぎれば寒の病、陽が過ぎれば熱の病、風が過ぎれば手足の病、雨が過ぎれば腹の病になる。病とは、何かが「過ぎる」ことで起きる偏りだ、という見方です。

ここで大切なのは、医学的な正しさを問うことではありません。臓器の働きと、心の持ち方と、季節や方角とを、切り離さずに一つの網で結んで見るという発想そのものです。この見方は、後の東洋医学の臓腑観の土台になりました。

身体の不調を一つの部品の故障としてではなく、全体の釣り合いの崩れとして見る。組織の問題を一部署の失敗としてではなく、関係の偏りとして見る。五行の網は、問題を「どこが悪いか」から「何が過ぎていて、何が足りないか」へと問い直させます。

出典:五行大義 論配蔵府

結び――なぜ日本に残ったのか

『五行大義』には、少し不思議な来歴があります。この書は中国では早くに失われ、唐や宋の書目にも名前が見えません。ところが日本には伝わっていて、奈良時代の朝廷は、陰陽寮で学ぶ者の教科書の一つにこの書を挙げています。暦を作り、天体を観測し、吉凶を判断する役所の基本書でした。

江戸時代には京都で版本が刊行され、さらに林述斎が『佚存叢書』に収めて出版したことで、本家の中国へ逆輸入されることになります。陰陽五行説の体系書は、日本という外縁で生き延びたのです(五行大義 序)。

こうして見ると、陰陽五行説には二つの顔があります。一つは、世界を「関係」と「交代」で捉える、きわめて柔軟な思考法。陰陽はいまの局面を読む目であり、相生と相剋は、育てる線と抑える線の両方を見る目です。もう一つは、その柔軟さゆえに、何でも説明でき、誰の支配でも正当化できてしまう危うさ。秦の水徳は、その危うさの最初の実例でした。

土用も、節句も、干支も、いまでは季節の行事として残っています。その奥にあるのは、何が過ぎていて、何が足りないか。いまは陰か、陽か。そう問い続けるための道具です。答えを出してくれる理論としてではなく、問いを立て直す道具として持っておく。二千年を生き延びた思考法の使い方は、たぶんそのあたりにあります。