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史記 / 秦始皇本紀

始皇推終始五德之傳,以為周得火德,秦代周德,從所不勝。方今水德之始,改年始,朝賀皆自十月朔。衣服旄旌節旗皆上黑。數以六為紀,符、法冠皆六寸,而輿六尺,六尺為步,乘六馬。更名河曰德水,以為水德之始。剛毅戾深,事皆決於法,刻削毋仁恩和義,然後合五德之數。於是急法,久者不赦。丞相綰等言:「諸侯初破,燕、齊、荊地遠,不為置王,毋以填之。請立諸子,唯上幸許。」始皇下其議於群臣,群臣皆以為便。廷尉李斯議曰:「周文武所封子弟同姓甚眾,然後屬疏遠,相攻擊如仇讎,諸侯更相誅伐,周天子弗能禁止。今海內賴陛下神靈一統,皆為郡縣,諸子功臣以公賦稅重賞賜之,甚足易制。天下無異意,則安寧之術也。置諸侯不便。」始皇曰:「天下共苦戰鬬不休,以有侯王。賴宗廟,天下初定,又復立國,是樹兵也,而求其寧息,豈不難哉!廷尉議是。」分天下以為三十六郡,郡置守、尉、監。更名民曰「黔首」。大酺。收天下兵,聚之咸陽,銷以為鐘鐻,金人十二,重各千石,置廷宮中。一法度衡石丈尺。車同軌。書同文字。地東至海暨朝鮮,西至臨洮、羌中,南至北向戶,北據河為塞,并陰山至遼東。徙天下豪富於咸陽十二萬戶。諸廟及章臺、上林皆在渭南。

新字:始皇推終始五徳之伝,以為周得火徳,秦代周徳,従所不勝。方今水徳之始,改年始,朝賀皆自十月朔。衣服旄旌節旗皆上黒。数以六為紀,符、法冠皆六寸,而輿六尺,六尺為歩,乗六馬。更名河曰徳水,以為水徳之始。剛毅戻深,事皆決於法,刻削毋仁恩和義,然後合五徳之数。於是急法,久者不赦。丞相綰等言:「諸侯初破,燕、斉、荊地遠,不為置王,毋以填之。請立諸子,唯上幸許。」始皇下其議於群臣,群臣皆以為便。廷尉李斯議曰:「周文武所封子弟同姓甚衆,然後属疏遠,相攻撃如仇讎,諸侯更相誅伐,周天子弗能禁止。今海内頼陛下神霊一統,皆為郡県,諸子功臣以公賦税重賞賜之,甚足易制。天下無異意,則安寧之術也。置諸侯不便。」始皇曰:「天下共苦戦闘不休,以有侯王。頼宗廟,天下初定,又復立国,是樹兵也,而求其寧息,豈不難哉!廷尉議是。」分天下以為三十六郡,郡置守、尉、監。更名民曰「黔首」。大酺。収天下兵,聚之咸陽,銷以為鐘鐻,金人十二,重各千石,置廷宮中。一法度衡石丈尺。車同軌。書同文字。地東至海暨朝鮮,西至臨洮、羌中,南至北向戸,北拠河為塞,并陰山至遼東。徙天下豪富於咸陽十二万戸。諸廟及章台、上林皆在渭南。

書き下し

始皇終始五徳の伝を推し、以為へらく周は火徳を得たり、秦周の徳に代はる、勝たざる所に従ふと。方今水徳の始めなり。年始を改め、朝賀は皆十月朔よりす。衣服・旄旌・節旗は皆黒を上ぶ。数は六を以て紀と為し、符・法冠は皆六寸、而して輿は六尺、六尺を歩と為し、六馬に乗る。河を更名して徳水と曰ひ、以て水徳の始めと為す。剛毅戾深にして、事は皆法に決し、刻削して仁恩和義毋く、然る後に五徳の数に合ふ。是に於て法を急にし、久しき者も赦さず。丞相綰等言ふ、「諸侯初めて破れ、燕・斉・荊の地遠く、為に王を置かずんば、以て之を填むる毋し。請ふ諸子を立てんことを、唯だ上幸ひに許せ」と。始皇其の議を群臣に下す。群臣皆以て便と為す。廷尉李斯議して曰く、「周の文武の封ずる所の子弟同姓甚だ衆し。然る後に属疏遠となり、相攻撃すること仇讎の如く、諸侯更相誅伐し、周の天子禁止する能はず。今海内陛下の神霊に頼りて一統し、皆郡県と為る。諸子功臣は公の賦税を以て重く之を賞賜せば、甚だ足りて制し易し。天下に異意無きは、則ち安寧の術なり。諸侯を置くは便ならず」と。始皇曰く、「天下共に戦闘の休まざるに苦しむは、侯王有るを以てなり。宗廟に頼り、天下初めて定まる。又復た国を立つるは、是れ兵を樹つるなり。而して其の寧息を求むるは、豈に難からずや。廷尉の議是なり」と。天下を分かちて以て三十六郡と為し、郡に守・尉・監を置く。民を更名して「黔首」と曰ふ。大いに酺す。天下の兵を収め、之を咸陽に聚め、銷して以て鐘鐻・金人十二と為す。重さ各千石、廷宮の中に置く。法度・衡石・丈尺を一にす。車は軌を同じくす。書は文字を同じくす。地は東は海に至りて朝鮮に暨び、西は臨洮・羌中に至り、南は北向戸に至り、北は河に拠りて塞と為し、陰山に并ひて遼東に至る。天下の豪富を咸陽に徙すこと十二万戸。諸廟及び章台・上林は皆渭南に在り。

現代語訳

始皇帝は五行の徳が順に巡るという説を推し進め、周は火の徳を得ており、秦は周の徳に代わるのだから、火に勝つ水の徳に従うと考えた。今こそ水の徳の始まりである。そこで年の始まりを改め、朝賀はすべて十月一日に行うことにした。衣服・旗・割符・旗印はすべて黒を尊んだ。数は六を基準とし、割符や法官の冠はみな六寸、車の幅は六尺、六尺を一歩とし、六頭立ての馬車に乗った。黄河を徳水と改名し、水の徳の始まりとした。厳しく強硬で容赦がなく、事はすべて法によって決め、情け容赦なく削り取って、仁愛や恩恵、和らぎや義理を顧みなかった。そうしてこそ五行の徳の数理に合うとされた。こうして法を厳しくし、罪を犯して時がたった者も赦さなかった。丞相の王綰らは進言した。「諸侯を打ち破ったばかりで、燕・斉・荊の地は遠く、そこに王を置かなければ押さえることができない。どうか皇子たちを王に立てることを、陛下にお許しいただきたい。」始皇帝はこの議論を群臣に下した。群臣はみな良い案だとした。廷尉の李斯は議論して言った。「周の文王・武王が封じた子弟や同姓の者は非常に多かった。しかし代が下ると血縁は疎遠になり、仇敵のように攻撃し合い、諸侯は互いに討ち合って、周の天子はそれを止められなかった。今、天下は陛下の神霊のおかげで統一され、すべて郡県となった。皇子や功臣には国の税収から手厚く褒美を与えれば、十分に報いることができ、しかも統制しやすい。天下に異心を抱く者がいないことこそ、安寧を保つ方法である。諸侯を置くのは良くない。」始皇帝は言った。「天下の人々がともに戦争のやまないことに苦しんできたのは、諸侯や王がいたからである。宗廟の祖先のおかげで、天下はようやく定まった。それなのにまた国を立てるのは、戦争の種を植えるようなものだ。それで平和を求めるのは難しいではないか。廷尉の意見が正しい。」天下を分けて三十六郡とし、郡ごとに守(長官)・尉(軍事)・監(監察)を置いた。民の呼び名を改めて「黔首」とした。天下に大宴会を許した。天下の武器を没収して咸陽に集め、溶かして鐘をかける台と、金属の人像十二体を鋳造した。それぞれの重さは千石で、宮廷の中に置いた。法制、重さの単位、長さの単位を統一した。車の車輪の幅を同じにした。書き言葉の文字を統一した。領土は東は海に至って朝鮮に及び、西は臨洮・羌中に至り、南は北向戸に至り、北は黄河に沿って砦を築き、陰山に沿って遼東に至った。天下の豪族や富豪十二万戸を咸陽に移住させた。多くの廟と章台・上林苑は、みな渭水の南にあった。

解説

統一直後の始皇帝が打ち出した、国家の仕組みづくりの全体像です。五行説に基づき、秦は水の徳の王朝として、暦の始まりを十月とし、色は黒、数は六を基準としました。最大の論点は、統一した天下をどう治めるかでした。丞相の王綰らは、遠方の地には皇子を王として封じるべきだと主張し、群臣もみな賛成します。これに一人反対したのが李斯でした。周は一族を封じたが、代を経て疎遠になり、互いに争って天子も止められなかった。皇子や功臣には税収から褒美を与えれば十分で、統制もしやすい、と。始皇帝はこれを採用し、全国を三十六郡に分けて中央から役人を派遣する郡県制を敷きました。さらに武器の没収、度量衡・車輪の幅・文字の統一と、中国が一つの国として続く基盤がここで作られます。多数意見に流されず、制度の長期的な帰結から判断した点は見事です。ただし「仁愛や恩恵を顧みず、事はすべて法で決めた」とあるように、厳格一辺倒の統治が、後に大きな反発を招くことになります。

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