維摩経 / 文殊師利問疾品第五(5)
如是兼除老病死者菩薩之謂也。彼有疾菩薩應復作是念。如我此病非真非有。眾生病亦非真非有。作是觀時。於諸眾生若起愛見大悲。即應捨離。所以者何。菩薩斷除客塵煩惱而起大悲。愛見悲者則於生死有疲厭心。若能離此無有疲厭。在在所生不為愛見之所覆也。所生無縛能為眾生說法解縛。如佛所說。若自有縛能解彼縛無有是處。若自無縛。能解彼縛斯有是處。是故菩薩不應起縛。何謂縛何謂解。貪著禪味是菩薩縛。以方便生是菩薩解。又無方便慧縛。有方便慧解。無慧方便縛。有慧方便解。何謂無方便慧縛。謂菩薩以愛見心。莊嚴佛土成就眾生。於空無相無作法中而自調伏。是名無方便慧縛。何謂有方便慧解。謂不以愛見心莊嚴佛土成就眾生。於空無相無作法中。以自調伏而不疲厭。是名有方便慧解。何謂無慧方便縛。謂菩薩住貪欲瞋恚邪見等諸煩惱。而植眾德本。是名無慧方便縛。何謂有慧方便解。謂離諸貪欲瞋恚邪見等諸煩惱。而植眾德本。迴向阿耨多羅三藐三菩提。是名有慧方便解。文殊師利。彼有疾菩薩應如是觀諸法。又復觀身無常苦空非我。是名為慧。雖身有疾常在生死。饒益一切而不厭倦。是名方便。又復觀身身不離病病不離身。是病是身非新非故。是名為慧。設身有疾而不永滅。是名方便。
新字:如是兼除老病死者菩薩之謂也。彼有疾菩薩応復作是念。如我此病非真非有。衆生病亦非真非有。作是観時。於諸衆生若起愛見大悲。即応捨離。所以者何。菩薩断除客塵煩悩而起大悲。愛見悲者則於生死有疲厭心。若能離此無有疲厭。在在所生不為愛見之所覆也。所生無縛能為衆生説法解縛。如仏所説。若自有縛能解彼縛無有是処。若自無縛。能解彼縛斯有是処。是故菩薩不応起縛。何謂縛何謂解。貪著禅味是菩薩縛。以方便生是菩薩解。又無方便慧縛。有方便慧解。無慧方便縛。有慧方便解。何謂無方便慧縛。謂菩薩以愛見心。荘厳仏土成就衆生。於空無相無作法中而自調伏。是名無方便慧縛。何謂有方便慧解。謂不以愛見心荘厳仏土成就衆生。於空無相無作法中。以自調伏而不疲厭。是名有方便慧解。何謂無慧方便縛。謂菩薩住貪欲瞋恚邪見等諸煩悩。而植衆徳本。是名無慧方便縛。何謂有慧方便解。謂離諸貪欲瞋恚邪見等諸煩悩。而植衆徳本。迴向阿耨多羅三藐三菩提。是名有慧方便解。文殊師利。彼有疾菩薩応如是観諸法。又復観身無常苦空非我。是名為慧。雖身有疾常在生死。饒益一切而不厭倦。是名方便。又復観身身不離病病不離身。是病是身非新非故。是名為慧。設身有疾而不永滅。是名方便。
書き下し
是の如く老病死を兼ね除く者は、菩薩の謂いなり。彼の有疾の菩薩は、応に復た是の念を作すべし。我が此の病の如く、非真非有なり。衆生の病も亦た非真非有なり。是の観を作す時、諸の衆生に於いて若し愛見の大悲を起こさば、即ち応に捨離すべし。所以は何ん。菩薩は客塵の煩悩を断除して大悲を起こす。愛見の悲とは、則ち生死に於いて疲厭の心有り。若し能く此れを離るれば疲厭有ること無く、在在の所生に愛見の覆う所と為らず。所生に縛無くして、能く衆生の為に法を説きて縛を解く。仏の説きたまう所の如し、若し自ら縛有れば能く彼の縛を解くこと、是の処有ること無し。若し自ら縛無くば、能く彼の縛を解くこと、斯の処有り。是の故に菩薩は縛を起こすべからず。何をか縛と謂い、何をか解と謂う。禅味に貪著するは是れ菩薩の縛なり。方便を以て生ずるは是れ菩薩の解なり。又、方便無き慧は縛、方便有る慧は解、慧無き方便は縛、慧有る方便は解なり。何をか方便無き慧の縛と謂う。謂わく、菩薩、愛見の心を以て仏土を荘厳し衆生を成就し、空・無相・無作の法の中に於いて自ら調伏するを、是れを方便無き慧の縛と名づく。何をか方便有る慧の解と謂う。謂わく、愛見の心を以て仏土を荘厳し衆生を成就せず、空・無相・無作の法の中に於いて、自ら調伏するを以て而も疲厭せざるを、是れを方便有る慧の解と名づく。何をか慧無き方便の縛と謂う。謂わく、菩薩、貪欲・瞋恚・邪見等の諸の煩悩に住して、而も衆の徳本を植うるを、是れを慧無き方便の縛と名づく。何をか慧有る方便の解と謂う。謂わく、諸の貪欲・瞋恚・邪見等の諸の煩悩を離れて、而も衆の徳本を植え、阿耨多羅三藐三菩提に迴向するを、是れを慧有る方便の解と名づく。文殊師利、彼の有疾の菩薩は、応に是の如く諸法を観ずべし。又復た身は無常・苦・空・非我なりと観ずる、是れを慧と為す。身に疾有りと雖も常に生死に在りて、一切を饒益して厭倦せざる、是れを方便と為す。又復た身を観るに、身は病を離れず、病は身を離れず。是の病、是の身、新に非ず故に非ずと観ずる、是れを慧と為す。設い身に疾有るも永く滅せざる、是れを方便と為す。
現代語訳
このように老・病・死をあわせて除く人こそが、菩薩と呼ばれます。病気の菩薩は、さらにこう考えるべきです。私のこの病が、真実でもなく実在でもないのと同じように、衆生の病もまた真実でも実在でもない。このように観じるとき、もし衆生に対して愛着や偏った見方から大悲を起こすなら、すぐにそれを手放すべきです。なぜなら、菩薩は外から来る塵のような煩悩を断って大悲を起こすからです。愛着や偏見による悲は、生死の世界で疲れ厭う心を生みます。もしこれを離れることができれば疲れ厭うことがなく、どこに生まれても愛着や偏見に覆われません。生まれた先で縛られることがなく、衆生のために法を説いて縛りを解くことができます。仏が説かれたとおりです。自分に縛りがあるのに他者の縛りを解くことは、ありえません。自分に縛りがなければ、他者の縛りを解くことができます。だから菩薩は、自ら縛りを作ってはなりません。何を縛りといい、何を解といいますか。禅定の味わいに貪り執着することは、菩薩の縛りです。方便によって生まれ変わることは、菩薩の解です。また、方便のない智慧は縛り、方便のある智慧は解、智慧のない方便は縛り、智慧のある方便は解です。方便のない智慧の縛りとは何でしょうか。菩薩が愛着や偏見の心で仏国土を荘厳し衆生を成就させ、空・無相・無作の法の中で自ら心を調え伏する、これを方便のない智慧の縛りと名づけます。方便のある智慧の解とは何でしょうか。愛着や偏見の心で仏国土を荘厳したり衆生を成就させたりせず、空・無相・無作の法の中で、自ら心を調え伏しながら疲れ厭わない、これを方便のある智慧の解と名づけます。智慧のない方便の縛りとは何でしょうか。菩薩が貪欲、瞋恚、誤った見解などの煩悩にとどまったまま、多くの徳の根を植える、これを智慧のない方便の縛りと名づけます。智慧のある方便の解とは何でしょうか。貪欲、瞋恚、誤った見解などの煩悩を離れて、多くの徳の根を植え、阿耨多羅三藐三菩提に振り向ける、これを智慧のある方便の解と名づけます。文殊師利よ、病気の菩薩は、このようにあらゆる法を観じなさい。また、身体は無常で、苦で、空であり、我ではないと観じること、これが智慧です。身に病があっても常に生死の世界にとどまり、すべてを利益して厭い疲れないこと、これが方便です。また、身体を観じると、身体は病を離れず、病は身体を離れません。この病、この身体は、新しいものでも古いものでもないと観じること、これが智慧です。たとえ身に病があっても永久に滅しないこと、これが方便です。
解説

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