維摩経 / 文殊師利問疾品第五(4)
文殊師利言。居士。有疾菩薩云何調伏其心。維摩詰言。有疾菩薩應作是念。今我此病皆從前世妄想顛倒諸煩惱生。無有實法誰受病者。所以者何。四大合故假名為身。四大無主身亦無我。又此病起皆由著我。是故於我不應生著。既知病本即除我想及眾生想。當起法想。應作是念。但以眾法合成此身。起唯法起滅唯法滅。又此法者各不相知。起時不言我起。滅時不言我滅。彼有疾菩薩為滅法想。當作是念。此法想者亦是顛倒。顛倒者是即大患。我應離之。云何為離。離我我所。云何離我我所。謂離二法。云何離二法。謂不念內外諸法行於平等。云何平等。為我等涅槃等。所以者何。我及涅槃此二皆空。以何為空。但以名字故空。如此二法無決定性。得是平等無有餘病。唯有空病空病亦空。是有疾菩薩以無所受而受諸受。未具佛法亦不滅受而取證也。設身有苦念惡趣眾生起大悲心。我既調伏亦當調伏一切眾生。但除其病而不除法。為斷病本而教導之。何謂病本。謂有攀緣。從有攀緣則為病本。何所攀緣謂之三界。云何斷攀緣以無所得。若無所得則無攀緣。何謂無所得。謂離二見。何謂二見。謂內見外見是無所得。文殊師利。是為有疾菩薩調伏其心。為斷老病死苦是菩薩菩提。若不如是己所修治為無慧利。譬如勝怨乃可為勇。
新字:文殊師利言。居士。有疾菩薩云何調伏其心。維摩詰言。有疾菩薩応作是念。今我此病皆従前世妄想顛倒諸煩悩生。無有実法誰受病者。所以者何。四大合故仮名為身。四大無主身亦無我。又此病起皆由著我。是故於我不応生著。既知病本即除我想及衆生想。当起法想。応作是念。但以衆法合成此身。起唯法起滅唯法滅。又此法者各不相知。起時不言我起。滅時不言我滅。彼有疾菩薩為滅法想。当作是念。此法想者亦是顛倒。顛倒者是即大患。我応離之。云何為離。離我我所。云何離我我所。謂離二法。云何離二法。謂不念内外諸法行於平等。云何平等。為我等涅槃等。所以者何。我及涅槃此二皆空。以何為空。但以名字故空。如此二法無決定性。得是平等無有余病。唯有空病空病亦空。是有疾菩薩以無所受而受諸受。未具仏法亦不滅受而取証也。設身有苦念悪趣衆生起大悲心。我既調伏亦当調伏一切衆生。但除其病而不除法。為断病本而教導之。何謂病本。謂有攀縁。従有攀縁則為病本。何所攀縁謂之三界。云何断攀縁以無所得。若無所得則無攀縁。何謂無所得。謂離二見。何謂二見。謂内見外見是無所得。文殊師利。是為有疾菩薩調伏其心。為断老病死苦是菩薩菩提。若不如是己所修治為無慧利。譬如勝怨乃可為勇。
書き下し
文殊師利言わく、「居士、有疾の菩薩は云何が其の心を調伏する」と。維摩詰言わく、「有疾の菩薩は応に是の念を作すべし。今、我が此の病は皆前世の妄想顛倒、諸の煩悩より生ず。実法有ること無し、誰か病を受くる者ならん。所以は何ん。四大合するが故に仮に名づけて身と為す。四大に主無く、身にも亦我無し。又、此の病の起こるは皆我に著するに由る。是の故に我に於いて応に著を生ずべからず。既に病の本を知らば、即ち我想及び衆生想を除き、当に法想を起こすべし。応に是の念を作すべし、但だ衆法を以て此の身を合成す。起こるは唯だ法の起こるのみ、滅するは唯だ法の滅するのみ。又、此の法は各おの相知らず。起こる時に我起こると言わず、滅する時に我滅すと言わず。彼の有疾の菩薩は法想を滅せんが為に、当に是の念を作すべし、此の法想なる者も亦是れ顛倒なり。顛倒なる者は是れ即ち大患なり。我れ応に之を離るべし。云何が離るると為す。我・我所を離る。云何が我・我所を離る。謂わく二法を離る。云何が二法を離る。謂わく内外の諸法を念ぜずして平等を行ず。云何が平等なる。我等しく涅槃等しきと為す。所以は何ん。我及び涅槃、此の二は皆空なればなり。何を以て空と為す。但だ名字を以ての故に空なり。此の如き二法は決定の性無し。是の平等を得れば余の病有ること無く、唯だ空病有り。空病も亦空なり。是の有疾の菩薩は、受くる所無きを以て而も諸受を受く。未だ仏法を具せずと雖も、亦た受を滅して証を取らず。設い身に苦有らば、悪趣の衆生を念じて大悲心を起こす。我れ既に調伏せり、亦当に一切衆生を調伏すべし。但だ其の病を除きて、法を除かず。病の本を断たんが為に之を教導す。何をか病の本と謂う。謂わく攀縁有るなり。攀縁有るに従りて則ち病の本と為る。何の所にか攀縁する。之を三界と謂う。云何が攀縁を断つ。無所得を以てす。若し無所得なれば則ち攀縁無し。何をか無所得と謂う。謂わく二見を離るるなり。何をか二見と謂う。謂わく内見外見、是れ無所得なり。文殊師利、是れを有疾の菩薩の其の心を調伏すと為す。老病死の苦を断ぜんが為なるは是れ菩薩の菩提なり。若し是の如くならずんば己が修治する所は慧利無しと為す。譬えば怨に勝ちて乃ち勇と為す可きが如し」と。
現代語訳
文殊師利は言いました。「居士よ、病気の菩薩は、どのようにその心を調え伏するのですか。」維摩詰は言いました。「病気の菩薩は、こう考えるべきです。いま私のこの病は、すべて前世からの妄想や顛倒、もろもろの煩悩から生じたものである。実体のある法などなく、誰が病を受けているというのか。なぜなら、四大が合わさったために、仮に身と名づけているにすぎない。四大に主はなく、身にもまた我はない。またこの病が起こるのは、すべて我への執着によるのである。だから我に執着を生じてはならない。病の根本を知ったなら、我という思いと衆生という思いを除き、法という思いを起こすべきである。こう考えなさい。ただ多くの法によってこの身が合わさってできている。起こるのはただ法が起こるだけ、滅するのはただ法が滅するだけである。またこれらの法は、それぞれお互いを知らない。起こるとき、私が起こるとは言わず、滅するとき、私が滅するとは言わない。さて、その病気の菩薩は、法という思いも滅するために、こう考えるべきです。この法という思いもまた顛倒である。顛倒こそ大きな患いである。私はこれを離れなければならない。どのように離れるのか。我と我がものを離れる。どのように我と我がものを離れるのか。二つの法を離れることである。どのように二つの法を離れるのか。内と外のあらゆる法を思わず、平等を行ずることである。何が平等か。我が平等であり、涅槃が平等であることである。なぜなら、我と涅槃の二つはともに空だからである。何によって空というのか。ただ名前だけだから空である。このような二つの法には、決まった性質がない。この平等を得れば、他の病はなく、ただ空の病があるだけです。その空の病もまた空です。この病気の菩薩は、受けるものがないという心で、さまざまな感受を受けます。まだ仏の法を備えていなくても、感受を滅して悟りの証を取ろうとはしません。たとえ身に苦があっても、悪い世界にいる衆生を思って大いなる悲の心を起こします。私はすでに調え伏した、これからすべての衆生を調え伏そう。ただその病を除くだけで、法は除きません。病の根本を断つために、人々を教え導きます。病の根本とは何でしょうか。攀縁(しがみつくこと)があることです。攀縁があることが病の根本です。何にしがみつくのでしょうか。三界にです。どのようにして攀縁を断つのでしょうか。何も得るものがないという心によってです。何も得るものがなければ、攀縁はありません。何も得るものがないとはどういうことか。二つの見方を離れることです。二つの見方とは何か。内という見方と外という見方です。それが得るもののないということです。文殊師利よ、これが病気の菩薩が自分の心を調え伏するということです。老・病・死の苦を断つことが菩薩の菩提です。もしそうでなければ、自分が修め治めたことは智慧の利益がないことになります。たとえば、恨みの相手に勝ってはじめて勇者と言えるようなものです。」
解説

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