維摩経 / 文殊師利問疾品第五(6)
文殊師利。有疾菩薩應如是調伏其心不住其中。亦復不住不調伏心。所以者何。若住不調伏心是愚人法。若住調伏心是聲聞法。是故菩薩不當住於調伏不調伏心。離此二法是菩薩行。在於生死不為污行。住於涅槃不永滅度。是菩薩行。非凡夫行非賢聖行。是菩薩行。非垢行非淨行。是菩薩行。雖過魔行。而現降眾魔。是菩薩行。求一切智無非時求。是菩薩行。雖觀諸法不生而不入正位。是菩薩行。雖觀十二緣起而入諸邪見。是菩薩行。雖攝一切眾生而不愛著。是菩薩行。雖樂遠離而不依身心盡。是菩薩行。雖行三界而不壞法性。是菩薩行。雖行於空而植眾德本。是菩薩行。雖行無相而度眾生。是菩薩行。雖行無作而現受身。是菩薩行。雖行無起而起一切善行。是菩薩行。雖行六波羅蜜而遍知眾生心心數法。是菩薩行。
新字:文殊師利。有疾菩薩応如是調伏其心不住其中。亦復不住不調伏心。所以者何。若住不調伏心是愚人法。若住調伏心是声聞法。是故菩薩不当住於調伏不調伏心。離此二法是菩薩行。在於生死不為汚行。住於涅槃不永滅度。是菩薩行。非凡夫行非賢聖行。是菩薩行。非垢行非浄行。是菩薩行。雖過魔行。而現降衆魔。是菩薩行。求一切智無非時求。是菩薩行。雖観諸法不生而不入正位。是菩薩行。雖観十二縁起而入諸邪見。是菩薩行。雖摂一切衆生而不愛著。是菩薩行。雖楽遠離而不依身心尽。是菩薩行。雖行三界而不壊法性。是菩薩行。雖行於空而植衆徳本。是菩薩行。雖行無相而度衆生。是菩薩行。雖行無作而現受身。是菩薩行。雖行無起而起一切善行。是菩薩行。雖行六波羅蜜而遍知衆生心心数法。是菩薩行。
書き下し
文殊師利、有疾の菩薩は応に是の如く其の心を調伏して其の中に住せざるべし。亦復た調伏せざる心にも住せず。所以は何ん。若し調伏せざる心に住せば是れ愚人の法なり。若し調伏する心に住せば是れ声聞の法なり。是の故に菩薩は調伏と不調伏の心に住すべからず。此の二法を離るるは是れ菩薩の行なり。生死に在りて污行を為さず、涅槃に住して永く滅度せざるは、是れ菩薩の行なり。凡夫の行に非ず、賢聖の行に非ざるは、是れ菩薩の行なり。垢の行に非ず、浄の行に非ざるは、是れ菩薩の行なり。魔の行を過ぐと雖も、而も衆魔を降すを現ずるは、是れ菩薩の行なり。一切智を求めて非時の求無きは、是れ菩薩の行なり。諸法の不生を観ずと雖も、而も正位に入らざるは、是れ菩薩の行なり。十二縁起を観ずと雖も、而も諸の邪見に入るは、是れ菩薩の行なり。一切衆生を摂すと雖も、而も愛著せざるは、是れ菩薩の行なり。遠離を楽しむと雖も、而も身心の尽くるに依らざるは、是れ菩薩の行なり。三界を行ずと雖も、而も法性を壊せざるは、是れ菩薩の行なり。空を行ずと雖も、而も衆の徳本を植うるは、是れ菩薩の行なり。無相を行ずと雖も、而も衆生を度するは、是れ菩薩の行なり。無作を行ずと雖も、而も受身を現ずるは、是れ菩薩の行なり。無起を行ずと雖も、而も一切の善行を起こすは、是れ菩薩の行なり。六波羅蜜を行ずと雖も、而も遍く衆生の心・心数の法を知るは、是れ菩薩の行なり。
現代語訳
文殊師利よ、病気の菩薩は、このように自分の心を調え伏しながら、その調え伏した状態にとどまってはなりません。また、調え伏していない心にもとどまってはなりません。なぜなら、調え伏していない心にとどまるのは愚かな人のやり方であり、調え伏した心にとどまるのは声聞のやり方だからです。だから菩薩は、調え伏した心にも調え伏していない心にもとどまってはなりません。この二つを離れることが、菩薩の行いです。生死の世界にあって汚れた行いをせず、涅槃にとどまりながら永久に滅し尽くさないこと、これが菩薩の行いです。凡夫の行いでもなく、賢者や聖者の行いでもないこと、これが菩薩の行いです。垢れた行いでも清らかな行いでもないこと、これが菩薩の行いです。魔の行いを越えていながら、多くの魔を降す姿を現すこと、これが菩薩の行いです。一切智を求めながら、時ならぬ求めをしないこと、これが菩薩の行いです。あらゆる法が生じないと観じていながら、正位に入って安住しないこと、これが菩薩の行いです。十二縁起を観じていながら、あえてさまざまな誤った見解の中に入ること、これが菩薩の行いです。すべての衆生を引き受けながら、愛着しないこと、これが菩薩の行いです。遠く離れることを楽しみながら、身心が尽きることに頼らないこと、これが菩薩の行いです。三界の中で行いながら、法の本性を壊さないこと、これが菩薩の行いです。空を行じながら、多くの徳の根を植えること、これが菩薩の行いです。無相を行じながら、衆生を救うこと、これが菩薩の行いです。無作を行じながら、身を受けて現れること、これが菩薩の行いです。無起を行じながら、あらゆる善い行いを起こすこと、これが菩薩の行いです。六波羅蜜を行じながら、衆生の心と心の働きを広く知ること、これが菩薩の行いです。
解説

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