山鹿語類 / 士道・明衣服之制
次に男女の服制のことあり。女の服王后より士庶人の妻に至るまで尤其制あり。周禮に追師の官あつて、王公の首服を司どり、內司服あつて王后の六服を司。其制詳に周禮に出で、歷代の制法皆文献通考に出せり。其形三才圖會にのす。是を以可考。本朝の制衣服令に出で、唐の制に准す。是又德を表し威儀をしめして、色容の飾とすべからず。二儀實祿曰。爰自黃帝爲冠冕。而婦人之首飾無文。至周亦不過副笄而已。漢宮掖承恩者。始賜碧或緋美容冠子。則其物自漢始也。又曰。燧人氏婦人始束髮爲髻。至周王后首飾爲副編。鄭云。三輔謂之假髮。又曰。燧人始爲髻。女以荆杖及竹爲笄。以貫髮。至堯以銅爲之。且橫貫之。舜雜以象牙玳瑁。郭憲洞冥記曰。漢武帝元鼎元年。有神女。留玉釵與帝。故宮人作玉釵と也。女の髮の飾さま〴〵多く、容色に白粉紅臙をぬること、皆古來三代の制にあらず。燕脂起自紂。以紅藍花汁凝作之。調脂飾女面。產於燕地。故曰燕脂といへり。白土粉水銀粉を用て面に抹すること、猶古の制にあらず。唯色に耽るがゆゑに其かざりを專とするになれり。尤可歎息也。
新字:次に男女の服制のことあり。女の服王后より士庶人の妻に至るまで尤其制あり。周礼に追師の官あつて、王公の首服を司どり、内司服あつて王后の六服を司。其制詳に周礼に出で、歴代の制法皆文献通考に出せり。其形三才図会にのす。是を以可考。本朝の制衣服令に出で、唐の制に准す。是又徳を表し威儀をしめして、色容の飾とすべからず。二儀実禄曰。爰自黄帝為冠冕。而婦人之首飾無文。至周亦不過副笄而已。漢宮掖承恩者。始賜碧或緋美容冠子。則其物自漢始也。又曰。燧人氏婦人始束髪為髻。至周王后首飾為副編。鄭云。三輔謂之仮髪。又曰。燧人始為髻。女以荆杖及竹為笄。以貫髪。至堯以銅為之。且横貫之。舜雑以象牙玳瑁。郭憲洞冥記曰。漢武帝元鼎元年。有神女。留玉釵与帝。故宮人作玉釵と也。女の髪の飾さま〴〵多く、容色に白粉紅臙をぬること、皆古来三代の制にあらず。燕脂起自紂。以紅藍花汁凝作之。調脂飾女面。産於燕地。故曰燕脂といへり。白土粉水銀粉を用て面に抹すること、猶古の制にあらず。唯色に耽るがゆゑに其かざりを専とするになれり。尤可嘆息也。
書き下し
次に男女の服制のことあり。女の服王后より士庶人の妻に至るまで尤其制あり。周礼に追師の官あつて、王公の首服を司どり、内司服あつて王后の六服を司。其制詳に周礼に出で、歴代の制法皆文献通考に出せり。其形三才図会にのす。是を以可考。本朝の制衣服令に出で、唐の制に准す。是又徳を表し威儀をしめして、色容の飾とすべからず。二儀実禄曰。爰自黄帝為冠冕。而婦人之首飾無文。至周亦不過副笄而已。漢宮掖承恩者。始賜碧或緋美容冠子。則其物自漢始也。又曰。燧人氏婦人始束髪為髻。至周王后首飾為副編。鄭云。三輔謂之仮髪。又曰。燧人始為髻。女以荆杖及竹為笄。以貫髪。至堯以銅為之。且横貫之。舜雑以象牙玳瑁。郭憲洞冥記曰。漢武帝元鼎元年。有神女。留玉釵与帝。故宮人作玉釵と也。女の髪の飾さま〴〵多く、容色に白粉紅臙をぬること、皆古来三代の制にあらず。燕脂起自紂。以紅藍花汁凝作之。調脂飾女面。産於燕地。故曰燕脂といへり。白土粉水銀粉を用て面に抹すること、猶古の制にあらず。唯色に耽るがゆゑに其かざりを専とするになれり。尤可嘆息也。
現代語訳
次に男女の服制のことがある。女の服も、王后から士・庶人の妻に至るまで、とりわけその制度がある。『周礼』に追師の官があって王公の首服(髪飾り)をつかさどり、内司服があって王后の六服をつかさどった。その制度は詳しく『周礼』に出ており、歴代の制法はみな『文献通考』に出ている。その形は『三才図会』に載っている。これによって考えるべきである。わが国の制度は衣服令に出ていて、唐の制度に準じている。これもまた徳を表し威儀を示すもので、容色の飾りとしてはならない。『二儀実録』に言う。「黄帝が冠冕を作ってより、婦人の髪飾りには文飾がなかった。周に至っても副(髪飾り)と笄(かんざし)にすぎなかった。漢の後宮で寵愛を受けた者に、初めて碧や緋の美容冠子を賜った。とすればその物は漢から始まったのである」。また言う。「燧人氏の時、婦人が初めて髪を束ねて髻とした。周に至って王后の髪飾りを副や編とした」。鄭玄は「三輔(長安周辺)ではこれを仮髪という」と言う。また言う。「燧人氏が初めて髻を作った。女は荊の枝や竹で笄を作って髪を貫いた。堯に至って銅で作り、しかも横に貫いた。舜は象牙や玳瑁(べっこう)を交えた」。郭憲の『洞冥記』に言う。「漢の武帝の元鼎元年、神女が現れて玉の釵(かんざし)を帝に残した。ゆえに宮人は玉の釵を作った」という。女の髪飾りがさまざまに多く、顔に白粉や紅を塗ることは、みな古来の三代の制度ではない。「臙脂は殷の紂王から起こった。紅藍の花の汁を凝らして作り、脂に調えて女の顔を飾った。燕の地に産するので燕脂という」と言っている。白土の粉や水銀の粉を用いて顔に塗ることも、なお古の制度ではない。ただ色に耽るので、その飾りを第一とするようになったのである。まことに嘆くべきである。
解説
この章句が説くこと
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論語・為政篇子曰く、之を道びくに政を以てし、之を斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥無し。之を道びくに徳を以てし、之を斉うるに礼を以てすれば、恥有り且つ格(いた)る。
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司馬法・天子之義礼を以て固と為し、仁を以て勝と為す。
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『学則』答屈景山書夫れ学問なる者は君子の事なり。君子は争ふ所無し。争へば斯ち徳を害す。問ふ者は弟子の事なり。弟子の礼を秉りて訟ふる者の鬩ぎを用ふ。鬩げば斯ち礼を害す。徳と礼とを害する者は、君子由らざるなり。孟子の弁を好みて楊墨を闢けしより、其の時の已むを得ざるに由ると雖も、亦た古の道に非ざるなり。不佞窃かに焉を惜しむ。爾後、稷下の市学、田巴一日に千人を服す。流風の扇ぐ所、是非蜂涌し、百世に紛呶たり。悲しいかな。彼の浮屠の勘弁有るが若きは、則ち亦た訟へを聴く者の道なり。儒の黠き者、陰かに其の術を操り、以て人を窺ひて自ら憙ぶ。乃ち名教の罪人なり。
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『弁名』義「徳義の経」と曰ふ者有り。徳は人を以て之を言ひ、義は事を以て之を言ふ。故に古に是の言有り。「徳の則、義の府」の如きも、亦た徳義を以て対言す。「天の経、地の義なり」と曰ふ者有り。礼を賛するの言なり。経とは、礼の大なる者、能く衆義を持すること、経緯の経の如きを謂ふ。義とは、礼の細なる者、各〻其の宜しきを制するを謂ふ。之を天地と謂ふ所以は、賛辞のみ。
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『春秋左氏伝』襄公四年 多く無礼を行えば必ず自ら及ぶ秋、定姒薨ず。廟に殯せず、櫬無く、虞せず。匠慶、季文子に謂ひて曰く、「子は正卿たり。而るに小君の喪成らず。君を終へざるなり。君長ぜば、誰か其の咎を受けん」と。初め、季孫、己の爲に六檟を蒲圃の東門の外に樹う。匠慶、木を請ふ。季孫曰く、「略(と)れ」と。匠慶、蒲圃の檟を用ゐる。季孫御(ふせ)がず。君子曰く、「志に所謂『多く無禮を行へば、必ず自ら及ぶ』とは、其れ是の謂ひか」と。冬、公、晉に如きて政を聽く。晉侯、公を享す。公、鄫を屬せんことを請ふ。晉侯許さず。孟獻子曰く、「寡君の仇讎に密邇するを以て、而も願ひて固く君に事へ、官命を失ふこと無からんとす。鄫は司馬に賦すること無し。執事の朝夕の命を敝邑に爲すに、敝邑は褊小なり。闕けば寡君の罪と爲る。寡君是を以て焉に助けを借らんことを願ふ」と。晉侯之を許す。楚人、頓をして陳を間(うかが)はしめ、之を侵伐す。故に陳人、頓を圍む。無終子嘉父、孟樂をして晉に如かしめ、魏莊子に因りて虎豹の皮を納れ、以て諸戎を和せんことを請ふ。晉侯曰く、「戎狄は親無くして貪る。之を伐つに如かず」と。魏絳曰く、「諸侯新たに服し、陳新たに來り和す。將に我を觀んとす。我德あらば則ち睦まん。否ならば則ち攜貳せん。
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『学則』對西肥水秀才問足下の荘子・経解の言を疑ふも、亦た不佞と符す。周礼は則ち周官なり。然れども礼の体統は甚だ大にして、凡そ先王の天下を経紀する所以は全く此に在り。而して道の大なる、礼之を尽くす。左氏の称する所の「是れ礼なり」の類、以て想ふべし。世儒は五礼六楽の言に泥みて、止だ吉・凶・軍・賓・嘉を以て礼を尽くすと為す。殊に知らず、五礼六楽は乃ち大司徒の教ふる所の目にして、礼を尽くすに非ざることを。此の意、戴記に考ふれば自ら明らかなり。此を以て之を観れば、周官の周礼たるも亦た古言にして疑ひ無し。不佞の古を求むるは、必ず事と辞とを以てす。事は則ち三礼より詳らかなるは莫し。故に不佞以為へらく、士三礼に通ぜずんば、以て古を好むと為すに足らずと。
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