山鹿語類 / 士道・明衣服之制
次に冠のことは、上古衣毛冒皮、後代聖人見鳥獸冠角、乃作冠纓、黃帝造旒冕、始用布帛といへり。案ずるに人の身各其あらはるる所なからしめて、頭に至ては其服なし。こゝを以て首服を制して、其生質の膚をかくし禮を節す。而して冠に品を定め、上下貴賤をわかてる也。凡そ天子の冠を冕といふ。公卿大夫に至るまで、其品をわけて大禮の時用之。漢制度曰、冕制長尺六寸、廣八寸、前圓後方、其旒皆以五采絲繩貫五采玉、毎旒各十二、垂於冕、有六冕、裘冕無旒大裘而冕也、祭昊天上帝之服也、衮冕十二章、衮衣之時冕十二旒享先王鷩冕九旒祀先公毳冕七旒祀山川絺冕五旒祭社稷玄冕三旒、群小祀。以上これを六冕と云。冠の制歷代に相かはれり具に文献通考に出之。三才圖繪に其制を圖せり。士は皮弁を服す。冕の制にこと也。
新字:次に冠のことは、上古衣毛冒皮、後代聖人見鳥獣冠角、乃作冠纓、黄帝造旒冕、始用布帛といへり。案ずるに人の身各其あらはるる所なからしめて、頭に至ては其服なし。こゝを以て首服を制して、其生質の膚をかくし礼を節す。而して冠に品を定め、上下貴賤をわかてる也。凡そ天子の冠を冕といふ。公卿大夫に至るまで、其品をわけて大礼の時用之。漢制度曰、冕制長尺六寸、広八寸、前円後方、其旒皆以五采糸縄貫五采玉、毎旒各十二、垂於冕、有六冕、裘冕無旒大裘而冕也、祭昊天上帝之服也、衮冕十二章、衮衣之時冕十二旒享先王鷩冕九旒祀先公毳冕七旒祀山川絺冕五旒祭社稷玄冕三旒、群小祀。以上これを六冕と云。冠の制歴代に相かはれり具に文献通考に出之。三才図絵に其制を図せり。士は皮弁を服す。冕の制にこと也。
書き下し
次に冠のことは、上古衣毛冒皮、後代聖人見鳥獣冠角、乃作冠纓、黄帝造旒冕、始用布帛といへり。案ずるに人の身各其あらはるる所なからしめて、頭に至ては其服なし。こゝを以て首服を制して、其生質の膚をかくし礼を節す。而して冠に品を定め、上下貴賤をわかてる也。凡そ天子の冠を冕といふ。公卿大夫に至るまで、其品をわけて大礼の時用之。漢制度曰、冕制長尺六寸、広八寸、前円後方、其旒皆以五采糸縄貫五采玉、毎旒各十二、垂於冕、有六冕、裘冕無旒大裘而冕也、祭昊天上帝之服也、衮冕十二章、衮衣之時冕十二旒享先王鷩冕九旒祀先公毳冕七旒祀山川絺冕五旒祭社稷玄冕三旒、群小祀。以上これを六冕と云。冠の制歴代に相かはれり具に文献通考に出之。三才図絵に其制を図せり。士は皮弁を服す。冕の制にこと也。
現代語訳
次に冠のことは、「上古は毛皮を着て皮をかぶっていたが、後代の聖人が鳥獣に冠や角があるのを見て、冠と纓(冠の紐)を作り、黄帝が旒(玉すだれ)のついた冕を造り、初めて布帛を用いた」という。考えてみると、人の身はそれぞれあらわになるところがないようにしてあるのに、頭に至ってはその服がない。そこで首服(かぶりもの)を定めて、生まれつきの肌を隠し、礼に節度をつけた。そして冠に等級を定め、上下貴賤を分けたのである。およそ天子の冠を冕という。公卿・大夫に至るまで、その等級を分けて大礼の時にこれを用いる。『漢制度』に言う。「冕の作りは長さ一尺六寸、幅八寸、前が円く後ろが方形で、その旒はみな五色の糸の縄で五色の玉を貫き、旒ごとに十二の玉がついて冕から垂れる。六冕がある。裘冕は旒がなく、大裘を着て冕をかぶる。昊天上帝を祭る服である。衮冕は十二章で、衮衣の時の冕は十二旒、先王を祭る。鷩冕は九旒で先公を祭る。毳冕は七旒で山川を祭る。絺冕は五旒で社稷を祭る。玄冕は三旒で、もろもろの小さな祭りに用いる」。以上を六冕という。冠の制度は歴代で変わっている。詳しくは『文献通考』に出ている。『三才図会』にその形を図示している。士は皮弁をかぶる。冕の制度とは異なる。
解説
この章句が説くこと
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