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史記 / 封禅書

後五世,帝武乙慢神而震死。後三世,帝紂淫亂,武王伐之。由此觀之,始未嘗不肅祗,後稍怠慢也。周官曰,冬日至,祀天於南郊,迎長日之至;夏日至,祭地祗。皆用樂舞,而神乃可得而禮也。天子祭天下名山大川,五嶽視三公,四瀆視諸侯,諸侯祭其疆內名山大川。四瀆者,江、河、淮、濟也。天子曰明堂、辟雍,諸侯曰泮宮。周公既相成王,郊祀后稷以配天,宗祀文王於明堂以配上帝。自禹興而修社祀,后稷稼穡,故有稷祠,郊社所從來尚矣。自周克殷後十四世,世益衰,禮樂廢,諸侯恣行,而幽王為犬戎所敗,周東徙雒邑。秦襄公攻戎救周,始列為諸侯。秦襄公既侯,居西垂,自以為主少皞之神,作西畤,祠白帝,其牲用騮駒黃牛羝羊各一云。其後十六年,秦文公東獵汧渭之閒,卜居之而吉。文公夢黃蛇自天下屬地,其口止於鄜衍。文公問史敦,敦曰:「此上帝之徵,君其祠之。」於是作鄜畤,用三牲郊祭白帝焉。自未作鄜畤也,而雍旁故有吳陽武畤,雍東有好畤,皆廢無祠。或曰:「自古以雍州積高,神明之隩,故立畤郊上帝,諸神祠皆聚云。蓋黃帝時嘗用事,雖晚周亦郊焉。」其語不經見,縉紳者不道。作鄜畤後九年,文公獲若石雲,于陳倉北阪城祠之。

新字:後五世,帝武乙慢神而震死。後三世,帝紂淫乱,武王伐之。由此観之,始未嘗不粛祗,後稍怠慢也。周官曰,冬日至,祀天於南郊,迎長日之至;夏日至,祭地祗。皆用楽舞,而神乃可得而礼也。天子祭天下名山大川,五嶽視三公,四瀆視諸侯,諸侯祭其疆内名山大川。四瀆者,江、河、淮、済也。天子曰明堂、辟雍,諸侯曰泮宮。周公既相成王,郊祀后稷以配天,宗祀文王於明堂以配上帝。自禹興而修社祀,后稷稼穡,故有稷祠,郊社所従来尚矣。自周克殷後十四世,世益衰,礼楽廃,諸侯恣行,而幽王為犬戎所敗,周東徙雒邑。秦襄公攻戎救周,始列為諸侯。秦襄公既侯,居西垂,自以為主少皞之神,作西畤,祠白帝,其牲用騮駒黄牛羝羊各一云。其後十六年,秦文公東猟汧渭之閒,卜居之而吉。文公夢黄蛇自天下属地,其口止於鄜衍。文公問史敦,敦曰:「此上帝之徴,君其祠之。」於是作鄜畤,用三牲郊祭白帝焉。自未作鄜畤也,而雍旁故有呉陽武畤,雍東有好畤,皆廃無祠。或曰:「自古以雍州積高,神明之隩,故立畤郊上帝,諸神祠皆聚云。蓋黄帝時嘗用事,雖晩周亦郊焉。」其語不経見,縉紳者不道。作鄜畤後九年,文公獲若石雲,于陳倉北阪城祠之。

書き下し

後五世、帝武乙、神を慢りて震死す。後三世、帝紂淫乱にして、武王之を伐つ。此に由りて之を観れば、始めは未だ嘗て粛祗せずんばあらず、後稍く怠慢なり。周官に曰く、冬日至に、天を南郊に祀り、長日の至るを迎ふ。夏日至に、地祇を祭る。皆楽舞を用ひて、神乃ち得て礼す可きなり。天子は天下の名山大川を祭り、五岳は三公に視へ、四瀆は諸侯に視ふ。諸侯は其の疆内の名山大川を祭る。四瀆とは、江・河・淮・済なり。天子には明堂・辟雍と曰ひ、諸侯には泮宮と曰ふ。周公既に成王に相として、后稷を郊祀して以て天に配し、文王を明堂に宗祀して以て上帝に配す。禹の興りしより社祀を修め、后稷は稼穡す、故に稷祠有り、郊社の従りて来る所は尚し。周の殷に克ちし後十四世より、世益々衰へ、礼楽廃れ、諸侯恣に行ひ、而して幽王、犬戎の敗る所と為り、周、東して雒邑に徙る。秦の襄公、戎を攻めて周を救ひ、始めて列して諸侯と為る。秦の襄公既に侯となり、西垂に居り、自ら以為へらく少皞の神を主ると、西畤を作り、白帝を祠る。其の牲は騮駒・黄牛・羝羊各一を用ふと云ふ。其の後十六年、秦の文公、東して汧・渭の間に猟し、之に居らんことを卜して吉なり。文公、黄蛇の天より下りて地に属し、其の口の鄜衍に止まるを夢む。文公、史敦に問ふ。敦曰く、「此れ上帝の徴なり、君其れ之を祠れ」と。是に於て鄜畤を作り、三牲を用ひて白帝を郊祭す。未だ鄜畤を作らざるよりして、雍の旁に故より呉陽の武畤有り、雍の東に好畤有り、皆廃れて祠無し。或ひと曰く、「古より雍州は積みて高く、神明の隩なるを以て、故に畤を立てて上帝を郊し、諸神の祠皆聚まると云ふ。蓋し黄帝の時嘗て事を用ひ、晩周と雖も亦郊す」と。其の語は経に見えず、縉紳の者は道はず。鄜畤を作りて後九年、文公、石の若きものを獲て、陳倉の北阪の城に之を祠る。

現代語訳

その五代後の帝武乙(殷の王)は神をあなどって雷に打たれて死んだ。その三代後の帝紂は淫乱で、周の武王がこれを討った。これによって見ると、どの王朝も初めは神をつつしみ敬わなかったことはないが、後になるとしだいに怠るようになるのである。『周官』(周礼)には、冬至には南の郊外で天を祭って日が長くなり始めるのを迎え、夏至には地の神を祭るとある。どちらも音楽と舞を用い、それによって神を礼をもって迎えることができるのである。天子は天下の名山大川を祭り、五岳は三公に、四瀆(しとく、四大河)は諸侯に準じた格式で祭る。諸侯は自分の領内の名山大川を祭る。四瀆とは長江・黄河・淮水・済水である。天子の学び舎・祭殿は明堂・辟雍(へきよう)といい、諸侯のそれは泮宮(はんきゅう)という。周公は成王の補佐となると、后稷(周の始祖)を郊外で祭って天に配し、文王を明堂で祭って上帝に配した。禹が興ってから社(土地神)の祭を整え、后稷は農耕を始めたので稷(穀物神)の祠がある。郊祀・社祀の由来は非常に古いのである。周が殷に勝ってから十四代後には、周はますます衰え、礼楽は廃れ、諸侯は勝手にふるまい、幽王は犬戎(西方の異民族)に敗れて殺され、周は東の雒邑(洛陽)に移った。秦の襄公は戎を攻めて周を救い、初めて諸侯の列に加わった。襄公は諸侯となると西の辺境に住み、自分は少皞(しょうこう、西方の神)の神を祭る主だと考えて西畤(せいじ、祭場)を作り、白帝を祭った。その犠牲には黒いたてがみの赤毛の若駒・黄牛・雄羊を各一頭用いたという。その十六年後、秦の文公は東の汧水と渭水の間で狩りをし、そこに住むことを占うと吉と出た。文公は、黄色い蛇が天から下って地につながり、その口が鄜衍(ふえん)の地で止まる夢を見た。文公が史官の敦に尋ねると、敦は「これは上帝のしるしだ。君はこれを祭るべきです」と言った。そこで鄜畤を作り、牛・羊・豚の三牲を用いて白帝を郊祭した。鄜畤を作る以前から、雍の近くには昔から呉陽の武畤があり、雍の東には好畤があったが、どちらも廃れて祭られていなかった。ある者は言う。「昔から雍州は土地が高く、神々の奥まった住まいであるので、畤を立てて上帝を郊祭し、諸神の祠もみなここに集まっているという。おそらく黄帝の時代にも祭祀が行われ、周の末期になっても郊祭が行われていた」と。しかしその話は経書には見えず、教養ある士大夫は口にしない。鄜畤を作って九年後、文公は石のようなものを手に入れ、陳倉の北の坂の城でこれを祭った。

解説

殷の武乙が神をあなどって落雷で死に、紂が滅ぼされたところで、司馬遷は「初めはつつしみ、後に怠る」と歴代王朝に共通する型をまとめます。続いて『周礼』に基づき、天子と諸侯が祭る対象と格式の区別、周公が始祖后稷と文王を天や上帝に配した祭祀の体系を説明します。後半は舞台が秦に移り、西方の辺境から身を起こした秦が、白帝を祭る畤(祭場)を次々に作っていく経緯が語られます。夢や占いを根拠に新しい祭祀を立てる秦のやり方に対して、司馬遷は「経書に見えず、士大夫は口にしない」と距離を置いています。制度は始めた頃の緊張感が薄れると形だけが残ります。自分の組織の慣行が何のために始まったかを確かめ直すことは、今も意味のある作業です。

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