山鹿語類 / 士道・明衣服之制
然れば袴褶ともに隋唐の制にして、三代の制に非ず。本朝唐の法にのつとりて此制あつて、褶をひらみと訓して、袴の上に加と注解せり。表袴は禮服束帶の時用之、下袴は下結の時用ゆと、左府の名目に出たり。本朝の衣服も、古を變じて定制分明ならずして、頻りに身に宜を以て此用とす。すべて袴計りにかぎらず。諸の衣服唯便用をことゝして、禮容を學ぶこと非るを以て、其形自夷狄のごとくなりて、威儀更に不明。威儀如此時は心氣これにつれて其本を失て、皆捷徑を事とす。故に古人衣服の制において其禮を詳にして、若し非服を着するものあれば、次にこれを改めて、其威儀の過不及を論ぜる也。
新字:然れば袴褶ともに隋唐の制にして、三代の制に非ず。本朝唐の法にのつとりて此制あつて、褶をひらみと訓して、袴の上に加と注解せり。表袴は礼服束帯の時用之、下袴は下結の時用ゆと、左府の名目に出たり。本朝の衣服も、古を変じて定制分明ならずして、頻りに身に宜を以て此用とす。すべて袴計りにかぎらず。諸の衣服唯便用をことゝして、礼容を学ぶこと非るを以て、其形自夷狄のごとくなりて、威儀更に不明。威儀如此時は心気これにつれて其本を失て、皆捷径を事とす。故に古人衣服の制において其礼を詳にして、若し非服を着するものあれば、次にこれを改めて、其威儀の過不及を論ぜる也。
書き下し
然れば袴褶ともに隋唐の制にして、三代の制に非ず。本朝唐の法にのつとりて此制あつて、褶をひらみと訓して、袴の上に加と注解せり。表袴は礼服束帯の時用之、下袴は下結の時用ゆと、左府の名目に出たり。本朝の衣服も、古を変じて定制分明ならずして、頻りに身に宜を以て此用とす。すべて袴計りにかぎらず。諸の衣服唯便用をことゝして、礼容を学ぶこと非るを以て、其形自夷狄のごとくなりて、威儀更に不明。威儀如此時は心気これにつれて其本を失て、皆捷径を事とす。故に古人衣服の制において其礼を詳にして、若し非服を着するものあれば、次にこれを改めて、其威儀の過不及を論ぜる也。
現代語訳
そうであれば、袴も褶もともに隋唐の制度であって、三代の制度ではない。わが国は唐の法にのっとってこの制度があり、褶を「ひらみ」と訓じて、袴の上に加えるものと注解した。表袴は礼服・束帯の時に用い、下袴は下結(したくくり)の時に用いると、左府(左大臣)の『名目』に出ている。わが国の衣服も古を変えて、定まった制度がはっきりせず、しきりに身に都合のよいものを用いるようになった。すべて袴ばかりに限らない。もろもろの衣服がただ便利を第一として、礼の姿を学ぶことがないので、その形はおのずから夷狄のようになって、威儀はまったく明らかでない。威儀がこのようであるときは、心気もこれにつれてその本を失って、みな手軽さを事とするようになる。ゆえに古人は衣服の制度においてその礼を詳しくし、もし礼にかなわない服を着る者があれば、次にこれを改めさせて、その威儀の過不及を論じたのである。
解説
この章句が説くこと
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