山鹿語類 / 士道・明衣服之制
本朝衣服令、皆唐の制に准せり。故に袴の制又是にまたがへり。文献通考一百十二に曰、唐德宗貞元十五年、膳部郞中歸崇敬以百官朔望朝服袴非古禮、上疏云、按三代典禮、兩漢史藉、並無袴褶之制、亦未詳所起之由、由隋代以來、始有服者、請罷之、詔可。馬端臨曰、袴褶魏晋以來、以爲車駕親戎中外戒嚴之服、晋制雖有其說、而不言其制、然旣曰戒嚴服之、必戎服也、至隋煬帝時、巡游無度、詔百官從行服褶袴、軍旅間不便、遂令改服戎衣、爲紫緋綠靑之服、則所謂袴褶者、又似是褻衣、長袴非鞍馬征行所便者、與戒嚴之說不類。韻書訓褶爲袴、又爲袷也。然袴裳也、袷衣之交領也、則不知所謂袴褶者一物乎二物乎、唐褶服志、群臣服條內有緋褶大口袴、則似是二物、然不知所謂緋褶者衣乎裳乎、云々。
新字:本朝衣服令、皆唐の制に准せり。故に袴の制又是にまたがへり。文献通考一百十二に曰、唐徳宗貞元十五年、膳部郎中帰崇敬以百官朔望朝服袴非古礼、上疏云、按三代典礼、両漢史藉、並無袴褶之制、亦未詳所起之由、由隋代以来、始有服者、請罷之、詔可。馬端臨曰、袴褶魏晋以来、以為車駕親戎中外戒厳之服、晋制雖有其説、而不言其制、然既曰戒厳服之、必戎服也、至隋煬帝時、巡游無度、詔百官従行服褶袴、軍旅間不便、遂令改服戎衣、為紫緋緑青之服、則所謂袴褶者、又似是褻衣、長袴非鞍馬征行所便者、与戒厳之説不類。韻書訓褶為袴、又為袷也。然袴裳也、袷衣之交領也、則不知所謂袴褶者一物乎二物乎、唐褶服志、群臣服条内有緋褶大口袴、則似是二物、然不知所謂緋褶者衣乎裳乎、云々。
書き下し
本朝衣服令、皆唐の制に准せり。故に袴の制又是にまたがへり。文献通考一百十二に曰、唐徳宗貞元十五年、膳部郎中帰崇敬以百官朔望朝服袴非古礼、上疏云、按三代典礼、両漢史藉、並無袴褶之制、亦未詳所起之由、由隋代以来、始有服者、請罷之、詔可。馬端臨曰、袴褶魏晋以来、以為車駕親戎中外戒厳之服、晋制雖有其説、而不言其制、然既曰戒厳服之、必戎服也、至隋煬帝時、巡游無度、詔百官従行服褶袴、軍旅間不便、遂令改服戎衣、為紫緋緑青之服、則所謂袴褶者、又似是褻衣、長袴非鞍馬征行所便者、与戒厳之説不類。韻書訓褶為袴、又為袷也。然袴裳也、袷衣之交領也、則不知所謂袴褶者一物乎二物乎、唐褶服志、群臣服条内有緋褶大口袴、則似是二物、然不知所謂緋褶者衣乎裳乎、云々。
現代語訳
わが国の衣服令はみな唐の制度に準じている。ゆえに袴の制度もまたこれにまたがっている。『文献通考』巻百十二に言う。「唐の徳宗の貞元十五年、膳部郎中の帰崇敬が、百官が朔日・望日の朝服に袴(袴褶)を用いるのは古の礼ではないとして上疏した。『三代の典礼や両漢の史書を調べても、みな袴褶の制度はなく、起こった由来もはっきりしない。隋代以来、着る者が出てきたものである。どうかやめていただきたい』。詔して許した」。馬端臨は言う。「袴褶は魏晋以来、天子が自ら出陣するときや内外に戒厳するときの服とされてきた。晋の制度にその説はあるが、その形は言っていない。しかし戒厳のときに着るというからには、必ず戎服である。隋の煬帝の時、巡遊に際限がなく、百官に詔して随行には褶と袴を着させたが、軍旅の間では不便なので、ついに改めて戎衣を着させ、紫・緋・緑・青の服とした。とすれば袴褶というものは、また褻衣(ふだん着)のようでもあり、長い袴は鞍馬で遠征するのに便利なものではなく、戒厳の説とは合わない。韻書は褶を訓じて袴とし、また袷(あわせ)ともする。しかし袴は裳であり、袷は衣の襟の合わせ目であって、袴褶というのが一つの物なのか二つの物なのかわからない。唐の輿服志では、群臣の服の条に緋の褶と大口の袴があるので、二つの物のようである。しかし緋の褶というのが衣なのか裳なのかはわからない」云々。
解説
この章句が説くこと
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