山鹿語類 / 士道・愼容貌之動
されば禮を云ときは、吉凶軍賓嘉に付て各其禮容あり。飮食の禮あり。衣服の禮あり。家宅の禮あり。すべて遺問贈答の禮、其器物の取あつかひ、身の進退言の品あり。曲禮を詳に考へ、本朝古今の制を具にして、時義を以て用捨して、其宜きに可叶也。犬馬金玉刀劒酒食、各曲禮に其法を出して、今日これを用ひがたきが故に、こゝに不書也。樂は本朝久く音樂ありといへども、其制不詳。近來猿樂を翫んで武家の樂とす。其事甚捷徑にして、其所歌虛妄異端の說多。其所舞異樣過奢にして、非所實。其所操唯笛皷を以てして、わづかに竹革の音あり。尤古樂と不可同年語といへども、世俗これを以て習はしめぬ。下として變易すべからず。其歌曲の間又有實事の猿樂は、野曲淫聲の及ぶ處に非ず。故に以之爲伎樂も亦たれり。
新字:されば礼を云ときは、吉凶軍賓嘉に付て各其礼容あり。飲食の礼あり。衣服の礼あり。家宅の礼あり。すべて遺問贈答の礼、其器物の取あつかひ、身の進退言の品あり。曲礼を詳に考へ、本朝古今の制を具にして、時義を以て用捨して、其宜きに可叶也。犬馬金玉刀劒酒食、各曲礼に其法を出して、今日これを用ひがたきが故に、こゝに不書也。楽は本朝久く音楽ありといへども、其制不詳。近来猿楽を翫んで武家の楽とす。其事甚捷径にして、其所歌虚妄異端の説多。其所舞異様過奢にして、非所実。其所操唯笛鼓を以てして、わづかに竹革の音あり。尤古楽と不可同年語といへども、世俗これを以て習はしめぬ。下として変易すべからず。其歌曲の間又有実事の猿楽は、野曲淫声の及ぶ処に非ず。故に以之為伎楽も亦たれり。
書き下し
されば礼を云ときは、吉凶軍賓嘉に付て各其礼容あり。飲食の礼あり。衣服の礼あり。家宅の礼あり。すべて遺問贈答の礼、其器物の取あつかひ、身の進退言の品あり。曲礼を詳に考へ、本朝古今の制を具にして、時義を以て用捨して、其宜きに可叶也。犬馬金玉刀劒酒食、各曲礼に其法を出して、今日これを用ひがたきが故に、こゝに不書也。楽は本朝久く音楽ありといへども、其制不詳。近来猿楽を翫んで武家の楽とす。其事甚捷径にして、其所歌虚妄異端の説多。其所舞異様過奢にして、非所実。其所操唯笛鼓を以てして、わづかに竹革の音あり。尤古楽と不可同年語といへども、世俗これを以て習はしめぬ。下として変易すべからず。其歌曲の間又有実事の猿楽は、野曲淫声の及ぶ処に非ず。故に以之為伎楽も亦たれり。
現代語訳
それゆえ礼について言えば、吉・凶・軍・賓・嘉のそれぞれに礼の容がある。飲食の礼があり、衣服の礼があり、家宅の礼がある。すべて見舞いや贈答の礼、その器物の取り扱い、身の進退や言葉の品格がある。曲礼を詳しく考え、わが国の古今の定めを具体的に知って、時宜によって取捨し、その場にかなうようにすべきである。犬馬・金玉・刀剣・酒食については、それぞれ曲礼にその法が出ているが、今日これを用いがたいので、ここには書かない。楽については、わが国には久しく音楽があったが、その定めは詳らかでない。近ごろは猿楽(能楽)をもてはやして武家の楽としている。そのやり方ははなはだ手軽で、その歌うところには虚妄や異端の説が多い。その舞うところは異様で奢りが過ぎ、真実のものではない。その奏でるのはただ笛と鼓で、わずかに竹と革の音があるだけである。もとより古楽と同列に論じることはできないが、世間ではこれを習わせている。下の者として変えることはできない。その歌曲の中にも、また事実を題材にした猿楽は、卑俗でみだらな歌の及ぶところではない。だからこれを伎楽とするのもまた十分である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之四楽の一字は、聖人の屢言ふ所、必ず以有るなり。是れ学者の当に知るべき所なり。以て高遠にして及ぶべからずと為して廃棄すべからざるなり。蓋し礼楽は脩身の本なり。礼は敬のみ。楽は楽なり。二者は、斯須も身を去るべからざる所以なり。楽は是れ心の生理なり。常人と雖も亦た之有り。君子は楽しみて道に順ひ、道を以て欲を制す。則ち楽しみて乱れず。小人は楽しみて欲に順ひ、欲を以て道を忘る。則ち乱れて楽しまず。蓋し小人の楽しむ所は、真の楽に非ざるなり。故に君子にして而る後に楽を得。楽に非ざれば則ち以て君子と為すべからず。仁者は憂へず。楽と憂との消長を以て、君子小人分かる。
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『五常訓』巻之四・礼一礼記に云く、礼楽は斯須も身を去るべからず。君子の道、礼楽の二を以て、身ををさめ、人を教ふ。礼は心の恭敬を本として、万事身の行の上に節文あるを云ふ。楽とは心の和楽を本として、昔聖人の作りたまへる歌舞八音の音楽の文あるを云ふ。音楽は心の和をみちびくそなへなり。後代の淫楽の心をとらかすとは、大に同じからず。礼を以て身をつつしみ修め、楽を以て心をやはらげ楽む。此二の事、しばらくも身を離るべからずとなり。是古の教の法なり。後代には、礼楽の教伝らず。されど、心のつつしみと楽とは、今とても、しばらく忘るべからず。つつしみ楽の二は、互にならび行はれて、相そむかざるべし。礼勝てば、かた過ぎて、人と我との間和せず。楽勝てば、和か過ぎて、礼儀をうしなひて、悪しき方にながる。礼楽二ながらそなはりて、よき程の中道行はる。故に論語に、礼の用は和を貴しとすと云ふ。又曰く、行はれざる所有り、礼以て節すと云ふ。是礼楽の二を以て、身ををさめ、事を行ふ、よき程の道あるを云ふ。
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『五常訓』巻之四・礼一聖人礼楽を作りて、人に教へたまふは、本なき事を作り出したまふにあらず。凡礼は天地の序なり。序とは次第あるを云ふ。陰陽の気、時節にしたがひて次第あるは、天地の礼なり。楽は天地の和なり。和とは、陰陽の気、時にしたがひて和同するを云ふ。是天地の楽なり。聖人天地の序と和とに本づきて、礼楽を作り給ふ。故に礼記に曰、天高く地下く、万物散殊して、礼制行はる。流れて息まず、合同して化して、楽興る。是は礼楽の根源をいへり。礼の本源をいはば、天高く地ひきくして、各其位あり。日月星辰より、風雨霜雪、草木禽獣等の万物にいたるまで、各其形色をあらはし、各其分限かはり、各時節の序あり。是天地万物の上に、自然に、各高下、次第、品節わかれたり。
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『慎思録』巻之五礼楽は、聖人の人に教ふるの具なり。故に曰く、礼楽は斯須も身を去るべからず、と。蓋し礼楽に本有り文有り。礼楽の文は繁多なりと雖も、然れども礼の本は是れ一箇の敬、楽の本は是れ一箇の和なり。礼、之を外に表せば、則ち制度品節と為り、楽、之を外に表せば、則ち詠歌舞蹈と為る。所謂礼楽の文なり。本無ければ則ち立たず、文無ければ則ち行はれず。故に礼楽は本と文とを兼ねて全備と為す。礼勝れば則ち離る。故に楽有るを要す。楽勝れば則ち流る。故に礼有るを要す。二者相済ふべく、一を闕くべからざるなり。
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『慎思録』巻之四君子は礼楽を以て修身の本と為す。礼楽に本有り文有り。是れ礼楽の本を指して言ふ。斯須も身を去るべからざる所以なり。蓋し礼は恭敬を以て本と為し、楽は和楽を以て本と為す。文有る者は其の末なり。礼楽を以て身を修むる者は、須らく恭敬和楽並び行はれて、相悖らざるべし。文の如き者は、又其の助けなり。固より其の助け無かるべからざるなり。而れども之を以て専務と為すべからず。
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『五常訓』巻之四・礼即是天地の礼なり。聖人これに法とりて、礼を作り給へり。礼は序を以て主とすればなり。序あれば、上下、貴賤、親疎、長幼の位正しくして乱れず。楽の本源をいはば、天地の間、陰陽五行の気、古今四時にめぐり行はれて、しばらく止まず。其気和合して、万物化生す。是即天地の楽なり。聖人これに法とりて、楽を作り給ふ。楽は和を主とす。和けば、人我一同にしてそむかず。道理にしたがひて万事行はる。是礼楽の根源なり。凡聖人のをしへは、皆是天地の道を本とし、これを法として示し給ふ。天理の外に、別の教なし。ここを以て、程子も、儒者は天に本づくといへり。聖人の道は、即天地の道なり。聖人の教は、即天地の教なり。
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