山鹿語類 / 士道・愼容貌之動
而して辭氣は言語氣息のあらはるゝ處なり。玉藻曰、氣容肅。似不息也容經曰、妄咳唾疾言、嗟氣不順、皆禁也といへり。屏氣似不息者と云は、夫子の至尊に近づき玉ふの辭氣也。下氣怡聲と云は、孝子の父につかふるの禮容也。樂記曰、樂者音之所由生也、其本在人心之感於物也、是故其哀心感者、其聲噍以殺、其樂心感者、其聲嘽以緩、其喜心感者、其聲發以散、其怒心感者、其聲直以廉、其愛心感者、其聲和以柔、六者非性也、感於物而后動とあり。樂に出る處の音聲も、物に感じて其辭氣の發する處也。こゝを以みれば、辭氣のあらはるゝ、尤可愼也。呂榮公曰、氣象者、辭令容止、輕重疾徐、足以見之矣といへり。是各辭氣を所重なり。
新字:而して辞気は言語気息のあらはるゝ処なり。玉藻曰、気容粛。似不息也容経曰、妄咳唾疾言、嗟気不順、皆禁也といへり。屏気似不息者と云は、夫子の至尊に近づき玉ふの辞気也。下気怡声と云は、孝子の父につかふるの礼容也。楽記曰、楽者音之所由生也、其本在人心之感於物也、是故其哀心感者、其声噍以殺、其楽心感者、其声嘽以緩、其喜心感者、其声発以散、其怒心感者、其声直以廉、其愛心感者、其声和以柔、六者非性也、感於物而后動とあり。楽に出る処の音声も、物に感じて其辞気の発する処也。こゝを以みれば、辞気のあらはるゝ、尤可慎也。呂栄公曰、気象者、辞令容止、軽重疾徐、足以見之矣といへり。是各辞気を所重なり。
書き下し
而して辞気は言語気息のあらはるゝ処なり。玉藻曰、気容粛。似不息也容経曰、妄咳唾疾言、嗟気不順、皆禁也といへり。屏気似不息者と云は、夫子の至尊に近づき玉ふの辞気也。下気怡声と云は、孝子の父につかふるの礼容也。楽記曰、楽者音之所由生也、其本在人心之感於物也、是故其哀心感者、其声噍以殺、其楽心感者、其声嘽以緩、其喜心感者、其声発以散、其怒心感者、其声直以廉、其愛心感者、其声和以柔、六者非性也、感於物而后動とあり。楽に出る処の音声も、物に感じて其辞気の発する処也。こゝを以みれば、辞気のあらはるゝ、尤可慎也。呂栄公曰、気象者、辞令容止、軽重疾徐、足以見之矣といへり。是各辞気を所重なり。
現代語訳
そして辞気とは、言葉と息づかいの表れるところである。『礼記』玉藻篇に「気の容は粛(息をしていないかのように静か)」とあり、『容経』に「むやみに咳をし唾を吐き、早口でしゃべり、ため息をついて息が整わないのは、みな禁じる」とある。「息をひそめて、息をしていないかのようにする」というのは、孔子が至尊の君に近づかれるときの辞気である。「気を低くし声を和らげる」というのは、孝子が父に仕えるときの礼の容である。『礼記』楽記に「楽は音の生じるもとであり、その本は人の心が物に感じるところにある。だから哀しみの心が感じると、その声はせわしなく細る。楽しみの心が感じると、その声はゆったりと緩む。喜びの心が感じると、その声は高く散る。怒りの心が感じると、その声はまっすぐで角立つ。愛しむ心が感じると、その声は和らいで柔らかい。この六つは本性ではなく、物に感じてのち動くのである」とある。音楽に出る声もまた、物に感じて辞気が発するところである。このことから見れば、辞気の表れは最も慎むべきである。呂栄公(北宋の呂希哲)は「人の気象(人柄の趣き)は、言葉づかいや立ち居振る舞い、その軽重や速い遅いに、十分に見て取れる」と言った。これはそれぞれ辞気を重んじたものである。
解説
この章句が説くこと
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