五常訓 / 巻之四・礼
一君子は、耳に非禮の音樂淫聲をきかず。目に非禮なる見物を見ず。口に非禮の事をいはず。身に非禮のうごきをなさず。飮食を愼み、節にして過さず。皆是禮の制する所なり。一口の過なきより、身の過なきは難く、身の過なきより、心の過なき事は難し。三のもの、ともに禮を以て正さずんばあるべからず。
新字:一君子は、耳に非礼の音楽淫声をきかず。目に非礼なる見物を見ず。口に非礼の事をいはず。身に非礼のうごきをなさず。飲食を慎み、節にして過さず。皆是礼の制する所なり。一口の過なきより、身の過なきは難く、身の過なきより、心の過なき事は難し。三のもの、ともに礼を以て正さずんばあるべからず。
書き下し
一君子は、耳に非礼の音楽淫声をきかず。目に非礼なる見物を見ず。口に非礼の事をいはず。身に非礼のうごきをなさず。飲食を慎み、節にして過さず。皆是礼の制する所なり。一口の過なきより、身の過なきは難く、身の過なきより、心の過なき事は難し。三のもの、ともに礼を以て正さずんばあるべからず。
現代語訳
君子は、耳に非礼の音楽やみだらな声を聞きません。目に非礼な見物を見ません。口に非礼なことを言いません。身に非礼な動きをしません。飲食を慎み、節度を守って過ごしません。みなこれは礼の制するところです。口の過ちがないことより、身の過ちがないことは難しく、身の過ちがないことより、心の過ちがないことは難しいものです。この三つは、ともに礼によって正さなければなりません。
解説
君子は非礼なものを聞かず見ず言わず行わず、飲食も節度を守ると述べ、口・身・心の過ちをなくすことの難しさを段階的に示しています。言葉を慎むより行いを慎む方が難しく、行いを慎むより心を正す方がさらに難しいという観察は鋭いものです。外に出る言葉や行動だけでなく、その源である心まで礼で整えよという教えは、克己復礼の巻之三の議論と響き合います。表面を取り繕うだけでなく内面から整えることの大切さを教えてくれます。
この章句が説くこと
礼慎み過ち心君子
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