武士道 / 第六章 禮儀・礼道の要は心を練るにあり
余も亦た或はスベンサー氏の社會學論理法に倣ひて、我國の禮法の源頭に溯り、其由つて來れる進化の次第經路を繹ぬるを得ん。されど斯の如きは本書の任とする所にあらずして、子は唯だ爰に禮を嚴守することの含有せる德育を主眼として、之を說かんとするものなり。既に云へるが如く、禮の道は精緻を極めて、委曲纎巧となりたるよりして、遂に作法を異にせる多岐の流派を生ずるに至りたりと雖、此等は要するに其大旨に於て竟に歸を同じうせざるは無く、其極意は小笠原流禮法の宗家たる小笠原清務氏の語る所によりて明かなり。曰く、『禮道の要は、心を練るにあり、禮を以て端坐すれば、兒人劒を取りて向ふとも害を加ふること能はず』」と。
新字:余も亦た或はスベンサー氏の社会学論理法に倣ひて、我国の礼法の源頭に溯り、其由つて来れる進化の次第経路を繹ぬるを得ん。されど斯の如きは本書の任とする所にあらずして、子は唯だ爰に礼を厳守することの含有せる徳育を主眼として、之を説かんとするものなり。既に云へるが如く、礼の道は精緻を極めて、委曲繊巧となりたるよりして、遂に作法を異にせる多岐の流派を生ずるに至りたりと雖、此等は要するに其大旨に於て竟に帰を同じうせざるは無く、其極意は小笠原流礼法の宗家たる小笠原清務氏の語る所によりて明かなり。曰く、『礼道の要は、心を練るにあり、礼を以て端坐すれば、児人劒を取りて向ふとも害を加ふること能はず』」と。
書き下し
予も亦た、或はスペンサー氏の社会学論理法に倣ひて、我国の礼法の源頭に溯り、其由つて来れる進化の次第経路を繹ぬるを得ん。されどかくの如きは本書の任とする所にあらずして、予はただここに、礼を厳守することの含有せる徳育を主眼として、之を説かんとするものなり。既に云へるが如く、礼の道は精緻を極めて、委曲繊巧となりたるよりして、遂に作法を異にせる多岐の流派を生ずるに至りたりと雖、此等は要するに其大旨に於て、ついに帰を同じうせざるは無く、其極意は、小笠原流礼法の宗家たる小笠原清務氏の語る所によりて明かなり。曰く、『礼道の要は、心を練るにあり。礼を以て端坐すれば、兇人、剣を取りて向ふとも、害を加ふること能はず』と。
現代語訳
私もまた、スペンサー氏の社会学の論理法に倣って、わが国の礼法の源に遡り、そこから来た進化の道筋をたどることはできるでしょう。しかしそれは本書の任ではなく、私はただここで、礼を厳しく守ることに含まれている徳育を主眼として説こうとしています。すでに言ったように、礼の道は精緻を極めて細かく繊細になり、ついに作法を異にする多くの流派を生むに至りましたが、これらは要するにその大筋において帰するところを同じくし、その極意は、小笠原流礼法の宗家である小笠原清務氏の語るところによって明らかです。いわく、礼道の要は心を練ることにある。礼をもって端座すれば、凶人が剣を取って向かってきても、害を加えることができない、と。
解説

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