山鹿語類 / 士道・愼容貌之動
而して容貌の品大槩こゝに所記也。容貌之動あり。動各有禮。所謂非禮勿動とは、此心なるべし。而して動かすの法、平生居處の節あり。是坐するの法なり。容經曰、坐以經立之容、財不差而足不跌、視平衡曰經坐、微俯視尊者之膝、曰共坐、仰首視不出尋常之內、曰肅坐、廢首低肘、曰卑坐、坐容也といへり。曲禮曰、坐毋箕、坐如尸と云は、坐の法なり。居不容と云は、孔子の事をのべたり。こゝを以て云ときは、朝廷燕居吉凶軍賓嘉ともに、皆坐するの法ありぬべし。尤五倫の交り、其貴敬の坐、平敵の坐、心易き時の坐、各其心得あるべし。
新字:而して容貌の品大槩こゝに所記也。容貌之動あり。動各有礼。所謂非礼勿動とは、此心なるべし。而して動かすの法、平生居処の節あり。是坐するの法なり。容経曰、坐以経立之容、財不差而足不跌、視平衡曰経坐、微俯視尊者之膝、曰共坐、仰首視不出尋常之内、曰粛坐、廃首低肘、曰卑坐、坐容也といへり。曲礼曰、坐毋箕、坐如尸と云は、坐の法なり。居不容と云は、孔子の事をのべたり。こゝを以て云ときは、朝廷燕居吉凶軍賓嘉ともに、皆坐するの法ありぬべし。尤五倫の交り、其貴敬の坐、平敵の坐、心易き時の坐、各其心得あるべし。
書き下し
而して容貌の品大槩こゝに所記也。容貌之動あり。動各有礼。所謂非礼勿動とは、此心なるべし。而して動かすの法、平生居処の節あり。是坐するの法なり。容経曰、坐以経立之容、財不差而足不跌、視平衡曰経坐、微俯視尊者之膝、曰共坐、仰首視不出尋常之内、曰粛坐、廃首低肘、曰卑坐、坐容也といへり。曲礼曰、坐毋箕、坐如尸と云は、坐の法なり。居不容と云は、孔子の事をのべたり。こゝを以て云ときは、朝廷燕居吉凶軍賓嘉ともに、皆坐するの法ありぬべし。尤五倫の交り、其貴敬の坐、平敵の坐、心易き時の坐、各其心得あるべし。
現代語訳
さて容貌の種類のあらましは、ここまでに記した。次に容貌の動きがある。動きにはそれぞれ礼がある。いわゆる「礼にあらざれば動くことなかれ」とは、この意味であろう。そして動かし方には、平生の居処(すまい方)の節度がある。これが坐る法である。『容経』に「坐るには経立(正しい立ち姿)の容のまま、体はずれず足はくずさない。視線を水平にするのを経坐という。少しうつむいて尊者の膝を見るのを共坐という。首を上げて視線を一尋の内から出さないのを粛坐という。首を垂れ肘を低くするのを卑坐という(坐の容)」とある。『礼記』曲礼篇に「坐るときに箕(両足を投げ出す)のようにしてはならない。坐るときは尸(祭りの神の依り代となる人)のように端正に」とあるのは坐の法である。『論語』に「家にいるときは容を作らなかった」とあるのは、孔子のことを述べたものである。これからすれば、朝廷にも燕居にも、吉・凶・軍・賓・嘉(五礼)のいずれにも、みな坐る法があるはずである。とりわけ五倫の交わりでは、尊び敬う相手の前での坐り方、対等の相手との坐り方、気楽な時の坐り方と、それぞれに心得があるべきである。
解説
この章句が説くこと
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