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山鹿語類 / 士道・安命

凡そ人の世に立事は、第一に時をうるにあるべし。第二に其秀でつべき家に生るゝにあり。第三に其人其時に相應の氣質あるもの也。此三段相叶ふて、初めて時をうるになれり。此三つ一つとして我作爲しつべき處なし。唯天然自然のことわり也。その間少の才覺を以て、少しの富をうることありと云へども、五十步百步のたがひ計りにして、貧富所をかゆるに至る不可也。孔子曰。富而可求也。雖執鞭之士。吾亦爲之。如不可求。從吾所好との玉へるは、富求めて可得んば、身に不似合役義なりと云とも、不辭してつとめつべし、左つとめても不叶ものとならば、天の命の有ることなれば、唯我好む所の義理に可安の心也。

新字:凡そ人の世に立事は、第一に時をうるにあるべし。第二に其秀でつべき家に生るゝにあり。第三に其人其時に相応の気質あるもの也。此三段相叶ふて、初めて時をうるになれり。此三つ一つとして我作為しつべき処なし。唯天然自然のことわり也。その間少の才覚を以て、少しの富をうることありと云へども、五十歩百歩のたがひ計りにして、貧富所をかゆるに至る不可也。孔子曰。富而可求也。雖執鞭之士。吾亦為之。如不可求。従吾所好との玉へるは、富求めて可得んば、身に不似合役義なりと云とも、不辞してつとめつべし、左つとめても不叶ものとならば、天の命の有ることなれば、唯我好む所の義理に可安の心也。

書き下し

凡そ人の世に立事は、第一に時をうるにあるべし。第二に其秀でつべき家に生るゝにあり。第三に其人其時に相応の気質あるもの也。此三段相叶ふて、初めて時をうるになれり。此三つ一つとして我作為しつべき処なし。唯天然自然のことわり也。その間少の才覚を以て、少しの富をうることありと云へども、五十歩百歩のたがひ計りにして、貧富所をかゆるに至る不可也。孔子曰。富而可求也。雖執鞭之士。吾亦為之。如不可求。従吾所好との玉へるは、富求めて可得んば、身に不似合役義なりと云とも、不辞してつとめつべし、左つとめても不叶ものとならば、天の命の有ることなれば、唯我好む所の義理に可安の心也。

現代語訳

およそ人が世に立つことは、第一に時を得ることにある。第二にその人が秀でるべき家に生まれることにある。第三にその人がその時に相応する気質を持っていることである。この三つが合わさって、はじめて時を得ることになる。この三つは一つとして自分が作り為せるところがない。ただ天然自然の道理である。その間に少しの才覚で少しの富を得ることがあるとしても、五十歩百歩の違いにすぎず、貧富が入れ替わるほどにはならない。孔子が「富が求めて得られるものなら、鞭を執る御者の役でもわたしはしよう。もし求めて得られないものなら、わたしの好むところに従おう」(『論語』述而篇)と言われたのは、富が求めて得られるものであるなら、身に似合わない役目であっても辞退せずに勤めるべきであり、そう勤めてもかなわないものなら、天の命があることなのだから、ただ自分の好むところの義理に安んじるべきだ、という心である。

解説

人が世に立つには、時を得ること、しかるべき家に生まれること、その時に合う気質を持つことの三つが要るが、いずれも自分では作れない、と素行は言う。小才で多少の富を得ても五十歩百歩にすぎない。そこで『論語』の、富が求めて得られるなら御者でもするが、得られないなら好む道に従うという孔子の言葉を引く。努力の否定ではなく、作為の及ぶ範囲を見極め、及ばない部分は天命として受け入れて義理に安んじるという分別である。成功を自分の手柄と思い込みがちな者への戒めでもある。

この章句が説くこと

士道安命天命時富貴論語

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