和俗男子訓 / 巻二・稽古を怠らぬ姿と、引き際の判断
一江戸にて、ある役者、四歳より四十にあまるまで、毎日太鼓を、おこたりなく、稽古して、上手の名を得たり、ある者彼が倦ざることを感じけるに、答云、われ親妻子を、心やすくやしなふは、此太鼓故なり、これを、おろそかにしては、主君に對し、藝に對して、冥加おそろしと、いひけるとなり、思ふに、武士には、藝をまなぶこと、かくのごとくにするものをきかず、官務しげきものといへども、暇日またすくなからず、しかるを、うか〱と、歲月をくらすは、いと殘おほし、一武士は六十才にいたらば、實子あらば勿論、なくば、養子して、退休すべし、五十に及てすら、筋力漸くおとろふ、況や六旬をや、馬を馳、劔を擊こと、心にまかすべからず、家業他におとらば、すみやかに、仕を致すべし、しかるを、白髪を被り、腰を屈めながら、壯年の士にまじはりて、ることなきは、退休の所をわきまへざるなり、親族あらば、いさめて退かしむべし、但しこれは、武を業とするものゝ事、其他は此限りにあらず、
新字:一江戸にて、ある役者、四歳より四十にあまるまで、毎日太鼓を、おこたりなく、稽古して、上手の名を得たり、ある者彼が倦ざることを感じけるに、答云、われ親妻子を、心やすくやしなふは、此太鼓故なり、これを、おろそかにしては、主君に対し、芸に対して、冥加おそろしと、いひけるとなり、思ふに、武士には、芸をまなぶこと、かくのごとくにするものをきかず、官務しげきものといへども、暇日またすくなからず、しかるを、うか〱と、歳月をくらすは、いと残おほし、一武士は六十才にいたらば、実子あらば勿論、なくば、養子して、退休すべし、五十に及てすら、筋力漸くおとろふ、況や六旬をや、馬を馳、剣を撃こと、心にまかすべからず、家業他におとらば、すみやかに、仕を致すべし、しかるを、白髪を被り、腰を屈めながら、壮年の士にまじはりて、ることなきは、退休の所をわきまへざるなり、親族あらば、いさめて退かしむべし、但しこれは、武を業とするものゝ事、其他は此限りにあらず、
書き下し
一江戸にて、ある役者、四歳より四十にあまるまで、毎日太鼓を、おこたりなく、稽古して、上手の名を得たり、ある者彼が倦ざることを感じけるに、答云、われ親妻子を、心やすくやしなふは、此太鼓故なり、これを、おろそかにしては、主君に對し、藝に對して、冥加おそろしと、いひけるとなり、思ふに、武士には、藝をまなぶこと、かくのごとくにするものをきかず、官務しげきものといへども、暇日またすくなからず、しかるを、うか〱と、歲月をくらすは、いと殘おほし、一武士は六十才にいたらば、實子あらば勿論、なくば、養子して、退休すべし、五十に及てすら、筋力漸くおとろふ、況や六旬をや、馬を馳、劔を擊こと、心にまかすべからず、家業他におとらば、すみやかに、仕を致すべし、しかるを、白髪を被り、腰を屈めながら、壯年の士にまじはりて、ることなきは、退休の所をわきまへざるなり、親族あらば、いさめて退かしむべし、但しこれは、武を業とするものゝ事、其他は此限りにあらず、
現代語訳
江戸で、ある役者が、四歳から四十を過ぎるまで、毎日、太鼓を怠らず稽古して、上手の名を得ました。ある者が、彼が倦まないことに感心して尋ねると、役者は、私が親や妻子を安らかに養っていられるのはこの太鼓のおかげです、これをおろそかにしては、主君に対しても、芸に対しても、冥加が恐ろしい、と言ったということです。思うに、武士には、芸を学ぶのにこのようにする者を聞きません。公務の忙しい者でも、暇な日は少なくありません。それなのに、うかうかと歳月を暮らすのは、たいへん惜しいことです。また、武士は六十歳に至ったならば、実子があればもちろん、なければ養子をして、退いて休むべきです。五十に及ぶだけでも、筋力はようやく衰えます。まして六十ならなおさらです。馬を走らせ、剣を撃つことも、心のままにならないでしょう。家業が他の人に劣るなら、速やかに職を辞すべきです。それなのに、白髪を被り、腰を屈めながら、壮年の士にまじわって、(底本で字が欠けている)ことのないのは、退き際をわきまえていないのです。親族がいれば、諫めて退かせなさい。ただし、これは武を業とする者のことで、その他はこの限りではありません。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・公孫丑章句下孟子蚔蛙に謂ひて曰く、「子の霊丘を辞して士師を請ふは、似たり。其の以て言ふ可きが為なり。今既に数月なり、未だ以て言ふ可からざるか。」蚔蛙王に諫めて用ひられず、臣たることを致して去る。斉人曰く、「蚔蛙の為にする所以は、則ち善し。自ら為にする所以は、則ち吾知らざるなり。」公都子以て告ぐ。曰く、「吾之を聞けり。官守有る者は、其の職を得ざれば則ち去り、言責有る者は、其の言を得ざれば則ち去る。我に官守無く、我に言責無きなり。則ち吾が進退、豈に綽綽然として余裕有らざらんや。」
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孟子・公孫丑章句下孟子、齊を去り、休に居る。公孫丑、問いて曰く、「仕えて祿を受けざるは、古の道か。」曰く、「非なり。崇に於いて、吾、王に見ゆるを得たり。退いて去る志有り。變ずるを欲せず。故に受けざるなり。繼いで師命有り。以て請う可からず。齊に久しきは、我が志に非ざるなり。」
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『武治提要』傳璽・第12段死の人に於ること甚易して、又甚難し。或は省察たらずして業を半にし、或は死に臨て遺敎を俄になさんとするがごとき、大丈夫の勤にあらず。或は正殿に薨せずして、婦人女子の手に死し、或は重く浮屠を信して、後事の禮の甚厚からんことを期するもの、皆これ武勇の薄き處にして、武智の不明より生ず。爰に至て百歲の武事始て休す。以てゆるかせにすべからず。
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史記 范雎蔡沢列伝身の服する所の者七十余城、功已に成れり、而して遂に剣を賜はりて杜郵に死す。呉起は楚の悼王の為に法を立て、大臣の威重を卑減し、無能を罷め、無用を廃し、不急の官を損じ、私門の請ひを塞ぎ、楚国の俗を一にし、游客の民を禁じ、耕戦の士を精にし、南のかた楊越を収め、北のかた陳・蔡を并せ、横を破り従を散じ、馳説の士をしてその口を開く所無からしめ、朋党を禁じて以て百姓を励まし、楚国の政を定め、兵は天下に震ひ、威は諸侯を服す。功已に成れり、而して卒に枝解せらる。大夫種は越王の為に深謀遠計し、会稽の危ふきを免れ、亡を以て存と為し、辱に因りて栄と為し、草を墾き邑に入れ、地を辟き穀を殖やし、四方の士を率ゐ、上下の力を専らにし、句践の賢を輔け、夫差の讎に報い、卒に勁呉を擒にす。越をして霸を成さしむ。功已に彰れて信なり、句践終に負きてこれを殺す。此の四子の者は、功成りて去らず、禍此に至る。此れ所謂信びて詘する能はず、往きて返る能はざる者なり。范蠡これを知り、超然として世を辟け、長く陶朱公と為る。君独り夫の博する者を観ずや。或いは大いに投ぜんと欲し、或いは功を分かたんと欲す。此れ皆君の明らかに知る所なり。今、君秦に相たり、計は席を下らず、謀は廊廟を出でずして、坐して諸侯を制し、利は三川に施し、以て宜陽を実たし、羊腸の険を決し、太行の道を塞ぎ、また范・中行の涂を斬り、六国をして合従するを得ざらしめ、桟道千里、蜀漢に通じ、天下をして皆秦を畏れしむ。秦の欲得たり、君の功極まれり、此れまた秦の功を分かつの時なり。是くの如くにして退かずんば、則ち商君・白公・呉起・大夫種是れなり。吾これを聞く、『水に鑒みる者は面の容を見、人に鑒みる者は吉と凶とを知る』と。書に曰く『成功の下には、久しく処るべからず』と。四子の禍、君何ぞ居らんや。
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史記 越王句践世家越王曰く、「奈何」と。曰く、「楚の三大夫九軍を張り、北のかた曲沃・於中を囲み、以て無仮の関に至る者三千七百里。景翠の軍、北のかた魯・斉・南陽に聚まる。分つこと此より大なる者有らんや。且つ王の求むる所の者は、晋・楚を闘はしむるなり。晋・楚闘はずんば、越の兵起たず。是れ二五を知りて十を知らざるなり。此の時楚を攻めずんば、臣是を以て越の大は王たらず、小は伯たらざるを知る。復讎・龐・長沙は楚の粟なり。竟沢陵は楚の材なり。越、兵を窺はせて無仮の関を通ぜば、此の四邑の者は上りて郢に貢事せざらん。臣之を聞く、王を図りて王たらざるも、其の敝は以て伯たるべしと。然り而して伯たらざる者は、王道失へばなり。故に願はくは大王の転じて楚を攻めんことを」と。是に於て越遂に斉を釈きて楚を伐つ。楚の威王兵を興して之を伐ち、大いに越を敗り、王無彊を殺し、尽く故の呉の地を取りて浙江に至り、北のかた斉を徐州に破る。而して越此を以て散じ、諸族子立つを争ひ、或いは王と為り、或いは君と為り、江南の海上に浜し、楚に服朝す。後七世にして、閩君搖に至り、諸侯を佐けて秦を平ぐ。漢の高帝復た搖を以て越王と為し、以て越の後を奉ぜしむ。東越・閩君は、皆其の後なり。范蠡、越王句践に事へ、既に身を苦しめ力を戮せ、句践と深く謀ること二十余年、竟に呉を滅ぼし、会稽の恥に報い、北のかた兵を淮に渡して以て斉・晋に臨み、中国に号令し、以て周室を尊ぶ。句践以て霸たり、而して范蠡は上将軍と称せらる。還りて国に反り、范蠡以為へらく、大名の下には以て久しく居り難く、且つ句践の人と為りは与に患ひを同じくすべきも、与に安きに処り難しと。書を為りて句践に辞して曰く、「臣聞く、主憂ふれば臣労し、主辱めらるれば臣死すと。昔者君王会稽に辱めらる。死せざりし所以は、此の事の為なり。今既に以て恥を雪ぐ。臣請ふ会稽の誅に従はん」と。句践曰く、「孤将に子と国を分ちて之を有たんとす。然らずんば、将に誅を子に加へんとす」と。
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史記 范雎蔡沢列伝蔡沢笑ひて謝して去り、その御者に謂ひて曰く、「吾粱を持し肥を刺歯し、馬を躍らせて疾く駆け、黄金の印を懐き、紫綬を要に結び、人主の前に揖譲し、肉を食らひ富貴なること、四十三年にして足れり」と。去りて趙に之き、逐はる。韓・魏に之き、釜鬲を涂に奪はるるに遇ふ。応侯の鄭安平・王稽を任じて皆重罪を秦に負ひ、応侯内に慚づるを聞き、蔡沢乃ち西して秦に入る。将に昭王に見えんとし、人をして宣言せしめて以て応侯を感怒せしめて曰く、「燕の客蔡沢は、天下の雄俊弘弁の智士なり。彼一たび秦王に見えば、秦王必ず君を困しめて君の位を奪はん」と。応侯聞きて曰く、「五帝三代の事、百家の説、吾既にこれを知る。衆口の弁、吾皆これを摧く。是れ悪んぞ能く我を困しめて我が位を奪はんや」と。人をして蔡沢を召さしむ。蔡沢入り、則ち応に揖す。応侯固より快からず、これに見ゆるに及び、また倨る。応侯因りてこれを譲めて曰く、「子嘗て宣言して我に代はりて秦に相たらんと欲すと、寧ろこれ有るか」と。対へて曰く、「然り」と。応侯曰く、「請ふその説を聞かん」と。蔡沢曰く、「吁、君何ぞこれを見ることの晩きや。夫れ四時の序、功を成す者は去る。夫れ人生まれて百体堅彊、手足便利、耳目聡明にして心聖智なるは、豈に士の願ひに非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。蔡沢曰く、「仁を質とし義を秉り、道を行ひ徳を施し、志を天下に得、天下懐楽敬愛してこれを尊慕し、皆願ひて以て君王と為す、豈に弁智の期に非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。蔡沢また曰く、「富貴顕栄、万物を成理し、各々その所を得しむ。性命寿長、その天年を終へて夭傷せず。天下その統を継ぎ、その業を守り、これを無窮に伝ふ。名実純粋、沢千里に流れ、世世これを称して絶ゆる無く、天地と終始す。豈に道徳の符にして聖人の所謂吉祥善事なる者に非ずや」と。応侯曰く、「然り」と。

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