史記 / 越王句践世家
越王曰:「柰何?」曰:「楚三大夫張九軍,北圍曲沃、於中,以至無假之關者三千七百里,景翠之軍北聚魯、齊、南陽,分有大此者乎?且王之所求者,鬬晉楚也;晉楚不鬬,越兵不起,是知二五而不知十也。此時不攻楚,臣以是知越大不王,小不伯。復讎、龐、長沙,楚之粟也;竟澤陵,楚之材也。越窺兵通無假之關,此四邑者不上貢事於郢矣。臣聞之,圖王不王,其敝可以伯。然而不伯者,王道失也。故願大王之轉攻楚也。」於是越遂釋齊而伐楚。楚威王興兵而伐之,大敗越,殺王無彊,盡取筆呉地至浙江,北破齊於徐州。而越以此散,諸族子爭立,或爲王,或爲君,濱於江南海上,服朝於楚。後七世,至閩君搖,佐諸侯平秦。漢髙帝復以搖爲越王,以奉越後。東越,閩君,皆其後也。范蠡事越王句踐,旣苦身力,與句踐深謀二十餘年,竟滅呉,報會稽之恥,北渡兵於淮以臨齊、晉,號令中國,以尊周室,句踐以霸,而范蠡稱上將軍。還反國,范蠡以爲大名之下,難以久居,且句踐爲人可與同患,難與處安,爲書辭句踐曰:「臣聞主憂臣勞,主辱臣死。昔者君王辱於會稽,所以不死,爲此事也。今旣以雪恥,臣請從會稽之誅。」句踐曰:「孤將與子分國而有之。不然,將加誅于子。」
新字:越王曰:「柰何?」曰:「楚三大夫張九軍,北囲曲沃、於中,以至無仮之関者三千七百里,景翠之軍北聚魯、斉、南陽,分有大此者乎?且王之所求者,闘晋楚也;晋楚不闘,越兵不起,是知二五而不知十也。此時不攻楚,臣以是知越大不王,小不伯。復讎、龐、長沙,楚之粟也;竟沢陵,楚之材也。越窺兵通無仮之関,此四邑者不上貢事於郢矣。臣聞之,図王不王,其敝可以伯。然而不伯者,王道失也。故願大王之転攻楚也。」於是越遂釈斉而伐楚。楚威王興兵而伐之,大敗越,殺王無彊,尽取筆呉地至浙江,北破斉於徐州。而越以此散,諸族子争立,或為王,或為君,浜於江南海上,服朝於楚。後七世,至閩君揺,佐諸侯平秦。漢高帝復以揺為越王,以奉越後。東越,閩君,皆其後也。范蠡事越王句践,既苦身力,与句践深謀二十余年,竟滅呉,報会稽之恥,北渡兵於淮以臨斉、晋,号令中国,以尊周室,句践以覇,而范蠡称上将軍。還反国,范蠡以為大名之下,難以久居,且句践為人可与同患,難与処安,為書辞句践曰:「臣聞主憂臣労,主辱臣死。昔者君王辱於会稽,所以不死,為此事也。今既以雪恥,臣請従会稽之誅。」句践曰:「孤将与子分国而有之。不然,将加誅于子。」
書き下し
越王曰く、「奈何」と。曰く、「楚の三大夫九軍を張り、北のかた曲沃・於中を囲み、以て無仮の関に至る者三千七百里。景翠の軍、北のかた魯・斉・南陽に聚まる。分つこと此より大なる者有らんや。且つ王の求むる所の者は、晋・楚を闘はしむるなり。晋・楚闘はずんば、越の兵起たず。是れ二五を知りて十を知らざるなり。此の時楚を攻めずんば、臣是を以て越の大は王たらず、小は伯たらざるを知る。復讎・龐・長沙は楚の粟なり。竟沢陵は楚の材なり。越、兵を窺はせて無仮の関を通ぜば、此の四邑の者は上りて郢に貢事せざらん。臣之を聞く、王を図りて王たらざるも、其の敝は以て伯たるべしと。然り而して伯たらざる者は、王道失へばなり。故に願はくは大王の転じて楚を攻めんことを」と。是に於て越遂に斉を釈きて楚を伐つ。楚の威王兵を興して之を伐ち、大いに越を敗り、王無彊を殺し、尽く故の呉の地を取りて浙江に至り、北のかた斉を徐州に破る。而して越此を以て散じ、諸族子立つを争ひ、或いは王と為り、或いは君と為り、江南の海上に浜し、楚に服朝す。後七世にして、閩君搖に至り、諸侯を佐けて秦を平ぐ。漢の高帝復た搖を以て越王と為し、以て越の後を奉ぜしむ。東越・閩君は、皆其の後なり。范蠡、越王句践に事へ、既に身を苦しめ力を戮せ、句践と深く謀ること二十余年、竟に呉を滅ぼし、会稽の恥に報い、北のかた兵を淮に渡して以て斉・晋に臨み、中国に号令し、以て周室を尊ぶ。句践以て霸たり、而して范蠡は上将軍と称せらる。還りて国に反り、范蠡以為へらく、大名の下には以て久しく居り難く、且つ句践の人と為りは与に患ひを同じくすべきも、与に安きに処り難しと。書を為りて句践に辞して曰く、「臣聞く、主憂ふれば臣労し、主辱めらるれば臣死すと。昔者君王会稽に辱めらる。死せざりし所以は、此の事の為なり。今既に以て恥を雪ぐ。臣請ふ会稽の誅に従はん」と。句践曰く、「孤将に子と国を分ちて之を有たんとす。然らずんば、将に誅を子に加へんとす」と。
現代語訳
越王は「どういうことか」と言った。使者は言った。「楚の三人の大夫が九軍を展開し、北は曲沃・於中を囲み、無仮の関まで三千七百里にわたって布陣している。景翠(けいすい)の軍は北の魯・斉・南陽方面に集まっている。兵力の分散として、これ以上のものがあろうか。それに王が求めているのは、晋と楚を戦わせることである。晋と楚が戦わなければ越の兵は起たないというのは、二五が十になることを知らないようなものだ(半分ずつは分かっても全体が分かっていない)。この時に楚を攻めなければ、越は大きくは王者になれず、小さくは覇者にもなれないと、私は確信する。復讎・龐(ほう)・長沙は楚の穀倉であり、竟沢陵は楚の木材の産地である。越が兵を出して無仮の関を通れば、この四つの邑は郢(えい、楚の都)に貢ぎ物を納めなくなるだろう。私はこう聞いている。王者を目指して王者になれなくても、その成果で覇者にはなれる。それでも覇者になれないのは、王者の道を失ったからだ、と。どうか大王、矛先を転じて楚を攻められよ」。そこで越は斉を放っておいて楚を討った。楚の威王は兵を起こして越を迎え撃ち、越を大いに破って王無彊を殺し、かつての呉の地をすべて奪って浙江(せっこう)にまで至り、北では斉を徐州で破った。越はこれによって四散し、一族の子らが位を争い、ある者は王となり、ある者は君となって、江南の海辺に散らばり、楚に服属して朝貢した。その後七代を経て閩君(びんくん)搖(よう)に至り、諸侯を助けて秦を平定した。漢の高帝(劉邦)は再び搖を越王とし、越の祖先の祭祀を継がせた。東越や閩君は、みなその子孫である。范蠡は越王句践に仕え、身を苦しめ力を尽くして、句践と深く謀ること二十余年、ついに呉を滅ぼして会稽の恥をすすぎ、北へ淮水を越えて兵を進め斉・晋に臨み、中原に号令して周王室を尊んだ。句践はそれによって覇者となり、范蠡は上将軍と称された。国に帰ると、范蠡はこう考えた。大きな名声のもとには長く身を置きがたい。それに句践の人柄は、苦難を共にすることはできても、安楽を共にすることは難しい。そこで書状をしたためて句践に別れを告げた。「私はこう聞いている。主君が憂えれば臣は苦労し、主君が辱められれば臣は死ぬ、と。かつて君王は会稽で辱めを受けられた。私がそのとき死ななかったのは、この(呉を討つ)事のためであった。今すでに恥はすすがれた。どうか私に会稽の辱めの罪に服させていただきたい」。句践は言った。「わたしは国を分けてそなたと共に治めるつもりである。さもなければ、そなたを誅するぞ」。
解説
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史記 越王句践世家句践卒し、子の王鼫与立つ。王鼫与卒し、子の王不寿立つ。王不寿卒し、子の王翁立つ。王翁卒し、子の王翳立つ。王翳卒し、子の王之侯立つ。王之侯卒し、子の王無彊立つ。王無彊の時、越、師を興して北のかた斉を伐ち、西のかた楚を伐ち、中国と彊を争ふ。楚の威王の時に当たり、越北のかた斉を伐つ。斉の威王、人をして越王に説かしめて曰く、「越、楚を伐たずんば、大は王たらず、小は伯たらず。越の楚を伐たざる所以を図るに、晋を得ざるが為なり。韓・魏は固より楚を攻めず。韓の楚を攻むるや、其の軍を覆し、其の将を殺さば、則ち葉・陽翟危ふし。魏も亦其の軍を覆し、其の将を殺さば、則ち陳・上蔡安からず。故に二晋の越に事ふるや、軍を覆し将を殺すに至らず、馬汗の力も效さず。晋を得るを重んずる所の者は何ぞや」と。越王曰く、「晋に求むる所の者は、刃を頓し兵を接するに至らず、而るを況んや城を攻め邑を囲むに于てをや。願はくは魏以て大梁の下に聚め、願はくは斉の兵を南陽・莒の地に試み、以て常・郯の境に聚めば、則ち方城の外は南せず、淮・泗の閒は東せず、商・於・析・酈・宗胡の地、夏路以左は、以て秦に備ふるに足らず、江南・泗上は以て越を待つに足らず。則ち斉・秦・韓・魏、志を楚に得るなり。是れ二晋戦はずして地を分ち、耕さずして之を穫るなり。此を之れ為さずして、刃を河山の閒に頓して以て斉・秦の用と為る。待つ所の者此の如く其れ計を失へり。奈何ぞ其れ此を以て王たらんや」と。斉の使者曰く、「幸なるかな越の亡びざるや。吾其の智を用ふることの目の如く、豪毛を見て其の睫を見ざるを貴ばざるなり。今王、晋の計を失ふを知りて、自ら越の過ちを知らず。是れ目論なり。王の晋に待つ所は、馬汗の力有るに非ざるなり、又与に軍を合はせ和を連ぬべきに非ざるなり、将に之を待ちて以て楚の衆を分たんとするなり。今楚の衆已に分る、何ぞ晋に待たん」と。
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史記 越王句践世家越王句践は、其の先は禹の苗裔にして、夏后帝少康の庶子なり。会稽に封ぜられ、以て禹の祀を奉守す。文身断髪し、草萊を披きて邑す。後二十余世にして、允常に至る。允常の時、呉王闔廬と戦ひて相怨み伐つ。允常卒し、子の句践立つ、是を越王と為す。元年、呉王闔廬、允常の死せるを聞き、乃ち師を興して越を伐つ。越王句践、死士をして戦ひを挑ましむ。三行にして呉の陳に至り、呼びて自剄す。呉の師之を観る。越因りて呉の師を襲撃し、呉の師檇李に敗れ、呉王闔廬を射傷つく。闔廬且に死せんとし、其の子夫差に告げて曰く、「必ず越を忘るる毋かれ」と。三年、句践、呉王夫差日夜兵を勒し、且に以て越に報いんとすと聞き、越、呉の未だ発せざるに先んじて往きて之を伐たんと欲す。范蠡諫めて曰く、「不可なり。臣聞く、兵は凶器なり、戦ひは逆徳なり、争ひは事の末なりと。陰かに逆徳を謀り、好んで凶器を用ひ、身を末とする所に試みるは、上帝之を禁ず、行ふ者は利あらず」と。越王曰く、「吾已に之を決せり」と。遂に師を興す。呉王之を聞き、悉く精兵を発して越を撃ち、之を夫椒に敗る。越王乃ち余兵五千人を以て会稽に保棲す。呉王追ひて之を囲む。越王、范蠡に謂ひて曰く、「子に聴かざるを以ての故に此に至る。之を為すこと奈何」と。蠡対へて曰く、「満を持する者は天と与にし、傾くを定むる者は人と与にし、事を節する者は地を以てす。辞を卑くし礼を厚くして以て之に遺れ。許さずんば、身づから之と市せよ」と。
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史記 越王句践世家且つ夫れ天与ふるに取らざれば、反りて其の咎を受く。『柯を伐る者は其の則遠からず』と。君、会稽の蚯を忘るるか」と。句践曰く、「吾子の言を聴かんと欲するも、吾其の使者に忍びず」と。范蠡乃ち鼓して兵を進めて曰く、「王已に政を執事に属せり。使者去れ。不ずんば且に罪を得んとす」と。呉の使者泣きて去る。句践之を憐み、乃ち人をして呉王に謂はしめて曰く、「吾王を甬東に置き、百家に君たらしめん」と。呉王謝して曰く、「吾老いたり。君王に事ふること能はず」と。遂に自殺す。乃ち其の面を蔽ひて曰く、「吾面の以て子胥に見ゆる無し」と。越王乃ち呉王を葬りて太宰嚭を誅す。句践已に呉を平げ、乃ち兵を以て北のかた淮を渡り、斉・晋の諸侯と徐州に会し、貢を周に致す。周の元王、人をして句践に胙を賜ひ、命じて伯と為さしむ。句践已に去り、淮の南を渡り、淮上の地を以て楚に与へ、呉の侵す所の宋の地を宋に帰し、魯に泗東方百里を与ふ。是の時に当たり、越の兵江・淮の東に横行し、諸侯畢く賀し、号して霸王と称す。
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史記 越王句践世家子胥大いに笑ひて曰く、「我、而の父をして霸たらしめ、我又若を立つ。若初め呉国の半ばを分ちて我に予へんと欲するも、我受けず。已にして、今若反りて讒を以て我を誅す。嗟乎、嗟乎、一人固より独り立つこと能はず」と。使者に報じて曰く、「必ず吾が眼を取りて呉の東門に置け、以て越兵の入るを観ん」と。是に於て呉、嚭に政を任ず。居ること三年、句践、范蠡を召して曰く、「呉已に子胥を殺し、導諛する者衆し。可なるか」と。対へて曰く、「未だ可ならず」と。明年の春に至り、呉王北のかた諸侯に黄池に会し、呉国の精兵王に従ひ、惟だ独り老弱と太子と留守す。句践復た范蠡に問ふ。蠡曰く「可なり」と。乃ち習流二千人、教士四万人、君子六千人、諸御千人を発し、呉を伐つ。呉の師敗れ、遂に呉の太子を殺す。呉、急を王に告ぐ。王方に諸侯に黄池に会す。天下の之を聞かんことを懼れ、乃ち之を秘す。呉王已に黄池に盟ひ、乃ち人をして厚礼して以て成を越に請はしむ。越自ら度るに亦未だ呉を滅ぼすこと能はず、乃ち呉と平ぐ。其の後四年、越復た呉を伐つ。呉の士民罷弊し、軽鋭は尽く斉・晋に死す。而して越大いに呉を破り、因りて留まりて之を囲むこと三年、呉の師敗れ、越遂に復た呉王を姑蘇の山に棲ましむ。呉王、公孫雄をして肉袒膝行して前ましめ、成を越王に請ひて曰く、「孤臣夫差敢へて腹心を布く。異日嘗て罪を会稽に得たり。夫差敢へて命に逆らはず、君王と成すことを得て以て帰れり。今君王玉趾を挙げて孤臣を誅す。孤臣惟だ命を是れ聴かん。意ふに亦会稽の孤臣の罪を赦せしが如くせんと欲するか」と。句践忍びず、之を許さんと欲す。范蠡曰く、「会稽の事は、天、越を以て呉に賜ふも、呉取らず。今天、呉を以て越に賜ふ。越其れ天に逆らふべけんや。且つ夫れ君王蚤く朝し晏く罷むるは、呉の為に非ずや。之を謀ること二十二年、一旦にして之を棄つ、可ならんや。
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史記 越王句践世家二歳にして呉、蠡を帰す。句践、会稽より帰りて七年、其の士民を拊循し、用ひて以て呉に報いんと欲す。大夫逢同諫めて曰く、「国新たに流亡し、今乃ち復た殷給す。繕飾して利を備へば、呉必ず懼れん。懼るれば則ち難必ず至らん。且つ鷙鳥の撃つや、必ず其の形を匿す。今夫れ呉は兵を斉・晋に加へ、怨みは楚・越に深く、名は天下に高く、実は周室を害す。徳少なくして功多く、必ず淫して自ら矜らん。越の為に計るに、斉に結び、楚に親しみ、晋に附きて、以て呉を厚くするに若くは莫し。呉の志広ければ、必ず戦ひを軽んぜん。是れ我其の権を連ね、三国之を伐ち、越其の弊に承ずれば、克つべきなり」と。句践曰く、「善し」と。居ること二年、呉王将に斉を伐たんとす。子胥諫めて曰く、「未だ可ならず。臣聞く、句践は食に味を重ねず、百姓と苦楽を同じくすと。此の人死せずんば、必ず国の患と為らん。呉に越有るは、腹心の疾なり。斉の呉に与けるは、疥癬なり。願はくは王、斉を釈きて越を先にせよ」と。呉王聴かず、遂に斉を伐ち、之を艾陵に敗り、斉の高・国を虜にして以て帰る。子胥を譲む。子胥曰く、「王喜ぶ毋かれ」と。王怒り、子胥自殺せんと欲す。王聞きて之を止む。越の大夫種曰く、「臣、呉王の政を観るに驕れり。請ふ試みに之に粟を貸らんことを嘗み、以て其の事を卜せん」と。貸らんことを請ふ。呉王与へんと欲し、子胥与ふる勿かれと諫む。王遂に之に与ふ。越乃ち私かに喜ぶ。子胥言ひて曰く、「王諫めを聴かず、後三年にして呉其れ墟とならんか」と。太宰嚭之を聞き、乃ち数々子胥と越の議を争ひ、因りて子胥を讒して曰く、「伍員は貌は忠なれども実は忍人なり。其の父兄をすら顧みず、安んぞ能く王を顧みんや。王前に斉を伐たんと欲するや、員彊く諫む。已にして功有り、是を用て反りて王を怨む。王、伍員に備へずんば、員必ず乱を為さん」と。逢同と共に謀り、之を王に讒す。王始め従はず。乃ち子胥を斉に使はす。其の子を鮑氏に託するを聞き、王乃ち大いに怒りて曰く、「伍員果たして寡人を欺けり」と。役より反り、人をして子胥に属鏤の剣を賜ひて以て自殺せしむ。
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